聖書箇所: エゼキエル44:15-31

私達は万民祭司(1ペテロ2:9)として主から神の宮の祭司とされた者ですが、その務めとは、またその生き方とは如何なるものでしょうか?
エゼキエルに語られた神殿はいつの神殿について語られているのかについては諸説いろいろな解釈がありますが、何よりそれを永遠の神の宮として見るならば、その中途(44章)に語られている祭司の姿も永遠に神に仕える者としての姿を表すことになります。
そしてそこにこそ、私達が神の前に永遠にすべき事とは何かという、信仰者としての最も重要なテーマを見ることができるのです。
永遠はやがて死を迎える時に始まるものではありません。それでは遅い、それはすでに永遠の命を与えられている今始まっているのです。
そして私達は、永遠を思い見る時、そこに入らしめるためささげられた主イエスのあまりに価高い犠牲を、その愛の内に見るのです。
この犠牲により私達はこの世に対して死を迎え、もはや私達は罪に捕らえられた古き私を脱ぎ捨て新しくキリストを着る者とされました。
そのことは私達をもはやこの世に戻って生きるのではなく、天の神の宮の内から出ることを永遠にしない、聖なる者として聖め別たれた者であることを意味します。
また、この地こそ主の住まわれる所、主が全地を治められる場所であるからこそ、私達はこの地を神の御言葉により、神の主権によって、裁き治める者とされました。
だからこそ、神の御心を聖書と自らの内に居られるロゴス(神の言葉)であられる方に聞き、神の計画を心に深く置いて、その成就のために主に仕える者として歩むのがふさわしい歩みであるのです。
さらに私達は主の招きに導かれ、その神殿の最奥の至聖所にまで入る程に主と深く交わり、永遠の安息の中に永遠に礼拝を捧げ続ける者となりました。
まさに死の報いを受ける世に生きる罪人としての生き方を捨て、まさに罪のためのささげ物となられた主の十字架に一つとなり、営所の外に出て、自らを十字架につけて、主の御もとに近づき生きる者とされた。
私達は霊の交わりにおいては、この神の神殿から永遠に出なくていいのです。
主は私達の嗣業となり、また私達も主の嗣業となりました。
これこそ永遠の都とされた私達の永遠の姿であり、私達は永遠に主の内に生き、また私達の内に主は永遠に住まわれるのです。
ここに主は栄光をもって充満され、この充満の中で私達は永遠の礼拝をささげる。
私達は永遠にその霊において変わることなく礼拝をささげ続け、その礼拝に仕える私達は永遠の祭司なのです。
私達の地上の生活にあってはいろいろなことがあるように思えるかも知れません。しかし霊において、私達が永遠にこの中に生き、また祭司として主に仕え続けるのであれば、現実の生活はこの永遠の神の国の内に飲み込まれ、神の主権の元に最善のものとして現実は神の統治の元に伏していきます。
ですから、私達は如何なる時もこの永遠の礼拝を霊において絶やすことなくささげ続け、この地を神の国の元に飲み込み勝ち取ろうではありませんか。
さあだから今共に永遠の礼拝を神の前にささげましょう。


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聖書箇所: 雅歌5:2-16

主がこの地に来られる時、それが私達にわかるかどうか?
それは初臨という形で最初に主がこの地に来られた時、イスラエルに与えられた大きな命題でした。
主に関心もなく、実は愛もない。それが当たり前の話。だから主が来られることがわからない。
その同じ命題は、いつ主が再び来られるかわからないけれども、必ず来ると約束されている、今の私達に向けられています。
主が私達に注ぎ続けてくださっている、十字架に全てを与えられた愛に、日常的に無関心になっていないでしょうか。
そこに私達の神への思いはなく、あるのは自己中心の生活の中に生まれる、「貪欲は偶像礼拝である」と言われる偶像。
形だけの信仰、形だけの神殿の中で行われる偶像崇拝の数々、それはかつてのイスラエルの愚かな姿というだけではなく、私達の心の中こそそのようではないかと、今見つめ直せと主は迫られます。
十字架の愛にどう答えるか。
その愛によって主の呼びかけに答え、いつでも主をお迎えできる備えとして、この地上の生活を送る、まさに私達は花婿に愛をもって答えるキリストの花嫁であるはずなのです。
多くの人々は自らの満足、欲望の内に、神を退け、神の麗しさより、善悪の知恵の木の実の麗しさに心奪われます。
世から得ようとする全てのものはこの麗しさに満ちています。
命の木の麗しさに、キリストご自身に、心奪われる者はどれほどいるのでしょう。
この命の木こそ、永遠の神の都に流れる命の川に植わっており、この都こそ私達自身、キリストの花嫁と言われる新しいエルサレムであり、ここに主ご自身は満ち溢れて、私達を満たさんとする。さらに主は豊かに私達の全ての必要を満たして余りあり、満ち溢れて私達に完全に充満されようと渇き願われる。
そこには主の賛美があり、賛美が溢れるからこそ、主が満ち溢れる。
それが本来の私達の姿。
私達はこの方の本当の麗しさを知っているでしょうか。その麗しさを心から賛美することができるでしょうか。
私達の愛は主を満たすほどに賛美に溢れているのでしょうか。

