【ルカ7:11-17】
そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。
町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。
主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。
そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。
すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。
人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。
イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった。
これはナインという町で主イエスがなされたよみがえりの奇跡です。
しかしこの奇跡の御業のきっかけが、一人息子を亡くした母をあわれまれてというところに私達は深い慰めを受けます。
そして、そこで現された御業はひとりの若者をよみがえらせたばかりか、恐らくその母を含め、この御業を見た多くの者達をやがて神の前によみがえらせることとなったことでしょう。
なぜなら、この当時ユダヤの人々は、死んだ後人がよみがえることについて、信じる人と信じない人に分かれていましたが(参照 使徒23:6-10)、ここに主はよみがえりの御業を現されることにより、その論争に決定的な結論を証したからです。
もしも、よみがえりがないなら、人は死後よみに下り、そこに永遠に閉じこめられるだけで何の希望もありません。この地にいることのみが希望であり、死後にはひとかけらも希望がないことになります。
しかし、もしも死後よみがえりがあるのであれば、神(主イエス)を信じる者は永遠のいのちを持つことになるのです。
【コロサイ1;18】
そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
【ヨハネ11:25,26】
イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」
そして、そのことは死後よみがえって、キリストと共に永遠に住まう、完成された神の国(天国)にある永遠の希望が与えられることとなるのです。(1コリント15:12-28)
何と驚くべきことでしょうか。このような奇跡をただ通りすがった名もない者のために、主はなされたのです。いや、主の内には実は明確な動機が存在しました。主は「深い同情を寄せられ(13節)」たのです。決して通りすがっただけではなく、主は愛してくださっていたのです。
神は私達の頭の毛の数さえご存知であり(ルカ12:7)、私達が生まれる前この世の日が一日もない時から私達を知り、愛してくださっているのです(詩篇139:13-17)。
そして、私達によみがえりの命を与え、永遠の命にあずかる絶大なる希望を与えたいと切望されたのです。だから、主イエスを救い主と信じる私達にこのことを与えてくださったのです。
あなたは主イエスのよみがえりを信じていますか?
あなた自身のよみがえりを本当に信じていますか?
あなたに与えられているこの永遠の命という絶大な希望を信じていますか?
主は今もあなたのそばにいて、この希望をあなたに本当の意味で与えたいと願い、深く愛しておられます。
あなたを愛するがゆえにその命を十字架にささげ、またよみがえってあなたにご自身のよみがえりの命を与えるほどに。
よみがえりの主に、命の主に、その御手に、永遠の愛にすがりましょう。


