聖書箇所: 雅歌8:6,7

主は今私達の心の内を探られ、キリストの花嫁達の、冷めゆく主への愛を嘆き悲しまれています。
まるで姦淫に走る女のように、その心が神から離れ、自らの求めるものを得ようと心定まらぬ者達を、その心がどうして神の愛から離れてしまったのかと語られているのです。
まさに私達が救いと共に受け取ったものは、キリストにふさわしい花嫁として飾られた無限の恵みであり、主の一方的な愛によって、与えられたものです。
その絶大な愛を何に取り替えてしまったのか。
神は今私達に主への真実の愛がどこにあるのか問われているのです。
主は私達が、罪を犯し続ける(心神から離れ生き続ける)故に、再び滅びに向かうことを望んでいません。
むしろ、そこから立ち返るために徹底的な聖別を求めておられるのです。
罪を聖別し根絶するのは、主イエスの十字架の死しかありません。
まさに主の十字架の前に悔い改める日々は、私達自らを死につけ、罪から根底的に解放される道に他なりません。
死こそ私達をその罪ごと十字架に釘付けにするもの。そのことにより古い私達が釘付けにされるのです。
しかし私達はこの死に留められ続けるのではなく、この死を経るからこそ主と共によみがえります。
天から下された主の新しい命により、私達は新しく造られるのです。
まさに神の国はこの新創造の国であり、肉と血、朽ちるものは、朽ちないものを継ぐことができず、神の国に入ることはできないのです。
つまりは私達は、新しく造られなければこの神の国に入ることができないというわけです。
そして新しく造られたからこそ、主が来られる日には、私達はまさしく花嫁の姿として、主の栄光に輝く新しい永遠の都の姿をとって、主と永遠に共に住まうことになるのです。
この時、主の愛と私達の愛は永遠に一つとなって、結婚の奥義は完成します。
その日に至るまで主は、私達の中に愛が育まれることを望み、最初に十字架によって与えられた、主からの一方的に注がれた始めの愛にとどまり続け、私達の内に主の愛に答える花嫁にふさわしい愛が満ちることを待ち望んでおられるのです。
だからこそ、主は私達の内に主への真実の愛があるのかと、私達に改めて今問われるのです。
主の永遠の愛に答え続ける、主への永遠の愛を、私達の内に大切に育み満たすこと、そのために私達が十字架の愛の内に日々とどまる生き方について、今回はクリスチャンの心の内側を知り尽くされる神の、私達に注がれる愛のまなざしに心開いて、主の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。


