愛する方を迎えるには

聖書箇所: 箴言31:10-31

主がこの国を訪れる。まさに罪が熟し滅びに瀕しているこの地を救うため、再臨の時と同様、主ご自身が栄光をもって臨まれる。
主はリバイバルのご計画をもって、この国に主ご自身が来られるということを私達に語り続けてくださっています。
だから今主は私達に問われます。
私達がどのような心で主を迎えようとしているのかということを。
それは、かつてソロモンが王位に着いた時、ソロモンに敵対するか、ソロモンを王として喜んで迎えるか、そのソロモンと自分との関係で裁きが定められたのと同様に、主をどのように迎えるかということは、私達がこの後迎える結果を大きく異ならせるのです。
また、主の愛する兄弟姉妹に対して、私達がどのようであるのかということも同じように主は見ておられ、自らの欲望のために、互いにのろい、傷つけ、流した血の責任をも、主はこの時私達に問われるでしょう。
私達の戦いは血肉による戦いではありません。
サタンと神の支配という霊における戦いです。主はその戦いを誰かの血を流すのではなく、ご自身の血を流して愛の内に勝ち取ったのです。
また、パウロはその主の思いを持って、伝道の道のりを進んでいきましたが、自らの命をも進んでささげるべくエルサレムに向かった先で、彼は捕らえられ、以降全く異なる方法によって伝道の道を進むようになりました。
それは自らの力には全くよらず、神の力によってのみ進められる世界宣教の道でした。
それまでの命の危険を犯しながらではなく、ローマ兵に捕らえられるというマイナスの状況がむしろローマ兵によって命を守られるという神の守りの内に成し遂げられたのです。
そして裁判の席において、次々に時の権力者達に証しという形で宣教を行い、とうとう彼はカイザルの前にまで至ったのです。
主はご自身のこの霊的戦い、サタンとの支配の戦いをサマリアのリバイバルという形でご自身の勝利を現しました。
しかし主イエスがその時サマリアの女に何をしていたのか誰も弟子達にはわからなかったように、この霊の戦いとそこに注がれている神の救霊の思いは霊の目を開いて見るのでなければ、理解できないのです。
そしてただ一人の魂を真に神の元に獲得したことから、神のこの戦いはサマリア全体へのリバイバルとして、神の圧倒的勝利の内に波のごとく拡大していったのです。
霊の戦いは主ご自身の戦いです。
ダビデがサウルの手から逃れ王となり勝利を得るその戦いは、まさにその詩篇に語られている通り、主ご自身の戦いであり、そのような戦いが天の内に引き上げられ、その御手の内に如何に平安に安らいだ中での天的戦いであるかということを表しています。
主は今まさに私達の元に来られる時、私達が真にキリストの花嫁として、成熟した愛を持ち、夫に誠実に仕え、また神の家族達を支え建て上げ、主がこの地を治めるのを共に支える者として、主を喜ばせる者となって迎えることを望んでおられます。
主をどのような心で迎える者となるか、今回はそのようなテーマで主は語られます。主の御言葉に信仰によって霊の目を開き、心から耳を傾けていきたいと思います。


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