主の宝の民

2018年08月26日
聖書箇所: 申命記7:1-6

主が私達をご自身の「宝の民」と語るとき、主がどれ程の愛と恵みを以て私達に語りかけているのかということを私達は本当に理解しているでしょうか。
主の瞳に映る私達の本当の姿を私達が深く知ることができたなら、私達が持っている興味の大半は、世から離れ、愛を以て語りかけられる神の言葉へと向けられることでしょう。
主の目に見えるものを見る目は、主を愛する目、信頼(信仰)の目、私達に与えられたキリストの命(霊)の目で初めて見ることがゆるされます。
その目はこの地にあるものを見る目ではなく、天(神の国)にあるものを見る目となるのです。
そこに私達の本当の姿を見ることができるでしょう。
今語られる主の御言葉に心傾け、うちに生きるキリストの命(霊)を以てその真実を受け取ろうではありませんか。


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幼な子のように

2018年01月28日
聖書箇所: ルカ18:15-17
「神の国はこのような者の国である」と主は語り、神の国は幼な子のような信仰を持つ者の国、純粋で主のみに頼る他ないほどに小さい者が招かれ入れられる国であることを示されました。
私達は大人になることを成長することと考えています。
しかし、その中で手に入れていくもの、できるようになっていくこと、得ていくものの代わりに失っていく多くのものがあることに気づかないでいます。
霊的な視点、神の眼差しの中私達を見るのであれば、どうでしょうか。
私達には全く見えない視点、むしろ(肉的な視点において)見えるものに囲まれる中で失うもの、信仰によってしか見えないものを求めその道を歩むこと。信仰において成熟することを、神は永遠の愛の関係に於いて求めておられる。
私達の信仰の歩みを見つ直す主の視点について、今語られる神の御言葉を仰ぎたいと思います。


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聖書箇所: ゼカリヤ14:16-21
私達クリスチャンは、その視線を向かうべき先、主が再び来られる日にしっかりと見据える必要があります。
聖書は旧約の時代から主の計画の行き着く先について幾度となくあらゆる形であらゆる視点から語り掛け、それがいつの時代においても変わることなき、神の永遠の計画の方へと、神の民は向かい進んで生きて行くべきことを語っています。
そしてその永遠の行く先を、私達に注がれている変わることなき神の愛と、その愛の中で永遠の愛へと神への愛を成熟させ、やがてその神との永遠の愛にある交わりの中へとまさに今から生きていくことの重要性を聖書は語っているのです。
もしも私達が今この神との永遠の愛にある交わりに心捕らえられたら、私達は死をも恐れずいや死をも越えて、神の計画に生きる者となることでしょう。
信仰の深みへと歩を進めるよう招かれる神の御言葉に、愛をもって耳を傾けていこうではありませんか。


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聖書箇所: 2ペテロ3:12
神の計画はこれまで幾度も私達に語られて来ました。神は今再びそれを語り,その神の計画の約束は私達において一つも変わることはないと強く語られます。
まさしく主のリバイバルの時を指して。再臨の時と重ね語られるリバイバルについて、だからこそ主の再臨の時に向かい私達クリスチャンが全地に担うべき重要な役割を、今私達が担っていることを主は語られます。
畏れ多くも主の私達に語られる約束の言葉一つ一つに、心して耳を傾けていきたいと思います。


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主を愛せよ

2018年01月07日
聖書箇所: 申命記6:4,5
神の御言葉を心から愛し従う生活を送ること、それは神ご自身を愛し従う生活そのものに他なりません。
そのように生きる者の幸いを聖書の中から見ながら、さらに神がその中にこそ現そうとされる神ご自身とその中に生きる永遠の安息と永遠の神との交わりについて、主が今語られる御言葉に耳を傾けていきたいと思います。


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はじめに神

2018年01月01日
聖書箇所: 創世記1:1

私達は神の御業が現れた時、その人知を超えた神の御業の前に喜び、その全貌がどれほど壮大で深い神の御思いの中にあることを窺い知ることができません。
あまりに小さすぎる人は、その後に現れる現実に打ちのめされ、全てが終わってしまったかのように、思う時もあるかも知れません。
神の業を打ち消さんとするサタンの手の前に、絶望に打ちのめされるかも知れません。
しかし、主の壮大な御業は何一つ揺るぐことはないのです。
そう、始めの神の御業はその後に続く壮大な神のご計画のプロローグに過ぎないのです。
神のこの壮大な計画を知らぬ人間は、人自らの罪にまみれた計画の内に、神の計画を台無しにしてしまいます。
しかし、主はその全てを除いても、ご自身の最初から立てられたご自身の計画を必ず完成される神なのです。
神はそうまでしても、神の民一人一人を通して、ご自身のご計画を成そうと願われているのです。
私達はこのどこまでも憐れみ深い神のご計画がなるために、真に主への従順を知る時を迎えているのかも知れません。
主は今ご自身の始めから持っておられた救いのご計画をこの国に現そうとしておられます。
だからこそ今私達は、その始めから主に従おうではありませんか。
私達の全ての「はじめに神」を置こうではありませんか。


