王の統治を継ぐ者

2016年07月31日
聖書箇所: ルカ11:1-4、マタイ6:9-13

主は私達に必要充分な祈りとして、「主の祈り」を与えてくださいました。
である以上、この祈りには私達の(この地上での)生活がどこに向かうものなのか、何を求め何をするためのものであるのかという重要なことが語られているわけです。
この祈りは前半に神とのこと、後半に自分・隣人(世)・サタンとのことに関しての祈りが語られ、また前半は天のことを、後半に地上のことを、その中間に天が地に来るよう求める祈りで構成されています。
地のことは天に次ぐことであり、天でのことが主の御心にあって、地に現される。それを全て統べ治めるのは神である。
私達はだからこそ、神の国(主の統治)を求める祈りが必要なのです。
私達はこのことをどれほど真剣に求めていたでしょうか。
しかし主は「ただ神の国を求め(ルカ12,31,32)」るよう語ります。
神の国を与えることこそ父なる神の御心であるのです。だから「恐れるな」と言われるのです。
神が王として治められる国を求めるのだから、その内にあって「恐れるな」と。
同時に主は求め続けよ。捜し続けよ。たたき続けよ。(ルカ11:9-13)と語り、そうすれば聖霊を与えようと約束されます。
この聖霊こそ、神の国を継ぐことの保証たる証印(エペソ1:13,14)、保証とは天国の全体を前味として、聖霊くださることにより与える、前金という意味を持つ言葉です。
そして、この聖霊こそ「キリストの無尽蔵の富(エペソ3:8)」と言われるものであり、私達は神の完全なる充満(満ち溢れる)中、神ご自身を我が内に持ち、このキリストと共にこの地を統治する、神から相続を受けているのです。
私達は神ご自身を受け取り、同時に神の王国とそこに満ちる万物、そして統治権そのものまでも、受け取る者となった。父なる神はこれを私達に継がせたいと、私達を神の子としたと語るです。
何と驚くべき事でしょうか。
私達はこの神の国を、神の統治を、その御心が地に成るよう真剣に求めているでしょうか。
私達はこのように主から全てのものを受け継いでいます。
何をこれまで恐れていたのでしょうか。
だからこそ、この神の国がこの地に現れるよう、天の御心がこの地に成るよう、心から求めようではありませんか。


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聖書箇所: ピリピ3:13ー14

私達は信仰の目によって、見るべきものを見て、そこに向かって歩んでいくことができます。
多くの信仰者が肉の目(人の目)によって、世と地上を見て歩みます。そして人に伺い知ることもできない未来に、思い思いに予定や目標を立て、歩むことに疑問を持ちません。
しかし聖書を通して主は語ります。やがて主の来られる日に、自らの言動に応じて主から報いを受けなければならないということを。
ですからこの厳粛な事実に目を向けて歩むということは神の基準であり、私達はそれを知って歩むべきなのです。
信仰の目は、主が再び来られる日を見せ、主の目に私達が如何に映っているかを見させるのです。
また、私達の人(肉)の目では神の計画を見ることはできません。
本来は主から恵みを受けることすら与えられていなかった異邦人である私達が、神の深遠な奥義の内に、約束を与えられている選びの民イスラエルと共に、神の国を継ぐことをゆるされるなどとは、最初使徒達でさえ、人の目には知ることができませんでした。
神の計画は主の目、信仰の目によってのみ知ることがゆるされる。信仰の目によってのみ、私達は神に喜ばれる御心の内を歩むことができるのです。
次に信仰の目は、天の幕屋、聖所を見させ、私達をその内に導きます。
主イエスが自らの肉体を裂いて、至聖所と聖所の隔ての幕を裂き、その贖い血に全ききよめをもって至聖所に私達を招き入れてくださいます。
この天の幕屋と聖所での永遠の礼拝を私達は、日々の生活の中に見出す永遠の礼拝の中で、またこの共に集まりささげる礼拝の中で、味わい知ることができます。
このことを抜きにして、もしもクリスチャンがこの地上を歩むのであれば、つまりは、天の永遠の都を思い見ることをしないでこの地を歩むのであれば、それはどこに希望を持ってよいのかわからない味気なく、果てしない苦しみの中、人生を歩むこととなるでしょう。
しかし主はこんなにも身近に、御国を継ぐ証印たる聖霊を通して、天の御国の前味わいを私達に与えてくださいました。
信仰者はこの信仰の目をもってこそ、御国を見て、この地上を天の御国に生きるように、歩むことができるのです。
このように私達の歩みは前(未来)へ上(天の御国)へと向かう歩みです。
そして、それを見せるのはまさしくその中心に居られる主イエスキリストを信じる(に信頼する)信仰をもって開かれる霊の目のみであって、これによってのみ私達は進むべき信仰者の道を歩むことがゆるされるのです。
信仰の歩みは決して窮屈なものではありません。むしろ、この主の目は私達の心を広くし、真の自由と希望を得させて、人生を神の喜びを持って歩むことを教えてくれるのです。
さぁ、だからこの目を開いてくださるよう、主に目を向け祈ろうではありませんか。