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聖霊のバプテスマ

2016年10月28日
【使徒行伝19:1-6】
19:1 アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、
19:2 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
19:3 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。
19:4 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。
19:5 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。
19:6 そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。
「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか(19:2)」
この質問はとても単刀直入に感じます。
しかし、だからこそこの質問の内容がとても重要なことであることがわかります。
聖霊のバプテスマを受けることをパウロがいかに重要なこととして捉えていたのかはその後の質問と、行動によって知ることができます。
その質問のやりとりは、誰の名によりバプテスマを受けたのかという言葉が続き、その違いを明確化するものでした。
つまりバプテスマのヨハネが授けたのは水により悔い改めのバプテスマを授けたのですが、主イエスの名により、水の洗礼を受ける必要があった。
それは意味が全く異なるバプテスマであったからなのです。
【ローマ】
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
この主イエスの名によるバプテスマとは、同じ水のバプテスマですが、主イエスキリストの死とよみがえりにあずかるバプテスマであるということがわかります。
つまり主により新しい命を授けられ、これまでとは異なる命(これまでの命とは生来の命であり、すでに死につけられている)により生きる、全く新しい者として生まれたことを現すものです。
しかし、パウロはそれだけにとどまらず、さらに彼らの上に手を置いて、結果彼らは聖霊のバプテスマを受けました。
パウロがそのような行動をとった理由は、バプテスマのヨハネ自身が語った言葉の中に明らかにされています。
【ルカ3:16】
「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」
バプテスマのヨハネは、主イエスについて証しをすると同時に、バプテスマのヨハネ自身が授けているバプテスマ(水)と、主イエスが授けるバプテスマ(聖霊と火)の性格が根底的に全く違うということを語っています。
そして、それは人によっては決して授けることのできない、神によらなければ授けることのできない性格の、ありえないバプテスマを語っているのです。
だからこそ、このバプテスマは天的なものであり、特殊で重要なものであることがわかるのです。
主イエスは天に上って行かれる直前にこのバプテスマの重要性を語りました。
【ルカ24:45-49】
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。
24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
【使徒行伝1:8】
1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
ここにこの聖霊のバプテスマを受ける者は天(上)から力を授けられるとあります。
この力は『デュナミス』という言葉であり、ダイナマイトの語源にもなった、爆発的な力を意味する言葉です。
つまり、天的な(神的な)絶大なる力を授けられるものそれが聖霊のバプテスマであり、その力により私達を地の果てにまで主イエスの証人とするものなのです。
いや、だからこそ、初代教会の兄弟姉妹が爆発的に世界宣教へと拡大していく力を与えられていたことは使徒行伝の記述を見れば明白なことでしょう。
またこの「証人」とは殉教者の意味を含む言葉でもありますので、自らの命をも顧みないということでもあります。
が言い換えるなら、自らの命よりもはるかに価値のあるもの、天の御国とその御座に居られる王なる方、主イエスという永遠に最も価値あるものを見させる力が私達の内に働くということがよくわかるのです。
【使徒行伝7:54-60】
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
7:58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
パウロはこのステパノの死にゆく様を恐らく間近で見た者であったでしょう。そのステパノに主イエスが十字架の上で言われた言葉と同様の言葉を言わしめた力を。
天の御国を見た者が、喜びに満ちて神に命をささげる様を彼は間近で見たはずです。
いやそればかりでなく、後にクリスチャンの熱心な迫害者となったパウロは、多くのクリスチャンを迫害する中で、神から注がれた証人としてのこの絶大な力を、最も近く目の当たりにし続けたことでしょう。
だから、この聖霊のバプテスマを受ける重要性を最もよく知っていた。いや自分自身が後にこの著しい力に押し出されて宣教し続けたのです。
だからこそ彼は、今日の聖書の箇所で最初に彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか(19:2)」と尋ねたのです。
今この聖霊のバプテスマということが教義の分裂ということだけでタブー視されがちです。
しかし聖書にはこの聖霊のバプテスマは現代の時代には存在しなくなったとか、著しい聖霊の働きは今は見られないといったようなことは、聖書のどこを探しても語られていません。
確かに全ての霊の働きが神からのものとは限りませんから、よく吟味する必要はありますが、しかし全ての霊的に著しい働きが悪霊からのものということは神にゆるされていません。
【マタイ12:31,32】
12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
12:32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
むしろ、聖霊のバプテスマを受け、さらに聖霊に満たされ続ける歩みの重要性の方がはるかに多く聖書には語られているのです。
聖書に語られている御言葉はそのまま信じるに価します。いやそこからしか、神を知り神に近づく道は存在しないのです。
むしろ終わりの時代主が再びこの地に来られる時に、主への信仰がなくなっていくことを「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか(ルカ18:8)」と、主は気にかけられているのです。
ですから、私達は今一度この聖書に書かれている御言葉を、そのまま信じるという立場に立ちましょう。
そして、主イエスがこの地を去られ天に上られる時、私達に託した主の願い大宣教命令と共に、そのために「上から力を授けられる(ルカ24:49)」よう主が語られた御言葉をそのまま受け止めたいと思います。
さあ共に、主のご計画が地になり、この地を、この国を、主が勝ち取られるために、大いなる主の絶大なる力が注がれる必要があることを主に訴えましょう。
主より聖霊のバプテスマ、上よりの力を授けられるよう、共に祈ろうではありませんか。