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聖書箇所: ルカ2:22-38

神は今まさに、新しい天新しい地にある永遠の都の神殿を建てるための準備を、私達の内に成しておられます。
この神殿こそ私達自身であり、永遠の神の家の準備はこの地の私達の神との歩みの中に行われているのです。
主はご自身を私達に語りかけられる御言葉の内に現し(啓示され)、この主ご自身を霊の内に鏡に映すように見て、私達をご自身の栄光の似姿に日々造り変えてくださっているのです。
私達に語りかけられる、この神の御言葉は天からのことを語る霊の言葉であり、神の啓示によらなければ何一つ知ることがゆるされません。
しかし、人は人の知恵によって、それに届こうと、人の知恵を積み重ねる宗教としての歩みをこの地に重ねてきました。そして、神の家の準備はむしろ、その偽りの、地に着く肉の知恵によって、阻害されてきました。
神の知恵は聖霊によらなければ何一つ知り得ないこと、人はそのように心から主の御声(啓示)を求めてきませんでした。
あの神の御言葉を預けられたイスラエルの民が、その人の知恵によって、来るべき主を知り得なかったのとちょうど同じように。
今主はこの降誕の時の御言葉の中に、「異邦人を照らす啓示の光」という言葉によって、はっきりと私達にその驚くべき恵みを語り聞かせてくださっています。
そして、この始めの啓示を、小さき年老いた、しかし主を待ち望み聖霊に導かれた者に現されたのです。
神は今この啓示、預言の言葉により、暗き世を照らす先駆けの光として、明けの明星たる主ご自身を、私達の内に現そうと、私達に語りかけてくださっています。
世が暗ければ暗いほど、輝ける先駆けの啓示の光、今まずこの主の御言葉に耳を傾け、再臨の主を迎えに私達も進み行こうではありませんか。


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聖書箇所: マタイ2:1-21

主のご降誕の時には必ず語られるインマヌエルの預言イザヤ7:14ですが、実はこの言葉が語られた時、その言葉はそのまま受け入れられたのではなく、むしろ拒絶をされました。
預言者イザヤは当時のユダの王アハブにこの言葉を語ったのですが、そもそも当時ユダが脅かされていたイスラエルとスリヤの王の謀略に対する救いを約束した主の言葉、それを信ずることができるよう、しるしを求めよと主はアハブに迫られた、それがこの箇所です。
しかしアハブはこの主に頼ることはしないと主を拒絶するのです。
そして、語られた預言を自らの力で実現すべくこの2国に対抗するためアッスリヤを金で雇うのです。
そして、むしろこのスリヤの王が崇める神を自らも崇めれば力が得られるだろうと、神の祭壇を捨てスリアの神の祭壇をそこに築き、神を怒らせました。
このことは決して他人事とは言えません。なぜならこのイスラエルの姿は今の時代の日本の状況に酷似しているということができるからです。
近隣国の脅威から守られるために、列強国の力を借りようと同盟関係に右往左往する。
しかし、この平和を守るためシャロームの君である神にのみ頼るということをしない。それは神を知らない者だけではなく、神を信じるクリスチャンがむしろ自らの生活にのみ関心を持ち、主に平和を求めることをしない。
主は今私達をそしてこの国をどのような思いで見つめておられるでしょうか。
このインマヌエルの預言と神への拒絶は、この救い主の誕生においても現実のものとなります。
ユダヤ人の王として生まれる救い主の
誕生を、当時のイスラエルの王ヘロデは危惧し、殺害を企てます。
また救い主の誕生を迎え入れるため選ばれた選びの民であるイスラエルの民も同様に救い主の誕生を、自らの変わらぬ生活を脅かすものとして拒絶し喜ばないのです。
主イエスはこの拒絶の中で誕生しました。
しかし、この誕生を何よりも心待ちにし、喜び、迎え入れたのは、小さく弱い神を頼りとするしか生きることのできないような者達でした。
また同様にはるかいにしえの預言を信じ、ただ救い主を求めて、はるか遠くから旅した博士達。彼らは私達に先駆け異邦人でありながら救い主の降誕を迎えることを許される恵みにあずかりました。
さあ、今私達はどのような面持ちでこの救い主をお迎えするでしょうか。
主はこの救いの必要な罪の熟したこの国に、ご自身が臨まれ救われると幾度も語りかけておられます。
ですからこの時、私達が自らの生活に追われ、世を求めて生きる者達であるなら、この主の訪れは迷惑以外の何ものでもなく、主のご降誕は形だけの喜びの時となるでしょう。
今主は本当に心から主をお迎えする者達を求めておられます。
それは心から救い主を求めるがゆえ、最上のささげ物をささげることのできた博士達のように。
決して人の知恵では辿り着くことのできない、神のご計画された救い主だけにふさわしいささげ物、そしてそこにささげられた最上の礼拝。
今私達が心から主が来られることを求め望むなら、私達は主への最上のささげ物、礼拝をもって、主をお迎えすることができるでしょう。
今回は主のご降誕を心から喜び、まさにこの国に救いを携えて来ると語られる主の御言葉に、心から耳を傾けて参りましょう。


