恐れず主に近づけ

2016年06月26日
聖書箇所: 詩篇84篇

主は私達の真の逃れの町となり、罪は血を求め命を求めて緋のように赤くとも、ご自身の血の覆いの内に私達を匿い、この町を(我が贖いの覆いの内を)出るなと、語られます。
むしろ私達自身が主と離れないなら、隅のかしら石の元に生ける石なって一つとされ、主の宮とされて、やがて天国の完成する日に私達が主をお入れする神殿となり永遠にその内に主が住まうことに先駆けて、今主が私達の内に住まい満ちみちてくださる。
私達はその中に永遠にささげるべき天の礼拝に入れられ、永遠の賛美を主にささげつつこの地に生きることがゆるされているのです。
まさに私達は主の「満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた【ヨハネ1:16】」のであり、主はこの恵みの中から、つまりこの御国における主との永遠の交わりの中から出てはならないと、さらに私達にやさしく語りかけられるのです。
主は私達が大いなる者、強い者、賢い者で、優れた者であるから、この恵みを与えられるのではありません。
むしろ私達が何も無い者であり、主は私達の弱さをよく知られるからこそ、ご自身の恵みの御座に近づけと語られます。
主はそこでご自身の愛する花嫁である私達にあわれみを注ぎ、御手を伸べて、この地の全てをも私達に与えて、共にこの地を治めさせようとまで言われるのです。何と大いなる恵みを注いでくださるのでしょう。
ご自身の全てを十字架の上に与えてくださった方の、真の望みがこのように私達をあわれみ、ご自身の全てを与えて私達を満たすことであるのです。
ならば、私達の本当の望みは何でしょうか。
この小さき者を主と共に永遠に住まわせてくださいと、「すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください。【詩篇84:3】」と主にただ一つの願いを願い出ることではないでしょうか。
この主の永遠の愛の中から片時も離れることがないように共に祈りましょう。


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御国の備え

2016年06月19日
聖書箇所: 2コリント3:16-18

神の国への入り口は、最初から、救いを受けたその時から私達に与えられています。
それは十字架の上に主と共に死を迎えたその時から。
神の国は朽ちないものの国であり、朽ちるものはそれを継ぐことはできませんから、朽ちるものが神の国に入ることはできません。
ですから、主は私達が死を迎えこの地を去る時は、この地に生まれた時と同様に、何も持って行くことができないように、この地においても、心の内に何かを持って神の国に入ることができないことを、明確に語っています。
つまり全ての弟子達は全てを捨てて神に従っていくように。それこそが私達の日々負う十字架であることを。
しかし、それに続いて得るものは私達の想像を遙かに超えた神の国です。
まさに私達は死を味わうことなく永遠の御国に今入れられている者であり、やがて私達は一瞬にしてラッパの音と共に栄光の体によみがえり、神の御元に引き寄せられます。
そこにあるのは主イエスとの婚礼の時であり、また全世界に婚宴の時が訪れる時、私達はキリストの花嫁としてキリストの傍らの座で、主と共に全地を治めるものとなるのです。
主はこの御言葉を信じ受け入れて歩む者こそ、永遠の命を持って神の国に入る者であり、また私達の内に生きる聖霊は、神の国を今前味として味わわせ、御国に入らしめるよう、私達を今日も導くのです。
主はこの全てが主イエスの十字架の上で私達に注がれた、始めの愛の中に与えられていることを、私達に教えておられます。
その愛を受けた者は、主を愛するより他にないと、主のために生きる道を歩んで行きます。
その愛は日毎に強く成熟するもの、決して一日で成るものではありませんが、やがては死をも恐れぬ強い愛となって、その愛が熟す時私達を神の御元へと引き上げるのです。
まさに主はこのように私達に、最初から、そしてあらゆる必要を備え、私達を神の国に導き入れようと、心から切望されているのです。
まさにそれこそ、主の求められる信仰の歩み。
今回は主のご用意された神の国への入り方について、共に分かち合いたいと思います。
祈りを持って、この神の霊の御言葉に耳を傾けて参りましょう。