聖書箇所: 出エジプト32:11ー14

今主は私達の心をご覧になり、その有り様の奥深くまで、探られます。
それはまさに滅びに瀕するこの国に置かれたクリスチャンとして、この国を主の元に勝ち得て救いに導く者達として、今如何に生きているかということを問われているのです。
自分達だけが幸せである道を求めて歩む信仰のあり方を、主はそれが本当に主の御心を知り、主に対する真の信仰をもって歩んでいる姿だと言えるのかということについて。
アッスリヤ、バビロンに捕囚されるまでのイスラエルがそうであったように、それは、国に、地に、罪が、悪が満ち、滅びへと真っ直ぐに向かう、そのような時こそ、それまでにその地に立てられた主の宮(クリスチャン)がどのようであったのかということが、その悲惨な現状に密接な関わりを持っているからです。
主はそれがたとえ人の目に何ら変わりなく信仰に見えるものであっても、主ご自身が私達に聖書をもって語られる真実の信仰と異なるものを、聖別されようされます。
イスラエルがかつて造り出した金の子牛を祀った祭壇と同様に、主はそのようなものを忌み嫌われます。
この金の子牛こそ、エジプト(罪の世)から救い出された人々の心を、再び神から離しエジプトに戻そうとするもの。自らの欲望をかなえる、自らの思う通りに生きるために造り出された都合の良い神。
人はこの都合の良い神という名の金の子牛(偶像)を祀り上げて、真の神と対立するのです。
それも、神の祝福の溢れる約束の地ではなく、自らの力で生きなければならないのろいの地、エジプトに逆戻りしようとするために。そして彼らはそここそが乳と蜜が流れる地だというのです。
何とも無駄で、悲しい結末でしょうか。
神にせっかく救い出された者達が滅びへの道を、求め戻ろうとするとは。
神のご計画を求めず、自らのことしか考えることのない者達の行く末はこのような神への反抗と滅び、そして主に裁かれる道でしかないのです。
終わりの時代を語る聖書の箇所には、このような道に巧妙に導く指導者とそれだけを求める民達の姿が明確に示されています。
そして同時にその地への裁きは神の家から始められるのだと言うことも。
しかし、主は彼らが裁かれることを望まれる主ではありません。
だからこそ、主はご自身に不忠実な民イスラエルのために、あるいは始めから神に逆らい続ける強情な民であることを知りながら、導きとりなし続けるモーセという神の家に最も忠実な人物を、そこに立てたのです。
彼こそは神に逆らい常に滅び続けようとする民の破れ口に立ち、命がけでとりなす者でした。
まさに自らの永遠の命でさえ投げ出してとりなす様は、主イエスが私達の罪のため、ご自身を永遠の裁きへとその身を十字架に投げ出す姿に重なるものであり、これこそ永遠のとりなし手である主イエスの思いを、その身をもって、その苦しみの足りないところを負う姿でありました。
新約の時代においては、まさにパウロの書簡の中の随所にそのような、主イエスの十字架を共に負う思いが語られています。
このように主は今この国を救いに導くために、神の家にまず目を向けられ、真にとりなす者を求めておられます。
特に、この国を救いに導くべく選ばれた民達が、その心が神から離れ逆らいすらしている、その破れ口に立ち、再び主の宮として、多くのこの後救われるべき魂を入れるべき器として整えられるよう、この神の家ためにとりなす者を今求めておられるのです。
今主が私達に厳しくも、その愛の内に、ご自身と思いを共にする者を求められる思いについて語られる真実な言葉に、心開き耳を傾けていこうではありませんか。