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箇所: イザヤ9:1-7

主はご自身の計画を、人の目にふさわしく見える大きくかしこく優れた者にではなく、私達のような小さな者を選び、そこ(教会)を通して成すことを望まれました。
それは、主の計画であるからです。ただ主の熱心によってのみ成し遂げられる業であるからです。
人の手で作り上げられている世は、神に敵対するもので溢れています。であるからこそそこは罪に満ち、であるからこそ主はただご自身にのみ寄り頼む他は何もできない小さな者達を通して真の解放の業を成し遂げる。それはリバイバルの時。
罪が満ちる世の真の希望、光、命、救いとなり得るのは、人の業ではなく、唯一救い主イエスキリストによる業に他ならないのです。
主によってこの地を勝ち取る小さな者達、その業はギデオンの時代から、主イエスの降誕預言へ、そして今の私達に強く熱く語りかけてくださっています。
主の召しを担うべく建てられた小さな者達に語られる主の私達へのあわれみに満ちた大きな計画に、勇気を持って耳をかたむけていこうではありませんか。


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聖書箇所: 申命記6:1-9

私達が神、主を唯一の主とする時、この方に従い、この方を愛し、この方の御心と心一つして歩む時、驚くべきことに、私達を通して神の統治はこの地に現れます。
私達の心の王座に着かれた全地の真の王は、この世の支配を全て超えて、神のご自身の支配を私を通して現され、それは現実の世界にも決定的な主の現れとして、御業の内にその栄光の内に、私達の生活の中に現れるのです。
神は私達をそのような神の王国の民として、ご自身の御言葉により、そして自ら十字架に身をささげることにより、世から分離してくださいました。
この十字架の死の向こうにあるよみがえり、新しく生まれた者しか入ることのできない神の国に、主はご自身の身を裂いて私達を入らせてくださったのです。
それは主の私達に約束された新しい地、そこにある魂を勝ち取るために他なりません。
今この死をも恐れず、主を愛し、主に近づき、主と共に御足の跡を歩む弟子達を、主は求めておられます。
そして私達こそ、そのために主によって新しい命を与えられたクリスチャン、主の弟子達なのです。
今主の思いに耳を傾け、主に愛され主を愛する真の弟子として、この地に遣わされたクリスチャンの真の歩みを共に歩もうではありませんか。


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聖書箇所: イザヤ35:8-10

人の業が尽きた時、神の圧倒的な御業が現れます。
神の業を遠ざかる人の業は一度砕かれねばならないからです。
人の業が満ちる時、その罪が満ちる故に、そこには死が満ち、歴然とした滅びがそこに横たわります。
しかし、主はご自身の命によって、その霊によって、その御言葉によって、その滅びを救いに変え、死した人々を命によみがえらせることできるのです。
まさに、神はご自身による圧倒的な完全なる御業を、このように私達の内に現したい主なのです。
神が如何に私達を愛しておられるかを現すため、神の完全で圧倒的な栄光を、人によらず、ご自身の一方的な愛に基づく恵みとして現すために。
主はそのようにして、十字架によりご自身の一方的な愛とめぐみによる、救いの御業を私達の内に現してくださいました。
まさにそのように私達は神からの一方的な恵みに恵みを加えられて生きている、主に救われた者達なのです。
主のその一方的な愛と恵みは全て神ご自身をその素晴らしさを現すためのものです。
主に私達がそのように愛され、主の豊かさによって完全に満たされ、主ご自身の栄光の輝くに照らされて輝くことを、主は如何に望んでおられるでしょうか。
主はその御業の完成した私達の姿として、永遠の都エルサレムの姿を聖書の結論に語ってくださっています。
そして、その御業は今私達の内に始まっているのです。
永遠の主の交わりは、今を通じて永遠の都へとつながる。私達はその永遠の礼拝の中に今生きているのです。
今私達の中に描き出される神の永遠の思いと御業について、主の深い愛に身をゆだね、心から耳を傾けて参りましょう。


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キリスト者の霊性

2017年11月12日
聖書箇所: ルカ8:34-39

クリスチャンとして歩んでいるはずなのに、罪の中を歩み、その中に閉じこめられ、サタンの支配の元、その奴隷とされている兄弟姉妹が如何に多くいることでしょうか。
しかし、今主は私達にご自身がそれらのことに完全に勝利し、その支配に完全に終止符が打たれたことを強く語りかけてくださっています。
それは十字架の上に、私自身の死という形で古き私自身が終わりを迎え、主のよみがえりにあって、新しくされたもの。私達は今までとは全く違う神の命にある神の性質を持ち、キリストの支配の内に属する、全く新しい者として新しく造られたのです。
この新しい創造の中に、私達は霊にある生活によって、生きることができるのです。
そして、この私達の新しい創造は永遠の結論としての新しい創造の完成、つまり新しい天と新しい地が完成される時を先取って、今私達を神の国に入らしめるものであり、このように神の国は私達のただ中にあるものである。それが私達のキリスト者の霊性なのです。
今主が私達キリスト者に招かれる、主の霊に導かれ入る、新しい創造の中に生きる歩みについて、主の驚くべき恵みに心から感謝しつつ、耳を傾けていこうではありませんか。