自らのはかり

2016年09月29日
【ルカ6:37,38】
人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
神の国の基準はこの地においては非常に不思議です。つまりこの世の常識とは反しているということです。
およそ、神の国の常識をもってこの世に歩むのであれば非常識で愚かな人と言われるでしょう。
なぜなら、この世の常識はこの世の君サタンの支配にある考えであり、最初から神に反するための考えだからです。そのサタンに欺かれ人が罪を犯したからこそこの地はのろわれ、常に不条理に占拠されています。その不条理にあって必要悪というサタンの偽りの考えを受け入れなければ、生きていけないと人は思い込まされしまうのです。それがこの世の常識です。
しかし、神の国における法則、真理はこれを真っ向から否定します。そして神の性質の溢れる神の国をこの地上に顕現するために、神の御言葉を預けられた者達がいかにこの地上で歩むべきかをはっきりと指し示します。
それは中庸という、どっちつかずの選択をゆるさず、世に生きるか、神にあって生きるかを明確に選択することを迫るのです。
測りなわは神にあります。人はそれを持っていないからこそ、神の測りなわでなければ善悪をはかることはできません。なぜなら善とは神のみにある性質であり、この神にないものの性質が全て悪だからです。
しかし善悪を知る木から実を食べてしまった人間には自らが神のようになろうとするため自らを善とし、善も悪も自らの基準をもってはかろうとするのです。
そしてそのはかりは他人をはかるとき、自らをもそれによってはかるのです。
自らが裁かれる定めにあるサタンが人間同士に植えた罪にあるジレンマがここに存在します。罪ある者が自らを正しいとして互いを裁きに定め、共に滅びに定めようとする。これこそサタンにあるこの世の常識です。
これに明確に逆らう神の国の法則は十字架にあるゆるしです。互いにこの十字架にあってゆるし合うなら、神の国はこの十字架の下に確かに現われるのです。
また、神の国は神の豊かさを分かち合いそれによって豊かさがさらに満ち溢れるという性質を持っています。それはイエスがこの地上で行われた五千人の給食を見れば一目瞭然でしょう。主が祝福されたわずか五つのパンと二匹の魚が、分かち合われて豊かになり、そこにいた五千人以上の人々を満たすという奇跡に至った。これこそが神の国の性質です。
なぜなら、私達は豊かさに満ちみちておられるイエスご自身の豊かさを分かち合うことで満ち溢れる。これが神の豊かさだからです。
そして私達はこの豊かさを分かち合うために弟子達が五千人の給食の際行ったように自らの手で自らに与えられたものを配る必要があるのです。これが神の国を与えられたに者達に神から授けられた役目です。
私達の持ちゆる物は全て神から与えられたものです。その豊かさは私個人を豊かにするためのものではなく、その豊かさをパンと魚を配るように、互いに与えて初めて豊かさが増し加わるのです。この豊かさを分かち合うのが教会です。
キリストの満ちみちた豊かさが満ち溢れており、それをキリストが自ら血と肉を分かち、ご自身の豊かさを分かち合うために、自らのからだとして教会を建てたのです。
【エペソ1:23】
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。
【エペソ3:17-19】
また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
これが神の性質に満ち溢れた神の国の現れです。
私達は自らのはかりを神の国の法則、真理の内に持つのか、世の常識に持つのか。思っている以上に真剣にこのことに向き合う必要があります。
なぜなら、そのことが私達の信仰者としての歩みを自らのはかりではかることとなるのですから

目を離せない真実

2016年09月28日
【ヨハネ1:29】
見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
全ての人の生涯はこの方を知るために存在します。この神の小羊を見るために。
それはイエスキリストを知らず、また信じるに至らない人々においてもそうですが、私達イエスを信じる者達においてもなおさらそうです。
私達のためにほふられた神の小羊たる主イエスキリスト、ここから生涯目を離さないために私達は生きているのです。
全ての生きとし生けるもの、息のある全ての物はこの方に注目しています。
なぜなら、この方にあって全てのものが完成する、全ての終局、結論はこの方にあるのです。
いやすでにその結論は十字架の上で完成したのです。
神の全ての計画は既に十字架の上で価払われた贖いの御業により、完成したのです。
神の子の血のあまりの価高さは、新しい契約、新しい天と新しい地が完成するための全ての代価を払い切ったのです。そして今やその完成した約束を受け取る時を、待ち望むのみにより確実に私達に与えられるのです。
だから、このアルファでありオメガである方、始めであり終わりである方に、全てのものは注目し、その目を離さないのです。
【黙示録5:9-14】
彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、
大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。
永遠の天の礼拝の中心で、「ほふられた小羊」にその目は集中し、その大いなる御業の故に、この方に全ての者達の賛美は集中します。
あなたはこの大いなる意味を本当に知っているでしょうか?
いや私達はこの大いなる意味を知るために生きているのです。
ですから、私達の生涯はイエスキリストの十字架のあまりに大きな愛と、その大いなる意味を、生涯を通して知るためにあるのです。
私達の罪が如何に深く、また弱く小さく悩み、あるいは病み、あるいは傷つき、悲しみ、人生にはいろいろな場面があるでしょう。
しかし、私達はそのたびに主イエスの十字架を見上げるとき、その全てを十字架に背負い死につけられた方の姿を見て、全ての重荷は取り去られ、彼のよみがえりを見て、私達は全てのことに勝利をするのです。
私達の生涯に十字架の死とよみがえりが繰り返し現れ、それを私達が繰り返し体験する中で、私達は永遠に渡って世界の中心である、重要なこのことを見つめ、知り続けるのです。
ほふられた小羊という、驚くべき神の御業を。
【ヘブル12:2】
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
だからこの方から永遠に目を離すことなく、愛する兄弟姉妹、共にこの価値ある道を歩んでいこうではありませんか。