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聖書箇所: ヨハネ9:35ー41

信仰の目が開かれているかどうか。この差は信仰者としての歩みに大きな変革をもたらします。
信仰の父と呼ばれるアブラハムが見えないものを見るようにして、神の約束だけを握り歩んで祝福の基となったように、信仰の目はさらにその先に広がる永遠の都をも見通し、この地上を神の約束の成就のために歩かせ、だからこそこの地に於いても有り余る祝福を受け取る、天と地の祝福を得る人生を歩ませるのです。
それは肉(人あるいは地上)の目を持つロトには、選ぶことのできなかった歩み。
主はまずこの肉の目を閉じるため、まず世から離れる所から、その一歩を踏み出すことから始め、そこに主ご自身を現し、信仰の目を開いてくださいます。
全ては主の主権をもって治められる神の国を求め、まさにそこに神の義が現されることを切に求め続けるところから始まる、「神の国とその義とをまず第一に求める【マタイ6:33】」歩みであり、そこに主はこの地上の必要を何一つ欠けることなく添えて与えてくださいます。
しかしあくまでも主の統治の(神の国が地を治め覆う)計画が第一であり、その上に私達の幸いがあるのです。
この計画は、先に天地万物が造られる前から私達が選ばれた所から始まっており、すでに天上のもろもろの霊的祝福を与えられて、この御国の完成の計画のために召されたのであり、私達の世の常識的な日常の歩みとその順番を、またその目的を逆転し覆すものです。
また神の国の統治は、この地上に実際の現象として後に現れるものであり、信仰の目はそれを、先行して天(霊的世界)で起こっていることを見させるものです。
そして、この神の統治こそ、全世界に対し全ての歴史を貫いて存在する最も確固たるものであり、私達はこの統治を、私達の内に、全地を統べ治む真の王の王座を抱くことにより、全地に至らしめるために選ばれた、神の永遠に都であり、それが主の教会なのです。
私達が目を開かなくてどうして神の統治がこの地に来たるでしょうか。
私達はそのために救われ、新しく生まれたのです。
今回は主に私達の信仰の目を開いてくださるよう祈り求め、そしてそのことによって真の主の教会としての歩みをこの地で歩めるよう、共に分かち合って行きたいと思います。