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神の愛 神の言葉

2017年11月05日
聖書箇所: 申命記5:24-31

神は私達に今生きておられる神ご自身の生きた御言葉を語りかけてくださっています。
それは霊における啓示しであり、私達に神ご自身を現してくださるということです。
そのあまりに親しく愛深き交わりの中に、私達は救いを受け、新しい命を与えられたその時から入れられているのです。
その驚くべきも厳粛な事実を私達は本当に知っているでしょうか。
あるいはこの交わりの中主ご自身が私達に語りかけてくださる御言葉をどれほど真剣に求め、あるいは信じて生きているでしょうか。
今語りかけてくださる主を畏れ仰ぎつつ、まずこの御言葉に耳を傾けていきたいと思います。


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世界を変える一人

2017年10月29日
聖書箇所: 黙示録3:1-6

主がこの地をご自身の元に取り戻されるのに、多くの者の手を使う必要はありません。
主に全てをささげる、主の御心に心から従うただ一人が居れば、主はその御業を成します。
人は主の御心を退け、自らの手で神を造り、自らの手で祭壇を造り、祭りさえ自ら造り出して、主を怒らせ続けてきました。
それは主の民であったとしても、いや主の民だからこそ、主をどれほどに悲しませ続けてきたことでしょう。
私達の理解の中に、常識の中に、知識の中に、ちっぽけな人間の範囲の中に主を閉じこめ、自らの思いを叶えるための都合の良い神を造り、都合の良い礼拝をささげる姿を見て、私達は歴史の誤りを、そして自らの信仰姿勢を見つめ直す必要があるでしょう。
同時にその中に現された神の御心と御業を、思いみるべきです。
かつて一人の小さな人を通して、宗教改革という、神の御業が成されました。
それは神の真理が真の自由を得させ、偽りの中に閉じこめられた人々を解放した瞬間でした。
世界中を敵にしても神の真理に立ち、神にあって霊の戦いに勝利を得た、歴史的事実に目を向けながら、今回は真のクリスチャンとしての生き方について、主の御言葉に耳を傾け、共に考えていきたいと思います。


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聖書箇所: 1コリント12:5-15

今主はご自身の特別な啓示によって、小さく弱い、取るに足りない私達のような存在の中に、ご自身を表そうとされています。
まさに神を顕す者として、この地に置かれた存在、それが主の教会なのです。
主はその行き着く先、主のご計画の完成の時に、ご自身を表現する唯一の存在として私達を、主を永遠に内に頂く、神の国の永遠の都として定められました。
まさに、永遠に神を表す者としての教会の、この地に於ける顕現こそ、私達の存在意義です。
主イエスが生涯を御父のため、御父を表すために全てをささげられたように、全て主に命をささげ従った者を通して、主はご自身を表し、顕現されます。
そして、今主はこれほどの恐れ多きことを小さき私達を通して成そうとしておられます。
人の理解を超えた神の御心の啓示、私達の心を主にささげ、主の御心を真剣に伺いと思います。

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聖書箇所: エステル3:17,18

私達は主により救われ新しい者となったと言われますが、どのようなものとされたのかを私達は本当に知っているでしょうか。本当に理解しているでしょうか。
神は私達を麗しい花嫁として、ご自身の全てで私達を満たし、飾り、栄光に与らせ、主に特別に愛された存在として、全世界にそれを見せつけようとするばかりに、私達を愛されます。
それは花婿なる主ご自身の素晴らしさ、愛の深さ、豊かさ、そしてご自身の栄光を、その全てを注がれた私達自身という存在が現すものであるということです。
しかし、その驚くべき事実と裏腹に多くの兄弟姉妹が閉塞感と絶望の中に閉じ込められています。
そして、その特権を受けるべく主に近づくことの麗しい関係ですら、恐れの中に失いつつあります。
何とサタンに植え付けれた偽りの深いことでしょうか。
しかし、主は今ご自身の深い愛の中、その麗しい栄光の光の中に私達を目覚めさせ、私達の本当の姿を教えてくださろうとしています。
真理によって、この長く深い偽りから、自由にしてくださろうとしています。
それは愛する主の花嫁達をご自身の元に迎え入れる備えのため。
永遠に主に愛され永遠に共に住まう、主にふさわしい花嫁として、私達を今目覚めさせようとしておられるのです。
真理によって、私達を解放せんとする主の熱い思いを受け、私達も今この御言葉に真剣に耳を傾けていきたいと思います。