【1コリント 1:19-21】
すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」 と書いてある。
知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。
それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
人はいつまで経っても自らの知恵を誇ります。
多くのクリスチャンでさえ、自らの救いと信仰の歩みが勤勉さとその上に重ねられた知恵によるかのように、人の知恵に依存しています。自らの愚かさを知り、神のあわれみに依り頼む(依存する)人は本当に少ないようです。
わかりやすく言うのであれば、宣教の方法や語られる内容、また信仰告白に至るまでの有効な学びなど、あらゆる人の作り出した知恵により、救いに到達されるかのような錯覚と、そこを原点とするからこそ、信仰を自らの勤勉さ、努力、意志により、打ち立てて行くものと勘違いしていく。信仰者として学び、それを実行する意志と行動を重ねる毎日の上に、はじめて信仰は守られ、信仰のある種の到達に至ると誤解している人が多いようです。
しかし、神はこの人の知恵を「神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。」とあるように信仰の最初の段階からその全段階、全域に渡るまで無意味なものとされました。
人の知恵はイエスが神の子であることを知るに至らせず、イエスが神の子キリストであることを告白したことを元に主イエスを十字架にかけました。
十字架は人の知恵をも打ち砕いたのです。
神の知恵はこの十字架に出会い、その十字架に自らを捧げた救い主イエスとその深い愛にあって交わり、主を知ることにより、与えられるものです。つまりは主がご自分の命をもって私達に与えられた、私達の内に住まわれる神、聖霊によって初めて知ることができる、受け取ることができるものとされたのです。
この内なるキリストに全ての知恵と知識があるのです。この霊、キリストの命が私の内に生きていないのであれば、全ては何の意味も力も持たない、役に立たない塵土のような知恵、知識なのであり、人を誇らせ死に至らせることはあっても、命に至ることのないものなのです。
そして、効率的な方法ではなく、愚かと思われる、宣教という、直接人と触れ合うことによって、信じる者を救うこととしたのです。
つまり、クリスチャンの内に住まうキリストの命を、直接分かち合い、そのことによって、まだ主を知らぬ人がこの十字架の主に出会うという、宣教の愚かさを、救いへの近道としたのです。
現在は出版物やあらゆるメディア、メールやインターネット、SNSなど、あらゆる方法を通して、いかに効率的に大量に宣教がなされていると錯覚する人はたくさんいるでしょう。
でも、間違わないで下さい。それらはキリストの命を伝えるのに何の力もありません。そのようなことがいくらできても、誰も救いには至らないのです。
むしろ、あなたが、十字架にかかられるほどのキリストの愛を、その内なる命にあって携えて、大切に目の前の一人一人に福音を伝えていくこと。あなたの主があなたにどれほど善くして下さったのか、どのように命をあなたに与えて下さったのかを語ることが、どれほどの力を持つかを知って下さい。
あなたの証には悪魔を引きずり落とし、キリストの勝利の内に、人々を永遠の滅びから永遠の命に導く、絶大な力があるのです。
だから、日々この絶大なる神の知恵を、主と愛をもって交わる生活の中で、豊かに受け取って下さい。そして、その素晴らしさを分かち合いましょう。そこに命が溢れるのですから。