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天国は近づいた

2016年07月10日
聖書箇所: マタイ4:17

主は「悔い改めよ、天国は近づいた【マタイ4:17】」と高らかに宣言され、宣教を始められました。
これは天の王国の王が直接、この地に宣言される言葉であり、本来のこの天地の主権者がこの地に来られたということを意味することです。
そして、この方が王として来られた以上、この方は王座に着かれ、全地を支配し統べ治めるために来られたのです。
この王座は私達の内にあります。私達こそ、この王座の置かれ全地を統べ治めるために備えられた、神の永遠の都と呼ばれる者であり、この方の永遠に住まわれる主の宮であるのです。
だからまず、私達がこの王座に、私達の心の王座から私達自身が下りて、王を迎える必要があるのです。
もしも私達がこの王座に自ら君臨し続けるのであれば、私達はむしろ罪の奴隷となり、死の恐怖の内にサタンの奴隷となり続けるのです。
私達は永遠の都新しいエルサレムであり、キリストの花嫁と呼ばれる者、決して自らの欲望を自らで(神から離れて)満たしサタンと姦淫を犯し続ける大バビロンと言われる都、大淫婦となってはならないのです。
だから主はまず私達に語られます。「悔い改めよ、天国は近づいた【マタイ4:17】」と。
神の国はこの世とは全く逆の法則を持っています。
それは主ご自身が全てを満たす、主の圧倒的な愛の中にあるため、私達自身で自らを満たそうとするのではなく、むしろ何も寄りどころなく主に寄り頼む者、空の器にこそ主の御業は現れ、主の栄光は満ち溢れる御国。
さらにその恵みは私達が愛をもって分かち合う中に、さらに満ち溢れ、命の川は溢れ流れる。
そこに現された栄光を携え、私達はこの栄光を受けるべき方に、永遠の礼拝をささげる。
まさに、ここに天の御国の構図がそのままこの地に現れるのであり、私達はこのようにこの地に於いて、天の御国に生きる者とされているのです。
この恵みに生きる者私達は、だからこの苦しみ悩みの中に生きる世の人々に高らかに宣言するのです。「天国は近づいた【マタイ10:7】」と。


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天の王国の王族

2016年07月03日
聖書箇所: 列王記下25:27-30、サムエル記下9:9-13

主により贖われ救われた私達の姿を、聖書は驚くべき姿として語ります。
それは、神の王国の王族として、王なる主イエスと、深い交わりの中、全てを主に満たされ、もう罪人の服は脱がされ、主イエスを王族の服として着た姿。
私達はその姿を本当に知っているでしょうか?
そのような者として、この地に本当に生きているでしょうか?
それは主を信じる信仰の目によって初めて見ることをゆるされる姿。
そのため、この世の不信仰の目によっては決して見ることができず、であるからこそ、私達が遣わされる場所、つまりは家庭や、学校や会社、社会の中では、その姿は見えません。
むしろ神の言葉を退けるが故に多く預言達が迫害されたように、私達はその中では神の御言葉の中に生きる者である以上迫害すらされるのです。
でもそこで、主は私達がそのことに恐れ、妥協し世に引き寄せられ、世に帰ってはならないと、むしろ私達が神の王国に生きる者として神の王国の中にしっかりと留まり、世に生きる彼らを神の王国に招く者となるよう語るのです。
このような、世に親しみ、肉の思いの中に生きる生活の中から、神の王国の中に生きるには、全てを置いて神の愛に信頼して神の御手に飛び込むしかありません。
私達が生きるのは命と死、祝福とのろいの狭間に生きているのです。
罪と死からの訣別を与えるのは、主イエスと共に十字架に死ぬ他ないのです。
しかし死ねば、神の御霊は死ぬべき私達をよみがえりの命にあって生かし、むしろこれまでの罪を犯し続けるこの地に属する命から、天から降ったこの霊によって天に属する性質(神の性質)を持つ新しい命に生かしてくださるのです。
そして、御霊に導かれる者は神の相続を受け、神ご自身と共に、神の王国と、天地万物の全てを、相続として受け、神と共にこの天地万物を治める者とされるのです。
もはや涙は拭われ、「死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもな【黙示録21:4】」く、私達を悩ますのろわれたこの地のものは「先のものが、すでに過ぎ去った【黙示録21:4】」と主の言われるままに終わりを迎えるのです。
そして、神の「見よ、わたしはすべてのものを新たにする【黙示録21:5】」と言われる中、私達の命と共に全ては新しくされ、主はその十字架でこの全てを成し遂げられ、「事はすでに成った【黙示録21:6】」と高らかに宣言されるのです。
まさに私達はここに天の王国に入れられ、永遠の礼拝の中にこの王国に生き続ける者とされたのです。
いかがでしょうか。これがクリスチャンの生き方、真の姿です。
ここに語られることは決して絵空事ではなく全てが霊にあって真実です。
すでに私達は神の王国に入れられ、この王国に於いて、全ては成っているのです。
あとは主の愛の御手に飛び込み信仰の目を開いてもらい、この真実の中に生きるのみです。
では主の御言葉に耳を傾け、この驚くべき恵みを共に分かち合いましょう。


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