今回は主の麗しさに心奪われ溢れる愛をたたえる、キリストの花嫁の姿について見つめながら、私達の日々の生活を振り返っていきたいと思います。


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聖書箇所: イザヤ59:19-21

主は今私達に「あなたがたは、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか【ヨシュア18:3】」と語られ、リバイバルを約束され与えられたこの地を、この国を、いつまで取りに行かないのかと迫っておられます。
まさにリバイバルは、神の御言葉と主の霊にとどまり、満ち溢れるところに現れます。
主イエスの母となったマリアは、神をその内に宿す者、またやがて来る救い主、この地を治める王を待ち望む者達の先駆けとなった人物です。
そのとても人間の知識や常識では理解できないような内容の言葉を、御使によって、神の言葉として語られた時、マリアは「お言葉どおりこの身に成りますように【ルカ1:38】」とその御言葉を受け取ったのです。
全てを越えて神の御言葉のみに真実を見出し、自らの中にあるもの(常識、知識、経験等)こそ偽りとして、そこにとどまり、アーメンと言える人は幸いです。
その人こそ神の約束の計画を受け取り、また自分を通してその計画が成就するのを見ることがゆるされるからです。
また、聖書は主が再び来られる日への備えについて、花婿を待つ十人のおとめの喩え【マタイ25:1-13】から語り、「目をさましていなさい【マタイ25:13】」という神の警告について、「油を用意して【マタイ25:4】」おくという観点から語られています。
『油』に喩えられる『聖霊』の備え、聖霊の満たしについて。
主は私達の予想外の日に来られると語って居られますが、だからこそ日常生活の中で、何より大切なものとして主への愛を備えていなければ、主の迎えの声を、世への欲求が、また自己を満たす思いが主を退けてしまいます。主の愛に満たされその愛に答え主を愛することこそが、本来私達に与えられている(クリスチャンの)至上の喜びです。
その愛を知って始めて、主は完全なる充満をもって私達の全てをご自身で満たされるのです。
この私達の内に永遠に住まい充満することを、至上の愛の形として永遠の神の国の内に成就しようと言う神の計画は今、神との愛の関係の中に、聖霊の満たしとして与えられています。
この聖霊の満たしこそ、やがて来られる主への備えであり、最初から私達に与えられている神の約束であって、クリスチャンとしてのこの地の歩みを貫く、大いなる導きであるのです。
リバイバルは神の御言葉と聖霊の満ち溢れる中に現れ、その満たしの中に私達は永遠の神の栄光と臨在をもって、神がまさにここに来ていると知るのです。
今回はこの神の御言葉と聖霊に満ちることの大切さについて、神の語りかけに心から共に耳を傾けていきたいと思います。


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聖書箇所: ヨナ2,3章

主は私達に余りに愛深く、慰めの言葉を今語りかけてくださっています。
それは私達のこれまでの歩みを全て見て来られ、共に歩んで来てくださったからこそ、全てを知ってだからかけることのできる慰めの言葉。
ヨナは、主を愛して止まず、主の思いを誰よりも知る者でした。だからこそ、彼は神の思いの真意を理解する事ができず、神の御声を退けました。
人には主のあまりにも大いなる計画を知り、理解することはできません。
人の限界をはるかに越えた愛、憐れみ。神はその思いをヨナに伝えることを望まれました。
ヨブは主が自慢するほどの罪を犯さない人でした。でも、その根底にある原罪と、そこに伴う自らを主張し自らを正しいとし、自らの知恵と力で生きてきたという自負、まさに自己義の問題に触れようとされました。
自らが自らの手で正しくなるのではなく、神の義により義とされる幸いの生き方。
ヨナも、ヨブも、大いに主に愛されたからこそ、人自身には近づくことのできない神の深み、旧約聖書の時代の人物でありながら、十字架の愛を啓示され、その大いなる愛の内に入れられました。そして特別な祝福を受けたのです。
さらに、聖書はその十字架の愛により救われた私達が、神の思いを担う者として、神に仕え働く者として主に選ばれた民であるということを教えてくれます。
主は私達を通してご自身の計画を成就したいのだという、共にこの地を治めよという大いなる思いを、愛をもって迫られます。
だからこそ、主は私達の歩みの全てを見て来られ、この国のため、この地のために祈り続けたその祈りは何一つ無駄なものではなく、たとえ時代が悪く進むように見えたとしても、その計画は成らない、あり得ないと、今祈りに答えてくださっています。
また、私達が様々に戦い、霊的な戦い、世との、サタンとの戦いを日々戦ってきたことを知り、その日々が神の大いなる計画に何も関係ないように見えたとしても、王なる主をこの国に、この地に迎えるための戦いであったと言われ、この地を治めるために、主は来られるのだと、再臨の思いと重ねて、リバイバルを私達に約束してくださっています。
何と大いなる慰めでしょうか。
主は私達に主を迎える日を心の内に見て、立ち上がるよう励まし慰めていてくださっているのです。
今回はこの特別な主の親しい語りかけに心から感謝しながら、その思いを共に受け止めていきたいと思います。


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