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信仰で勝利

2016年06月12日
聖書箇所: ローマ8:31-39

神と共に歩んだ聖書の登場人物は、目に見える現実を超えて、目に見えない主のビジョンを持って、歩みを進めて行き、神の計画を成就していきました。
その目こそ、信仰によってのみ見ることをゆるされる、信仰の目、霊の目です。
それは世にある人の目、肉の目、世の基準、常識、経験で推し量る目とは全く異なるもの。
この信仰の目によって、神の見ている神のまなざしをもって、現実(逆境)を超えて、その現実の結論たる神の計画、神の御心を見て、それが如何に人の目に不可能に見えることでも、神だけを信じて勝利を勝ち取るよう、主は語ります。
もしも人の目によって歩むのであれば、むしろその進む先は神の希望を失った滅びへの道であり、神を退けるが故に神の計画から退けられる道でもあるのです。
今私達は神の大きな御心を、この時代に、この地に見て、現実のものとして成就しようと、そのリバイバルの約束を与えられ、歩んでいます。
だからこそ、どちらの目で先を見て歩むのかと言うことが重要なこととなるでしょう。
主はこの先にもう一度天地を震うと、朽ちないものだけを残すために朽ちるべき全てのものを震われます。
しかし、私達はこの中にあって、永遠に朽ちることのない、決して何者にも震うことのない神の国を受け継いでいるのです。
まさにリバイバルの時、主が来られる時、このことはこの地に於いて現実になるでしょう。
何を信じて歩むのか?
主を信じる信仰は、この中に私達を大勝利者とするでしょう。

今回は全てに勝利をもたらす信仰の目と、それで見たものによって歩む信仰者の道について、共に考えていきたいと思います。


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信仰を願い求める

2016年06月05日
聖書箇所: マルコ9:14ー29

主は今の時代をご覧になって「ああ、なんという不信仰な時代であろう【マルコ9:19】」と語られます。
何と多くの人々が、それはクリスチャンでさえ、偽りの内に神への信仰を覆われてしまっていることでしょう。
神は不信仰の中では御業を行うことができません。
だからこそ、主は決してこのことに妥協することなく、私達の信仰を求められるのです。
それは愛に基づく主への信頼(信仰)。
私達はこの信仰を私達の努力によって得たものではありません。主の一方的な私達への愛によって、十字架にご自身をささげ、全てを与えてくださった、その始めの愛の中に、すでに種としてそれを与えてくださっています。
まさに私達が最初に持ったこのからし種ほどの信仰がやがて大きく成長していく、だから私達は安心してこの愛に信頼すれば良いのです。
そしてこの神への信頼のゆえに、私達は全てのことを神に大胆に祈り求めることができます。
まさに私達が生きる全てのことを、「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。【詩篇81:10】」と主は言われる。
主はこの空の器なる私達をご自身で満ちみち溢れさせたい神なのです。
そして私達はこの信仰によって、祈り望んでいることを、すでに得たこととして確信することができるのです。全ての願いが主の御手の内に受け取られたことを。
その時私達は主を喜び、主に賛美をささげ、まだ受け取っていないことをすでに受けたこととして感謝することができるのです。
そのような信仰を主は大変喜ばれます。
それは主の愛に生きる者にのみできることだから、主はそこに大いなる御業をなされ、ご自身の大いなる栄光を現されます。
主はこうしてご自身の器(教会)を通して、御業を行うことを定めました。
それは私達こそが神の永遠の住まい、主の宮、神の永遠の都であるからです。
主はそこに満ちみち溢れ、その都の王座から全地を統べ治められます。
これは奥義であり、同時に今の私達教会の本来のこの地に於ける役割です。
神の計画はすごく大きなものです。だからそれだけ私達にも大きな信仰が必要となります。
でも恐れないでください。
主はこの信仰は主から与えられた賜物であると言われ、まさに私達の内に住まう聖霊は主イエスが父に祈る時のように「『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊【ガラテヤ4:6】」なのです。何と幸いなことでしょう。主が与えてくださっているのです。
そして、さらに主は「不信仰なわたしを、お助けください【マルコ9:24】」と祈ることを私達にゆるしてくださっています。
だから私達は主にこの信仰自体を大胆に求めることができるのです。
今回は信仰とは何かについて共に分かち合いながら、この信仰を主に願い求める時を持ちたいと思います。


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