主の戦いを戦う時

2016年09月25日
聖書箇所: ネヘミヤ2:17-20

主はまさにこの国を救わんと、私達にその基盤となる神の都を再建することを語られています。
バビロンからの帰還後、主の宮の再建が成され、そこから都が再建されて、その基盤によりイスラエルの国が再建されたように、この国に於いても、真の神の宮たる教会が再建されるなら、さらに神の統治が全地を覆うため、神の王座の置かれる都が再建され、おのおのの生活の場所を主が治められる。主の統治は私達と共に拡大するからであり、それはやがてこの国が神の統治の元、救われるために他なりません。
しかし、主がこのように建て直すことを始められる時、そこには必ず敵対が存在します。
そこで各々の持ち場である各々の住まう場所の城壁を建て直すことがまず必要となります。
そして同時に敵の手は休むことはないですから、私達は互いに祈り合い、防御し、協力しながら、再建の任に着かなければなりません。
神はこの戦いはこの国の民を、命をかけて立ち返らせ救うためのものであり、本質的には、神は罪人がその重ねる罪のために滅びることを望まないという、主の深い思いによるものです。
確かに罪が深まる世においては、私達を迫害し、殺すことすら神に仕えることと考える者すら、聖書に語られる通り【ヨハネ16:1-4】起こるでしょう。
主を信じているはずの民でさえ神を知らないからこそ起こる迫害の波に、主は御言葉をもって、栄光の知識でこの地を覆うことにより、裁き、治め、救われるでしょう。
だからこそ今主の民が世と妥協し、このような世の流れに迎合し、生き残ろうと考える風潮の直中にあって、主は聖書をもってすでにその日が来ることを語り、そのような者こそ滅びの手に飲み込まれるであろうから、主の元に立ち返り留まるよう、強く警告しています。
たとえパウロのように石で打たれ死んだようになったとしても、主は死を超えてなお語らしめようと、私達をよみがえりと圧倒的勝利の内に生かしてくださいます。
そうです。敵はどれほど大きく強く見えたとしても、私達と共に居られる方は、万軍の主、万物の創造者であられ、主に寄り頼む者に先立ち、この戦いは主の戦いであると、主ご自身が立ち向かい勝利してくださる方です。
そしてこれこそが、主の戦いを主と共に戦う生き方です。
主は私達を通してこの国を勝ち取ろうとされています。意気消沈せず、この勝利の主にあって私達は立ち上がろうではありませんか。
恐れてはいけません。勝利の主は、最初から小さく罪深い私達を立たせ、ご自身のこの勝利しか存在しない戦いに、愛をもって招いてくださっていたのですから。


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【1コリント 1:18-25】
18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」 と書いてある。
20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。
それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
深遠なる神の知恵について、何回かに渡り1コリント1:18-25から、分かち合いたいと思います。
今日は18節から
【1コリント1:18】
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
人は十字架を前にした時、二つの行動しか取ることができません。
それは神を選び神に従うか、神を退け逆らうか。その行き着く先は永遠の命と滅び、命か死か、祝福かのろいか。
そこには、私達がよく知る聖書の中の十字架の光景と全く変わらず、中庸という選択肢は存在しないのです。
私達が語り出す言葉も同様に、そこに十字架が本当に現される時、それを耳にする人達の反応はやはりこの二通りしか存在しません。
ある人は神を受け入れるからこそ、私達を受け入れ、あるいはある人達は神に逆らうからこそ、私達を迫害するのです。それは時に相手がクリスチャンであったとしても同様です。
ですから、私達自身が人から受け入れられるために、十字架の言を曲げることは意味がありません。
そうするのであれば、その時こそ私達自身が神を恥とする者、神に背を向ける者、逆らう者となっているのです。
まず、この十字架の言を自分自身に語りましょう。そのことにより、自らがどの位置に立っているか知ることができるでしょう。神に逆らう思いがあるのであれば、今一度十字架の前に悔い改め、主イエスの愛を受け取りましょう。
もしも、神を受け入れているのであれば、自らに語った十字架の言は神の力となって、あなた自身に力強く働くでしょう。
今日もあなたが十字架の言を持って、生きるにも死ぬにも全てにおいて主イエスキリストを証する一日を歩めますように。