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聖書箇所: ルカ20:14-18

私達は神から離れては何もすることはできません。
なぜなら、私達の内に神ご自身が満ち溢れること、それを除いて私達が完全に満たされることはないからです。
多くの人は(それがクリスチャンであっても)、それを自ら(の力)に依らなければ満たされることはないと考えています。
そこに神に背を向け生きる私達の罪の根源が見えます。
そして、悲しいことに神の私達に注ぐ愛の多くをそのことによって退けているということに気づくことすらありません。
しかし、もしも私達が本来のキリストにあるぶどう園のぶどうの枝のように、私達の生きる必要な全てのことを(全ての全てを)主からその命と共に受ける生き方をするならば、私達は主が私達にご自身の命と共に注がれた無尽蔵の富をもって、まさに天の御国に備えられた富をもって、全てが満たされ、その天の前味わいをこの地上で受けるという、想像を超えた恵みに満たされることとなるのです。
実は誰にでも与えられているけれど、多くの人が見過ごしている、主にある生き方について。
今回は私達が神から受ける取るべき本来の愛と恵みについて、共に分かち合いたいと思います。


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聖書箇所: 列王記上1:15-31

主がこの地を治める王となれるために立ち上がられる時、主の約束にあって、命をかけて共に立ち上がる者は誰でしょうか。
主が来られこの地を治めることは、この世の君にとって、そしてその支配下にあるこの世に生きる者(私達の仲間である兄弟姉妹ですら)にとっては極めて不都合であり、主がこの地に来られる時(リバイバルの時)は命の危機にすら及ぶ戦いがこの地に展開されることでしょう。
それでも偽りの言葉に騙されることなくサタンに支配を譲らず、心明け渡さず、神の約束の言葉にのみ立ち続ける者は幸いです。
その者はこの永遠に変わらぬ神の御言葉によって、主イエスのように、全世界と戦ったとしすても、完全な勝利を得るからです。
この主の御業のために、命をささげ立ち上がる者は誰でしょうか。
主と共に十字架の死を担う者は、そのよみがえりの内にキリストご自身と共に、キリストの無尽蔵の富を受けます。この朽ちるべき土の器の中に、生きる神の永遠の宝が現れるのです。
主はこの中にご自身の御業を成し、私達を通して神の栄光を現されます。
だから、主は全てを捨てて自らに従って来た弟子達を通して、ご自身の御心(ご計画)を、その御業をなされるのです。
このことによって、主はこの地に来られます。
こうして私達のただ中にある王座に主が着座され、私達を通して主は全地を治められるのです。
いや、私達はそのために主を内に頂き、新しく生まれたのです。
今は真の平和が求められる時ですが、世はその真の平和の作り出し方を知りません。
もし、私達が心から悔い改めてこの主を私達の内に王として迎えるなら、私達を取り巻く、緊迫する滅びへと向かわせる状況は一変するでしょう。王なる神が全地を治める真の平和が訪れる。
真の平和は神の民の心からの悔い改め、私達のリバイバルから始まります。
主の十字架(聖別)は今も昔も変わることなく、この奇跡(リバイバル・神の永遠の統治)の中心にあります。
あなたもこの方の初めの愛の内に留まり、この方だけのもの(聖別)として、真のクリスチャン(キリストの僕)として、全地の主を私達の内の王座に頂く者として、歩んでいきませんか?


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聖書箇所: 申命記30:8-10

神の恵みは、乳や蜜の流れる地に水が流れるように、高い所から低い所へと流れていきます。
この変わらぬ法則は、私達の心の内に於いても同様に、神の恵みは高ぶる者にではなく、砕けた魂に、低められた者の上に豊かに溢れます。
それは、十字架の死につけられ砕かれた者にこそ、主のよみがえりが現れ、そのよみがえりの内にこそ、主の圧倒的な御業が現れるのです。
そこにはキリストの無尽蔵の富が、私達の死と引き換えに、よみがえりと共に溢れ出します。
こうして、のろいに満ちた滅び死に向かうべき私達は日々この十字架の死と対峙して生きていますが、その死において私達はキリストご自身が持っておられる全ての神の資産(宝・豊かさ)、資質(神の性質・神性)、永遠の勝利を、よみがえりの内に受け取ることができるのです。
そして、神の言葉(聖書に語られている全てのこと)は、このよみがえりの内に現実のものとして現れます。
聖書に語られた時代と何も変わることのない恵みを、私達は今の時代の中で純粋に信じることができるでしょうか。
今主は、主の御業を成すためにふさわしい神の器として神の都(永遠の教会)の完成を、私達の内に成し遂げようとされています。
だからこそ私達は、偽りではなく神の言葉の中に留まり、永遠の都の中に日々生き続け、むしろ死に満ちたこの地に、よみがえりの内に神の国を現す者となるよう、神の前に望もうではありませんか。