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心砕かれる

2016年10月20日
【詩篇34:18】
34:18 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。
私達の性質は根本が高慢です。
全てが神により与えられたもの、全てを成したのは主であるのに、私達はそれを自分の何かのように、主の栄光を自らのものとして誇ります。
自分の経験、知識、力、信仰、自分の何ものかで成し遂げた、あるいはその何ものかがあるからこそ、今日をまた毎日を生きることができると考える。
残念なことに私達はそれに全く気づきません。私達は毎日自然にそのように生きている。
私達は人としての成り立ちの根本を忘れ、神に背中を向けて、自らを誇り、自らの力により生きていると勘違いして生きている、それが私達の姿です。
忘れてしまっているのです。知らないのです。
自分が一被造物に過ぎず、塵のような存在であり、創造主である神に生かされて生きているということを。
自分が自然に神を必要としないで、だからこそ神に背中を向けて生きているのだということを。
聖書にあるヨブという人物は、神が誇るほどに義人でありました。彼は自分の信仰により、罪を犯さないように生き、その正しい行いのゆえに神はサタンに彼の義人であることを「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか(ヨブ1:8)」と誇りました。
ですから、彼は子供たちも、持ち物も、自分の健康でさえ失い、全てを失ってても、「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった(ヨブ2:10)」のです。
彼は行いに於いても、言葉に於いても正しかった。
しかし、彼は彼を見舞いに訪ねた友人に罪を犯したからこの苦しみにあったかのように責められ苦しみます。そして苦しんだからこそヨブは、その言い分に於いて自らを正しい(義)として語り続け、神よりも自らを正しいかのように主張し、神に罪を犯すのです。
【ヨブ33:9-11】
33:9 あなたは言う、『わたしはいさぎよく、とがはない。わたしは清く、不義はない。
33:10 見よ、彼はわたしを攻める口実を見つけ、わたしを自分の敵とみなし、
33:11 わたしの足をかせにはめ、わたしのすべての行いに目をとめられる』と。
しかし、彼の全ての行いも、全ての信仰を守ることができる生活を与えられていたのも、その生きる全てのことが、その毎日一刻一秒が神により与えられたもので生きていたことを、むしろ神に与えられないで生きれるものなど何もなかったことを、神ご自身がヨブの前に現れ、そのことを現されるのです(ヨブ38-41章)。
そうです。私が何を自ら誇って生きていたのかを知る。
神ご自身が私達に臨まれ、私の全てが神の前に光の内に全てさらされたなら、私達はひとかけらも自らの何ものかによって生きてきたなどと言うことはできないほど、全ての全てが神によって与えられていたことを知るでしょう。
神はどれほど私達を愛してやまないのでしょうか。
さらに神の前に自らが義人として生きてきたことが、神の義によるものであったことを知るでしょう。
つまり、神よりも正しいと自らを主張するほどに罪深い(神よりも自らを誇り、神に敵対するサタンの性質に満ちた)私達を、その罪をも、神は主イエスの贖いによって赦され、永遠に滅ぶべき私達の命を救われた。
その十字架の代価がなければ、私達は、その罪のゆえに、永遠に滅びなければならない存在でしかなかったことを知るでしょう(ヨブ33:19-30)。
だから、その信仰でさえ神から与えられたものであることを知る。
私の中に生きるキリストが持つ信仰が、内から働く聖霊により働くからこそ、日々信仰が保たれているということを知るでしょう。
【1ペテロ1:3】
1:3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。
だから、全てが主から与えられていなければ私達には何もないのです。
この方がいなければ、私達は一秒たりとも生きることができないのです。
私達はそのことを忘れているから、みずからを、誇ることができるという、どこまでも愚かな罪深い生き物なのです。
それを知るためには、私達は主の前に砕かれなければならないかも知れません。
積み重ねた罪が高く、自らを高く誇らせるなら、私達は主の前に砕かれなければならないでしょう。
でなければ、私達はどこまでも自らを高くして神に対立するサタンと同じ運命をたどり、永遠に滅びる存在となるしかない。
けれども、打ち砕かれ、自分自身が本来の塵に過ぎない存在であることを、心砕かれ知った者に主は近づくことができる(罪は神を遠ざけるため)のです。
だから、たましいが悔いくずおれて初めて、主は私達を救うことができるのです。
それでも、主に自らを主張する自分がどこかにいるでしょうか。
主のあわれみにすがりましょう。
主が私を造り変えてくださるように

主が居られる

2016年10月19日
【創世記】
28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
私達はともすると、主がこの場所に、自分のすぐそばに居られるのに、気づかないときがあります。
私達自身の現状や問題、目に見える現実が厳しければ、なおさらそうでしょう。
心は不安で覆われ、自分の考え得る方法で、いかに現状から脱出するか、最善の問題打開策は何かと考えあぐねる。
そのとき、不安に心と共に、信仰も覆われ、信仰を働かすことができなくなる。だから、愛する主でさえ見えなくなってしまうときがあるのでしょう。
【マルコ6:48-51】
6:48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
6:49 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。
6:51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。
自分の力ではどうにもできない現実を前に、心静めて、もう一度、頼るべき方は誰なのかを思い出してください。
そこにこそ主が居られる。
私達が寄る辺ないときこそ、主がそばに居られ、
私達の力が尽きるときこそ、主の御業が現れるときなのです。
そこに十字架にかかられた主イエスが、天から地にかけられた梯子となられ、居られるのがわかるでしょう。
それは天が開かれ、天と地がつながり、私の地上のすべての悩みを超えて、私が主の御側に引き上げられ、天の御座のすぐ近く、主と直接天の御国にある交わりに入れられる、天の祝福が地上に溢れる瞬間。
【創世記28:12】
28:12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
【ヨハネ1:51】
1:51 「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
そして、私の死につける全てのものが、主の十字架にあって、よみがえりに、勝利に飲み込まれる瞬間。
【1コリント15:55】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
そうです。そこに、よみがえりの主が溢れる愛をもって両手を広げ、あなたのすぐそばで、あなたを恵もうと、待ちかまえて居られるのを、あなたは知るでしょう。
だから、現実に目を閉じ、いや主への信仰によって目を開き、霊の目をさましてください。
ここからが主の働かれるとき、主との至高の交わりを知るときです。