神の家を建てる者

2016年09月18日
聖書箇所: 歴代誌上29:10-19

主の眼差しは遣わされた地で神の家を建て上げる者、主の務めの働きのできる者の上に注がれています。
それはただクリスチャンであるとして生きるというだけでなく、自分の人生において神に仕えるということに意識を持つ者であり、それは教会の中だけでなく、自分の今遣わされている家庭や社会の中においても同様に、神に仕える者であり続けるということも含まれています。
私達の存在そのものが神の宮であるからこそ、その宮の据えられている所に神が住まわれ、神の統治が及び神の国が来るからです。
私達はここに於いて、神の計画を成就すべく、神の御心をこの地に私達を通して成していくのです。
しかしこの目的が自らの満足、自らのためのものを求めるのであれば、その姿は神の宮を建て上げるものとは全く逆のもの、強い者が弱い者から搾取し、蹂躙する、神の宮を傷つけ、汚すものとなるのです。
そのような者の所にも主はご自身を、人々を憐れむ者の姿として現し、ご自身の元に立ち返らせようと引き寄せてくださるのです。主こそ真の羊飼い。
しかし、もしもそれすら退け続けるのであれば神は裁きの手をもってその者を砕かれ、何とかしてご自身の元に戻そうとされ、その者が逆らい続ける限りそれはさらに重い御手をが置かれ続けるのです。
人の思いのどこまでも主に逆らう、なんと罪深いものでしょうか。
主が来られことは主を受け入れる者には幸いでありますが、主を退ける者には裁きの日の到来、神はまずご自身の宮に臨まれるからこそ、裁きは神の家から始まるのです。
果たして私達は、まさに滅びんとするこの国を救うために来られる主の前に、主を喜び迎え入れる神の家となるのでしょうか、それとも神を退け神と戦い、自らの身に滅びを招く裁かれる民となるのでしょうか。
真の神の宮たる者は、まさに神の宮にこそ主の栄光が満ち溢れたように、神の栄光をただ一心に求め、主を全身全霊をもってほめたたえるでしょう。
しかしそれとは逆に、自らの栄光を求める者達は自らを誇り、自己礼拝を続け、自らに豊穣を与える都合の良い神を奉って偶像礼拝を続けるでしょう。
もちろん主はそのような自己栄光化と自己礼拝、偶像礼拝を激しく嫌い、退けます。
この根強い問題こそ、現在この国の教会の抱える元凶たる問題ではないでしょうか。
この場所に主の十字架は建てられているのです。この痛みは、この憐れみは、まさに罪に気づかず罪を重ね神から心離れ続ける、今の私達のためにあるのです。
そして主は、主の深い願いを汲み、神の家を建て上げるため、自らの命を、生涯をささげる、神の栄光のみを求める真の礼拝者を求めておられます。
ただ主にのみ、とこしえに栄光がありますように。
今回は神の家を建て上げる真のクリスチャンとしての成熟した生き方について、共に分かち合いたいと思います。


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【ローマ人への手紙 1:16】
わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギ リシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
主は私のために十字架にかかり、私の罪のため、罪を知らない方であるのに罪となられ、死を身に負い、私の贖いの生け贄となってくださいました。そして、死に打ち勝たれ、よみがえり、私を共によみがえらせて、ご自身は命として我が内に住まわれているのです。
そうです。この主イエスの十字架は私のものです。
そうです。この方に私は命を与えられたのです。
この地で渇き切り、罪で汚れ、どうしようもないかけ違いをし、死にしか向かうことのない私の古い命を、主はご自身と共に十字架につけ、新しい命を、永遠の命を私に下さったのです。
この方は今も私の内に生きておられます。絶えることのない愛を注ぎ続けて、私を生かして下さっています。
そうです。私はこの方の愛を恥とはしません。
そうです。だから、私はこの命を得させる福音を恥とはしません。
この方を愛することの他に価値のあることは存在しないのですから。この命はもはや私のためのものではなく、私を愛して下さって自分の命を与えて下さった主のものです。
やがて、この方が再びこの地に来られる時、この方は裁き主として地に来られます。
彼に立ち返ることなく彼に逆らい続け、彼の愛を受け入れなかった人々を、裁くために。彼の愛を受け入れない者は彼に必ず逆らう者となる。永遠に神に逆らう存在となった者を裁くために。
この方の足が愛する彼らを踏み、その衣を血に染め、断腸の悲しみの内に裁きをなされるのです。
この主の御怒りの裁きから、この方が愛する者が一人でも多く救われるために、私達は福音を与えられているのです。
この方が少しでも悲しまないために。
あなたが主からどのようにして命を与えられたのか。主があなたにどのように善くして下さったのか。語って下さい。それが誰かに救いを得させる力となる、あなたに与えられている福音なのです。

【イザヤ書 6:8】
わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
アダムとエバの時代、人が最初に罪を犯した時代から、神は私達(人)に「あなたはどこにいるのか?(創世記3:9)」と呼びかけ、私達を探し続けておられます。
主から自らを隠し、背を向け、神の思いを無視して、自らの思い(欲求)のために生きる。そんな私達に主はこのように語りかけておられます。そして、ご自身のこの思いを共に担う者を探しておられるのです。
神が今も罪にさ迷える魂(人々)を、ご自身の元に導くために、自らの思い(欲求、肉)を退け、神のために生き、神のこの問いかけ(福音)を携えて、出て行く者達を求めておられるのです。
この地が罪に満ちれば満ちるほど、神は滅び行く人々に切実に語りかけようと、罪人達の破れ口に立つ者を探しておられます。
だから、主を愛する兄弟姉妹。
「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか。」という主のこの真剣な問いかけに、今手を止め、足を止めて、自分がどう答えるべきか、考えて欲しいのです。
なぜなら、この地がこの国が、主の忍耐を越えて裁かれるほどに、いつ罪を重ねてしまっているのか、つまり、いつまで主がご忍耐続けてくださるのか私達にはわからないのですから。
自らの平和を誇る前に、主の痛みを見つめて欲しいのです。
今日も共に「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください。」と告白を重ねましょう