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箇所: 列王記上1:43-48

主が王座に着かれる。この滅びに向かう国の真ん中、彼を愛する者達の中で。
その圧倒的臨在と共に、救いが全地に溢れ、主(シャロームの君)が全地をその命にあって、愛にあって、霊と御言葉によって治められる。
私達に幾度も主が語り掛けて来られた約束の言葉。
神はその約束の御言葉により、全てのことを成し遂げられます。
たとえ、私達の目の前の現実がその言葉と正反対に見えたとしても。人の(肉の)思いはいつも神に敵対しますから、確かに人は神の御言葉とは反対に物事を成し遂げようと、力を注ぎ、自らの力で世界を動かし、歴史を築こうとします。
しかし、全て神の言葉(約束)のみがこの地に成るのです。
ですから、いつ如何なる時もこの神にのみ寄り頼み、常にこの方を賛美する、神への礼拝の内に生き続ける者は幸いです。
主はそのことによってたとえ命の危機にさらされても、主にあり続けようとする者に、その死を超えて、ご自身の栄光をよみがえりと共に、私達の内に現してくださるでしょう。
そして、そのことを通して多くの者達が、神を知らずとも私達の中に復活の主を見て、この方こそ全地を治める全ての者の王であることを知り、その主権の前にひざをかがるでしょう。
そうして全地が神を崇めるようになる。
主がこの地に来られる、その時主をお迎えするために備え、豊かに成熟して主を喜ばせる僕は誰でしょうか。

今主の語り続けて来られた約束の言葉に如何に答えるかを問われている時です。
主の変わらぬ御心に、心から耳をかたむけて参りましょう。


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唇を心をきよめよ

2017年09月10日
聖書箇所: マタイ15:16-20

私達は案外と私達自身の日常的に交わされる会話やその心の奥底の本当の思い、「言葉」の中に潜む罪汚れについてそれほど意識をしていないかも知れません。
ある種無意識に、違う言い方ならば無自覚、無責任に言葉を放っている、心に野放しにしている。
しかし、主はこの言葉こそ「全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる【ヤコブ3:6】」ものであると、私達の想像以上にこの罪がはなはだしく危険なものであることを警告しています。
しかし私達はこの言葉によって救われました。
救いを得させる力のある福音の言葉を聞き、信じ、受け入れ、信仰の告白をもって、その心の言葉と口の言葉を全く一つに、救い主を信じて救われたのです。
神の御言葉である方、主イエスキリストは、その言葉によって私達をきよめ、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるため【エペソ5:27】」に、私達を救ってくださったのです。
私達は主の十字架の上で語られた言葉によって、ゆるされ、きよめられ、救われたはずなのです。
だから私達の唇は主を賛美するためにあるのであって、人をのろうためにあるものではない、私達自身を汚すためのものではないのです。
だからこそ、主はこの主の御言葉の中にとどまり、神の愛にとどまり続けるよう語られます。
この御言葉にとどまるとは、古い戒めであり、新しい戒めでもある、神へのまた隣人への愛、互いにキリストが十字架にかかってくださったように愛し合うこと。
闇の業に加わらず、まことの光(命の言葉)の内に生きるようにと主は言われるのです。
聖霊を悲しませてはいけません。
悪魔に機会を与えてはいけません。
だから今、汚れた言葉を私達の唇から、そして心から一切捨て去りましょう。
御言葉の中にある、永遠の愛の交わりの中に、私達は生きていこうではありませんか。

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聖書箇所: エゼキエル3:4-11

今主はこの地(国)をご覧になり、滅び行くその姿を嘆かれ、この地を治めるべくこの地に立てたご自身の聖徒達のこれまでの歩み、また今現在のその姿を見て、警告を語られています。
それはこの地を任せられたはずの者達が、本来の見るべきものから心を逸らし、この地に宝を積み、神に富むことなく、この地で自らが豊かになることに心奪われていると。神の民に対してつまりは私達自身に、神の目から見えるあなたがたの本当の姿を見よと語られています。
その姿は確かに神殿にその身はあるけれど、その実は偶像に顔を向け自らを豊かにせんと他の神々にひざをかがめるエゼキエルに見せられたイスラエルの民の姿そのもの【エゼキエル8-10章】。
しかし主は本当は私達を天にまで引き上げ、主の御座近くの特別な場所からこの地に、この御国の豊かさに生きる者達に「神の国(御国)の福音」を与え、この福音によって罪が熟したこの地を救うため、神の思いをもって遣わそうと計画されていたのです。
だからこそ、私達には神の御国の麗しさを主は語り続けて来られた。ご自身の御もとに全ての者達を引き寄せ、全ての者達を救うために。
しかし今私達は自らの思いの内に、「
このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。【黙示録3:16,17】」
と言われる存在にまで、自らを引き下げてしまったことを、主は私達に見せようとされているのです。
ですが主は、時(罪)は熟した、この地を裁くためにご自身が臨まれこの地に王座を置かれる時が来たと言われます。
だから目を覚ませと、私達の姿を直視し、悔い改めてもう一度主にあって立つようにと、迫られているのです。
今回は主の厳しくも私達への愛の故に、私達に与えられた本来の主の僕としてのあるべき歩みに帰れと語られる主の叱咤激励に、心から誠実に向き合い御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

