最上の礼拝で主を迎える

聖書箇所: マタイ2:1-21

主のご降誕の時には必ず語られるインマヌエルの預言イザヤ7:14ですが、実はこの言葉が語られた時、その言葉はそのまま受け入れられたのではなく、むしろ拒絶をされました。
預言者イザヤは当時のユダの王アハブにこの言葉を語ったのですが、そもそも当時ユダが脅かされていたイスラエルとスリヤの王の謀略に対する救いを約束した主の言葉、それを信ずることができるよう、しるしを求めよと主はアハブに迫られた、それがこの箇所です。
しかしアハブはこの主に頼ることはしないと主を拒絶するのです。
そして、語られた預言を自らの力で実現すべくこの2国に対抗するためアッスリヤを金で雇うのです。
そして、むしろこのスリヤの王が崇める神を自らも崇めれば力が得られるだろうと、神の祭壇を捨てスリアの神の祭壇をそこに築き、神を怒らせました。
このことは決して他人事とは言えません。なぜならこのイスラエルの姿は今の時代の日本の状況に酷似しているということができるからです。
近隣国の脅威から守られるために、列強国の力を借りようと同盟関係に右往左往する。
しかし、この平和を守るためシャロームの君である神にのみ頼るということをしない。それは神を知らない者だけではなく、神を信じるクリスチャンがむしろ自らの生活にのみ関心を持ち、主に平和を求めることをしない。
主は今私達をそしてこの国をどのような思いで見つめておられるでしょうか。
このインマヌエルの預言と神への拒絶は、この救い主の誕生においても現実のものとなります。
ユダヤ人の王として生まれる救い主の
誕生を、当時のイスラエルの王ヘロデは危惧し、殺害を企てます。
また救い主の誕生を迎え入れるため選ばれた選びの民であるイスラエルの民も同様に救い主の誕生を、自らの変わらぬ生活を脅かすものとして拒絶し喜ばないのです。
主イエスはこの拒絶の中で誕生しました。
しかし、この誕生を何よりも心待ちにし、喜び、迎え入れたのは、小さく弱い神を頼りとするしか生きることのできないような者達でした。
また同様にはるかいにしえの預言を信じ、ただ救い主を求めて、はるか遠くから旅した博士達。彼らは私達に先駆け異邦人でありながら救い主の降誕を迎えることを許される恵みにあずかりました。
さあ、今私達はどのような面持ちでこの救い主をお迎えするでしょうか。
主はこの救いの必要な罪の熟したこの国に、ご自身が臨まれ救われると幾度も語りかけておられます。
ですからこの時、私達が自らの生活に追われ、世を求めて生きる者達であるなら、この主の訪れは迷惑以外の何ものでもなく、主のご降誕は形だけの喜びの時となるでしょう。
今主は本当に心から主をお迎えする者達を求めておられます。
それは心から救い主を求めるがゆえ、最上のささげ物をささげることのできた博士達のように。
決して人の知恵では辿り着くことのできない、神のご計画された救い主だけにふさわしいささげ物、そしてそこにささげられた最上の礼拝。
今私達が心から主が来られることを求め望むなら、私達は主への最上のささげ物、礼拝をもって、主をお迎えすることができるでしょう。
今回は主のご降誕を心から喜び、まさにこの国に救いを携えて来ると語られる主の御言葉に、心から耳を傾けて参りましょう。


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