【使徒の働き 1:8】
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
神が私達に与える、担うべき神の計画はあまりに大き過ぎて、私達にはとても信じられないものばかり、とても負い切れないものばかりです。
それは聖書において、一個人に語られた主の計画の壮大さから見ても、とてもよくわかることでしょう。そして、その真理は今も昔も、聖書の時代も現代も、変わることは何一つありません。
この壮大な計画を人間の力でどうにかしようとするのであれば、とてつもない過ちを犯すこととなるでしょう。
神の力でしか実現することのできないことだからこそ、それが成就したとき神だけの栄光となるのですから。
主はこのように、主に自らの人生を捧げ、主に生涯仕えることを選んだ者達に、ご自身の大いなるご計画を担わせて下さいます。
それは、国を建て上げること、歴史を作ること、時代を作ること、世界を支えること。
大それたことを聞いているように感じますか?
しかしこのように神の計画は、主が再びこの地に臨まれ、この地を治める日が一日も早められるよう、私達教会を通じて、クリスチャンを通じて、押し進められていくのです。
そしてこれまでも、そのようにしてごく普通の人々が、世界を神の元に勝ち取って来た(世界宣教)のです。
もしもあなたが主から担わされているこの壮大な計画が、あまりに大きく感じられるのであれば、今日の聖句をそのまま自分のものとして受け取りましょう。この聖句は聖霊によるバプテスマを表す聖句です。
主イエスはご自身の名にあるように聖霊によりバプテスマを与えられる方です。
この「力を受ける」と言われる「力」は絶大な力を指します。無限の神が私達の内から爆発的に現れる力なのです。
聖書に語られた御言葉をそのまま信じる者、それが主イエス(ロゴス=神の御言葉であられる方)をそのまま信じる者です。そして、その現れを事実として著されているのが聖書の使徒行伝(使徒の働き)なのです。それは驚くべき姿ですが、それが変わることのない主の真実なのです。
疑うことなくこの聖句の約束を、欲しいと主に願い、そのまま受け取りましょう。

聖書箇所: 詩篇89:19-37

ダビデはその人生を、生涯神からの祝福のただ中を歩みました。
彼は神から特別に永遠の祝福の約束を受け取る者となりましたが、それは彼が特別に何かを持っているとか、何かができるとか、何か優れているというようなことには因りませんでした。
むしろ彼はエッサイの忘れ去られた末の子であり、羊の番をする小さな者に過ぎませんでした。
私達と条件は何ら変わりないと言っても過言ではないでしょう。
しかしこれほどに彼が祝福を受けたのは、彼が主を求め、主の義(神の統治)を求め、主の栄光をただひたすらに求めたから。
そして、それこそが神の家を建てるという願いに至らせ、その生涯をその目的の為に生きたということこそが、主の祝福を受ける大きな理由となったことに他なりません。
神はこのような生き方を求める者を、どれほどに喜ばれ愛されるのか。彼の姿こそが神の深い喜びの証しと言えるでしょう。
逆に一人(個人個人)の貪欲が、自己満足を求める生き方が、偶像礼拝が、国の滅びに至るまで、決して小さな事には留まらず、大きなことにまで伝染する様子を聖書は語っています。
まさにそれは、「主は与えない。主は自分を殺すのだ」という根強い偽りから始まる、エデンの園で人の心に植えられたサタンの偽りに端を発する罪の歩み。まさにイスラエルの民はあれほどに神の栄光を現されながら、この
偽りを手放すことができず、実に十度も神を試みたと主に言わしめ、主から離れ、滅びへの道を歩んだのです。
しかし、主ご自身の真の思いは、ご自身の命を、そして全てを与え尽くしても、私達を満たしたいという強い思いであり、一度主を受け入れた者達が必ず見た、十字架にご自身をささげた姿、つまり主の愛そのものであるのです。
この愛こそが、根強いこの偽りを、根底から覆すものであり、私達はそれを救いの始めから与えられていたのです。
そうである以上私達は、むしろ主の祝福の中に生きるべく、最初から与えられている主と永遠に共に生きる歩みを願うべきです。
私達の嗣業(相続地)は主そのものであり、私達が生きる全ての必要を全て主から満たされて生きる生き方、祭司・レビ人がそうであったように、万民祭司とされた私達は、この神の宮、神の永遠の都の中から離れることなく、むしろ永遠に主の栄光のみを求めて、永遠の主との交わり、永遠の礼拝に生きる者とされているのです。
それこそが、永遠の救いを今受け取っている者であり、この主のみを求め、神の御国を求め、主の栄光のみを求めて生きる生き方こそ、主を最も喜ばせる生き方となるのです。
それこそが主の祝福の真ん中を歩む歩き方。
この主の栄光の満ち溢れる神の御国、永遠の礼拝を、どれほど私達は日々の生活の中に求めているでしょうか。
生きる道のりの中でどれほど主の栄光を求めて歩んでいるでしょうか。
主の栄光は天にだけ満ちるのではなく、私達の毎日の中にこそ満ち溢れ、現れるのです。
今回はダビデの姿の中から、主の祝福の中に生きる生き方について共に分かち合いたいと思います。