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聖書箇所: ローマ5:1-11

今世界は大きく変わろうとしています。
人々の、国々の深まる罪の故に、主の裁きを免れ得ないほどに罪が熟しつつある。
このことには、これまで神の民と言われ、神と共にこの地を治める共同の相続人とまで語られてきた私達クリスチャンの責任が少なからず関わってきています。
この人々に、国に、世界に罪が深まる姿を見ながら、そしてこれほどまでにこれまで主の思いを語られていながら、私達がこれまでどのように過ごしてきたのか。
私達の思いは神の思いと一つとなってきたのか。あるいは日々の私達自身の生活の満足のために、神を退け、世に心を向け、世を愛しサタンに心奪われて生きてきたのではないのか。
神は世界の転換期に私達に悔い改めて本来の神の召しにのみ心を傾け、この罪の満ちる悪い時代から多くの人々が救われるよう、主の計画のために全てをささげ従うことを求めておられます。
そのように生きることは確かに主の十字架を負い、御足の跡をたどる歩みであり、そこは患難を通る道であるかも知れません。
しかしこの試練にこそ永遠に変わることのない、信仰、希望、愛を得る、私達自身にキリストの十字架が、その死とよみがえりの現れる道であるのです。
そこに現れる死とよみがえりにこそ人々を救う十字架が現れる。
今主がこの時代だからこそご自身に従う弟子達を求めておられます。
主の御心を受け取り、私達も主に十字架に向かい従い行こうではありませんか。
今の時代に語られる主の御言葉に心沈め共に耳を傾けて参りましょう。

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永遠の祭司

2017年08月20日
聖書箇所: レビ記29章

神はまさに私達と永遠に共に住まうことを望まれ、この地に於いてすでに主から片時も離れない者として、私達が永遠に祭司として生きることをご自身の血の契約により定められました。
つまり、天の幕屋に居られる大祭司なる主イエスキリストと共に、永遠にこの幕屋の中に、永遠の神の礼拝に仕える者としてくださった。
永遠にすべきことを今この地からし続ける生き方、多くの人々が見失いがちなクリスチャンとして最も大切な生き方がここにあります。
もしもその中に生きるなら、永遠の安息と祝福の溢れる、この地の生活をも満たして余りあるものを得るでしょう。
また、この永遠の御国の中に、私達はキリストご自身を永遠に汚れなき祭司の衣として着、天の王国の王族として、愛する主との麗しい永遠の交わりの中に、今生きる者として、永遠にとどまり続けるのです。
今回は永遠の命を与えられたクリスチャンの本来の生き方について、主の永遠の愛の招きに心開きつつ、耳を傾けて参りたいと思います。

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主が共に住まう

2017年08月13日
聖書箇所: 歴代志下26:4-23

主が共に住まう。このことは聖書を貫く人と神との関係の中心です。
聖書の歴史、イスラエルの歴史はそれを中心に進んできたと言うことができるでしょう。(祭壇、幕屋、神殿、教会、)
そして、そのことを完成することこそが神の御心の中心。やがて完成する新しい天と新しい地の姿、それこそが神と人が永遠に共に住まう、神の計画の結論、聖書の結論なのです。
全世界は、またすべての歴史はそれに向かって歩みを進め、人の人生もそこに向かって進んでいくのです。
だからこそ、神の臨在の中に生きることがどれ程重要なことか、私達はもう一度聖書の言葉から認識し直し、そこにしっかりと立つ必要があるでしょう。
今回は「主が共に住まう」と題して、この聖書の中心的主題について、心から主の御言葉に耳を傾けて行きたいと思います。

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主に身を献げる

2017年08月06日
聖書箇所: マタイ25:28-30

全てを捨てて主に身を献げて生きる。これが聖書に登場する主イエスの弟子達の姿です。
そして、この基準を主イエスの弟子としての標準とし、全世界の国民を弟子としなさいと主は語っておられ、それが主の願いであり、言い方を変えるのであればこれこそがクリスチャンの基準であると聖書は語っています。
この神を中心に、神の御心のために、神のご計画に従って生きること。今私達はこの基準をどのような思いで受け止めるでしょうか。
しかし神がこのことを語られるのには大きな理由があります。この神が全世界の中心であり、この方が天地万物の主権者である。これが聖書の中心の真理であり、信仰の中心であるからです。
しかし、世は私達を中心に世界が作られ、私達を中心に世界が動いているかのように、語ります。
そして、その影響を多くのクリスチャンが受けているのです。
けれど、主の祝福の中心もこの真理の中にある。それが真実です。
神に身を献げ生きる中に注がれる特別な祝福、守り、現れる神の栄光。
むしろそこから心離す者が失う、本来クリスチャンが受け取るべき特権たる天来の恵み、それが如何に大きな損失であるのか。
私達が受け継ぐと言われる天の御国の恵みは、すでに今私達が過ごすこの毎日の中に始まっているのです。
今私達の心はどこに向かって生きているでしょうか?
今回は主の弟子として主に身を献げ生きることの大切さと特別な幸いについて、主の愛の御言葉の内に、その祝福を受け取っていきたいと思います。