【マタイ12:1-8】
12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
12:2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
12:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
12:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
12:6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主である」。
「安息日の主」はイエスキリストです。
ですから礼拝の中心、礼拝の主はイエスキリストです。同様に教会の主はイエスキリストです。
全ての信仰の中心も、そして私達の全ての全てに於いて、私達の主はイエスキリストです。
それは当たり前のことのようですが、この主イエスキリストは今生きておられる主なのであり、この方は私達の作り上げた信仰の形式や、蓄積した知識や経験、つまりは宗教としてのキリスト教の中に、生きている方ではありません。
私達の狭い知識や経験、その中で狭められた人の心の中に、命を失い、閉じこめられる方ではありません。
今まさに全世界の主権者として、主として生きておられる方です。
そして、この方への愛と、この方から向けられている多くの隣人への愛。律法の中心はここに集約されています。
【マタイ22:37-40】
22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
このように今生きておられる主との「愛によって働く信仰(ガラテヤ5:6)」によって、私達の毎日は生きたものとなるのです。これが、御霊に導かれ(ガラテヤ5:16-18)、キリストの律法(1コリント9:21)を生きる私達の歩みです。
そこには主との愛による命の交わりが存在しています。
これが人間の作り上げた命の失われた信仰と、主との愛によって生きて働く信仰の違いです。
この違いを主は 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない(マタイ12:7)』と語っています。
いけにえをささげることは当時の礼拝においても中心的内容であり、それが信仰の中心であったということができます。
しかしそれはここではただ形式だけのものとなっていることがわかります。
なぜなら、主のあわれみ、主の愛が今どこに注がれているのかという、主との愛に基づく交わり、「愛によって働く信仰」が消え失せていたからです。
このパリサイ人は主の愛を知らず、形式だけの命のない(実のない)、神の心から離れた信仰により、律法の解釈とそれを厳守することだけに心奪われていました。
だから、罪のない者(空腹で困っていた弟子達)への主のあわれみを理解できず、彼らを罪にとがめたのです。
【マタイ15:7-9】
15:7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
15:8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。
そしてそのことは安息日の主であるイエスキリストが目の前にいたのに、つまりは「人の子」として来る預言され待ち望んできた救い主(ダニエル7:13)が目の前に生きて立たれ、自分と語っているのに、気づかないという致命的なミスを犯してしまうのです。
このことは今の私達にも言えることです。
私達は今生きておられる主に本当に気づいているでしょうか?
この方との愛の交わりの中に本当に生きているでしょうか?
本当に今生きておられるイエスキリストをあなたの人生の全てにおける主として、受け入れているでしょうか?
誰かの信仰、誰かの知恵、教会の信仰、信仰者の常識と言われているもの、それらに心奪われて、今生きておられる主との信仰によって生きることを退けてはいないでしょうか?
今神は何をあわれみ、何に愛を注ごうとされているのか、もう一度、生きておられる主との関係の中で、知る必要があるのではないでしょうか?
主よ。あなたは何を思い、何を望んでおられますか?
私がどのように生きることをあなたは喜ばれますか?
愛する主よ。あなたの心と私の心を一つとしてください。あなたの願いこそが私の生きるべき道なのですから。
【歴代志16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご 自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです

進むべき時

2016年10月17日
【申命記1:6-8】
「われわれの神、主はホレブにおいて、われわれに言われた、『あなたがたはすでに久しく、この山にとどまっていたが、
身をめぐらして道に進み、アモリびとの山地に行き、その近隣のすべての所、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海べ、カナンびとの地、またレバノンに行き、大川ユフラテにまで行きなさい。
見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である』。
主は私達のとりなしを、流した汗を、涙を、決して見過ごしにされる方ではありません。
誰かが罪のために滅びるのを、私達は黙しておられましょうか。
主が悲しんでおられるのに、それを無視して自らを喜ばすことなどできましょうか。
そのような思いで涙を持って主に、とりなし祈るならば、主はその滅びから人々を救うために、どれほどの代価を払っても、御業を現されることでしょう。
神の御子を贖いの供え物としてささげられた程に、その愛は深く、それは天地を動かしてでも成し遂げられる。
主の切なる願いが、主の熱情がそこにあるのです。
ですから、主の心と、思いを一つに重ねとりなす祈りを、今まで主はどれほど待ち望んで来られ、またその祈りが私達の唇から語り出されることをどれほど喜ばれることでしょう。
ダニエルが、罪を犯し続けたイスラエルのために、切なる思いでささげたとりなしの祈りに(ダニエル9:1-19)主は答えられ(ダニエル9:22,23)、その後の主の大いなる計画を、つまりは秘めたる主の胸の内を親しく語られ示されたしたように。
またネヘミヤの涙の祈り(ネヘミヤ1章)に、主が答えられ、火に焼かれたまま荒廃し荒れ地となった、エルサレムの再建を、ネヘミヤに託されたように。
主は必ず私達のとりなしの祈りに、答えられるのです。
いやですから今日、神が御言葉をもって、私達にこのように語ってくださっていることはとても大きなことです。
主はその御言葉の通り、私達の目の前に広がる地、この国を、この地を、私達に与えてくださると語られているのです。
もちろん、この国を、この地を、私達に与えてくださるとは、この旧約聖書の時代のように、物理的な、目に見えるような形での意味で語られているわけではありません。
【使徒26:17,18】
わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、
それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。
それは霊的な意味で語られているものであり、悪魔の支配から神の支配へ、やみから光へ、永遠の死と滅びから命へと、多くの人々が救われることを意味しており、その救いへと導く大きな役割を私達に担わせてくださるということを意味しているのです。
そして、私達一人一人が、この国を、この地を、霊的な意味において、主の統治の内に治めるための一翼を担うということを言われているのです。
つまり、この国のリバイバル、本当にこの国が神に立ち返り、死とのろいから解放され、命に溢れる国となる、その一端を私達は担わせていただく、そのような恐れ多い特権に預からせていただけるということを、今主は語られているのです。
そして、さらに今主は、もう同じ所にとどまる時ではないと、進むべき時が来たと語られています。
確かにこの国の宣教はこれまで遅々として進まず、長い年月膠着状態のまま、久しく同じ所にとどまり、いやすでにこの国がリバイバルし神に立ち返ることなど、夢のように思えているかも知れません。
むしろ、このままで平穏な教会生活を細々とでも送ることに、安住さえ感じていたかも知れません。
だからこそ、この国が今大きく変わろうとし、その選択が日々刻一刻と滅びに向かっているこの時に、目を覚ますよう私達は警告され、そのために悔い改め、とりなしを祈ったのです。
そして、その祈りを主は聞かれたのです。
もう時は動いています。
立ち上がって、主と共に進んでいきましょう。
【ヨハネ4:35-38】
あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。
刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。
そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。
わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」