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聖書箇所: ダニエル4:3

神が永遠に全地(天地万物)を統べ治められる。全ての主権は主にある。
この最も聖書で重要な、最もシンプルな真理を、私達はどう受け止めているでしょうか?
まさしくこの真理こそ「福音」。
人はこの最も重要な事実を、容易に受け入れことはできません。
生まれながらに神に逆らい、神を退けて生きるよう、罪の性質を持って生まれた人には、そのことを受け入れるには主の多大の努力が必要なのです。
神の主権ということを中心に語られているダニエル書においても、神の多大な努力と、それを人がどのように受け入れるか、あるいはその愛を退けるのであればどのような現実が待っているのかということについて、明示されています。
主はご自身を退け自らこそ王であると王座に座る人に、憐れみをもってご自身の主権について語られます。
しかしそれを聞いてなお退ける者に、主はさらに熱意と憐れみをもって、滅びに向かうその人の心を打ち砕くことがあっても、永遠の滅びに至ることがないように、ご自身の御手を置かれるのです。
その心が主の前に芯から砕かれ、悔い崩おれて、主の前に心からひざをかがめるとき、人は主の祝福の元に本来の人としての歩みに戻ることができるのです。
主と共に「地を治めよ」と語られた私達の本来の人としての歩みに。
まさにこの国はこの主権を退け、神を退けて、人の力と知恵の上に、自らの反映を築き上げて来た国。
しかし、主は同様に強い憐れみをもって、この国に臨もうとしておられます。この国が滅びてしまうことがないように。
そして主は御手を置かれようとしている。
この国生き、この世の強い力の中で、世の常識の強い影響に晒されているクリスチャンも、それは例外ではないでしょう。
むしろ、だからこそ今主は私達に「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない【レビ11:45】」と、この世から聖め別かたれるよう語られているのです。
そもそも人はサタンに偽られ、サタンと同様に自ら神のようになれると、「自分」というものに目覚め、自らの満足のために人は生きるようになったのです。
だから、そのようにサタンの偽りに心奪われ、自らの満足のために生きようとする者には、この神の主権の語られている「福音」を受け入れることはできません。
この神の言葉を受け入れるか退けるかは、まさに神を受け入れるかそれとも神を退けるかということに通じているのです。
そしてそれは世の終わりが近づくにつれ、神の言葉が全ての人々を二分するようになるのです。
このことはもちろんクリスチャンも例外ではありません。
今主は私達にこの主の言葉にいかに答えるかを見ておられます。
この言葉に心から砕かれて主を主権者(王)として受け入れるのか、それともこの御言葉ごと退けるのか。
今回は主権者として王として来られる主を、滅びに向かうこの国に生きるクリスチャンとして、いかに心からひざをかがめて迎え入れるかということについて、溢れる主の憐れみの言葉に耳を傾けて参りましょう。


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