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聖書箇所: 1コリント15:12-58

主はこれまで私達に、幾度も明確にご自身の約束を語り続けてくださいました。
それは滅び行くこの地を、私達を通して救ってくださるという大きな大きな約束。
そして、聖書に登場する信仰の勇士達も、神からの約束を握り、多くの神の計画を彼らを通して成就して行きました。
そこには神の約束に従った者だけに与えられる特別な祝福と恵みが満ち、驚くべき神の御業に富んだ生き方が存在しています。
それは自らの生活に目を向け、朽ちる食べ物のために生きるのでは見ることのかなわない、朽ちないものを求め、主の御心のみに目を向け、永遠に至るまでの道のりを今歩んで行く、信仰によってのみ歩むことのゆるされる永遠の祝福に満ちた歩みなのです。
そして、今主はその約束の時は満ちた。私に従って来なさいと、私達にやさしく御手を伸べて私達を招き、この永遠への福音を全地に宣べ伝えるよう召しておられるのです。
まさに神からの特別なリバイバルに向けての召し。
主は改めて今私達に語って下さっています。
今回はこの主の特別な語り掛けに、余りある恵みに心から感謝しつつ、耳を傾けて参りたいと思います。

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聖書箇所: ヨハネ17:20-26

主は私達を愛し、愛し尽くして、実にご自分の命さえ与えてくださいました。
それほどに愛して下さる方に私達はどうしてその愛に答えないでいられるでしょうか。
しかし、その愛に答えるには私達の愛はあまりにも小さく、全能の神の前では私達は何をしようとも、小さく弱く、私達にできることなど何もないかのように思えます。
あるいは何をささげようとも、すべては神から与えられたものであり、私達には神をいかにすれば愛することができるのかと、主を愛することとは如何なることかという、愛するが故の課題にぶつかります。
まさに聖書中に生きていた多くの人々も、その小さな人生の中で、そのような問題に生涯をかけて答えを求め、全身全霊で神を愛していったのではないでしょうか。
主の愛に命をかけて答える。その人生の全てを献げて神を愛するということ。それはどのようなことなのか。
聖書の先人達の歩み、そして聖書が語られる神を喜ばせる愛について、今回は聖書の中から主に教えていただきたいと思います。

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主は語られる

2017年07月17日
聖書箇所: エペソ1:17-19

今この国に必要なことは神を知り、また神の御言葉を知ることではないか。まさに神に逆らい滅びという結論に進み行かんとする今の日本を見ると、そのことを改めて考えさせられています。
まさにこの神の知恵(御言葉)こそ、全世界を治め得る、また如何なる宝より価値ある、全ての始めに求めるべきものであることを、神を信じる私達自身が今はっきりと認識し、そこに揺るがない価値観と信仰を持って歩む必要があります。
しかし、それは人の知恵、人の力では決して及ぶことはできません。これは神の知恵なのです。
そして、この神の知恵は神の霊によって、啓示されて始めて人に窺い知ることがゆるされる、神からの一方的な恵みでしかないことを、パウロはガラテヤ人への手紙を始めとし、多くの手紙の中で語っています。
神の言葉であられる神は、ご自身の知恵と啓示の霊によって始めて、私達にご自身を現され、私達はそこで始めて神を知るのです。

今回は神の御言葉の啓示について、主の語りかけに耳を傾けて参りましょう。

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聖書箇所: ルカ 19:11-27

主から、ご自身の命をもって与えられた新しい命をいかに主のために使うのか(主に献げるのか)。
私達は主に救われた後の命を、あまりに自らのために生きることに用いていないでしょうか。またそのことをあまりにごく当たり前こととしてはいないでしょうか。
しかし、主はそのような私達にはっきりと「自分のために宝を積んで神に対して富まない者【ルカ12:21】」と語り、「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。【ルカ14:27】」と、弟子とは全てを捨てて主に従った者であると明示されているのです。
そして、主は同時に「すべての国民を弟子とし【マタイ28:19】」とこの条件が全てのクリスチャンに対するものであると言われるのです。
主はこの弟子となった者に始めて、ご自身の御心の奥深くを現わされます。
まさしく主のために生きたダビデがそうであったように、多くの人が気づくこともなかった、しかし最も重要な主の御心を、その主に献げた愛の故に見つけることができる、行き着くことができる。
主はそうして実にご自身の計画を、ご自身を愛して止まない者達を通して成し遂げて来たのです。
そして、主はそのような者に「よい僕」と語り、「小さい事に忠実であった」とほめてくださり、報いを与えてくださるのです。
それはこの地上に於いてこの地を治め、やがて完成する天に於いても主と共に治める者となるという、驚くべき約束。
この地に於いて朽ちゆくものに心を奪われるのではなく、天に宝を積む者になる。その天の宝こそ、やがて嗣ぐべき天の都の材質であり、そのように私達自身が天の都とされることの備えを、この地で積んで行くことこそ、主に報いを受けるほどに喜ばれる者であると聖書は指し示しているのです。
あなたの目は天に向けられているでしょうか?あなたの心はどこに置かれているでしょうか?
永遠の報いを思って生きていきましょう

主の報いは私達の想像を遙かに超える壮大・壮麗なもので
す。
そのために私達もダビデのように主を深く愛そうではありませんか。
今回は主が望まれる信仰者としての生き方について、主の御言葉に耳を傾けて参りましょう。


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