聖書箇所: 列王記上18:17-46

主は今この国の現状をご覧になりながら、この国を霊的な意味のおいて治めるべきクリスチャンのこれまでの歩みについてを問われています。
それは永遠の神の宮として、主の祭壇たる教会であるのか。
それとも自分達の思いで建て上げた人の造った祭壇たる教会であるのか。
人の思いを反映し、自分のために、自分の栄光を求め、自分の力で建て上げた祭壇を、主はどのような思いで見つめておられるのか。
「貪欲は偶像礼拝にほかならない。【コロサイ3:5】」と語られる主は、これを他の神々を祭る祭壇と何ら変わりのないものとしてご覧になっていることを聖書は厳しくも語っています。
この二つの祭壇が同居するこの国を、どうにか滅びから救い出したい。
まさに神から離れ祝福を退け続けた民に、神の祝福の雨が止められているかのようなこの国の現状は見れば、この国が滅びに向かっていることは一目瞭然でしょう。
この現状に気づかず、自らにのみ目が向けられて続けている姿に、教会の持つその祭壇の性質が現されていると言うことができるでしょう。
主は偶像の祭壇と化した祭壇を打ち壊し、主の祭壇を立て直さなければ、この国に祝福の雨が回復しないことをご存じです。つまりはこの国が滅びるしかなくなってしまうことを。
列王記上18:17-46にはエリヤの時代に行われた、霊的聖別と回復から国の回復に導かれるプロセス、つまりはリバイバルのプロセスがわかりやすく語られています。
そこにはまず主の祭壇を、救われた者達としての原点に立ち返って立て直し、完全なる聖別のためのきよめの水が祭壇に注がれ、そこに主の名が呼ばれるとき、主の火が降るという、教会(達)の信仰の原点からの建て直しが語られています。
すべてをきよめ焼き尽くす火は、聖霊の降る様と重なり、まさに初代教会の誕生の日と同様に、原点に返り、全き献身を現す全焼のいけにえの上に降るのです。
この霊が激しく降るとき、人々はどちらが真の神の祭壇か、真の神の現れをはっきりと確認し、自らの元にある偶像礼拝を自らの手で打ち壊し、神の元に立ち返るのです。
この備えができたとき、主は霊の内に大雨の音を聞かせます。
主は私達に何も語られずご自身の計画を進められることはありません。
そしてその音を聞いたなら、その雨が降らす雲を見るまで、祈り続けなければなりません。
決して止むことなく、主の熱心を帯びて、主がこの地を回復してくださることを願い、リバイバルの雨がこの地に降ることを祈り続けるのです。
この国が救われ日を見るまで。
主の思いをもって立て直された、主の真の祭壇であればこそ、主のこの国を救いたいと願う切望を汲み取り、破れ口に立って祈り続けることができるのです。
主は私達にこの国のリバイバルを託してくださっています。
主のリバイバルが来る日には、すでに私達の有り様が主に問われているのです。
この重要なテーマについて、今回は共に主の厳粛な語りかけに、真剣に耳を傾けていこうではありませんか。

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【1ペテロ1:23-25】
1:23 あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
1:24 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。
私達が「朽ちる種からではなく、朽ちない種(1ペテロ1:23)」である神の「生ける御言(1ペテロ1:23)」によって新たに生まれたのは、朽ちることのない神の御国、神の「天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ(1ペテロ1:4)」ためです。
【1ペテロ1:3-5】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
朽ちるもの、やがてはかなく消え去るものによっては、朽ちないものを受け継ぐことはできません。永遠に変わることのない、朽ちないものによらなければ、朽ちないものを受け継ぐことはできないのです。
朽ちることのない永遠の命、受け継ぐべき神の国、そして父の相続と言われる天の資産。
私達が新たに生まれたのは、この朽ちない絶大なる価値を持つ宝を受け取るためなのです。
そして、そのことが完成するのは「終りの時に啓示さるべき救にあずかる」時、私達の「からだのあがなわれ(ローマ8:23)」る時に、成就するのです。それは私達がよみがえりの栄光のからだを受ける時です。
【1コリント15:50-55】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
多くの人達がこの朽ちないもののために生きるのではなく、朽ちるもののために生きています。
【ヨハネ6:27】
6:27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。
この地上で生きるために、朽ちる食べ物を得ようとして生きる。しかしこのことは決して朽ちないものを受け継ぐための生き方ではありません。むしろ、朽ちるものに目を奪われ、朽ちないものを見失い、受け継ぐべき大いなるものを失うための歩みであるということができます。
なぜなら、その心はすでに終わりの日の希望から離れ、神の完全なる救いによって、朽ちないものを受け取るという、大いなる喜びから、興味を失ってしまっているからです。
また、神の驚くべき計画に無感動となり、「自分の欲情のままに生活し、(2ペテロ3:3)」神の計画を「あざける者(2ペテロ3:3)」となり、また人々にその誤った常識を吹聴する者とさえなるからです。
【2ペテロ3:3,4】
3:3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
3:4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
しかし私達を新しく生まれさせた「朽ちることのない」神の御言は、朽ちるもの全てが火に焼き尽くされる裁きの日を明確に語り、いやむしろ「今の天と地とは、同じ御言によって保存され(2ペテロ3:7)」、裁きの日が神のあわれみにより待たれているのです。
【1ペテロ3:5-7】
3:5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
3:6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
3:7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
だからこの神のあわれみの時を、朽ちるものに心奪われ無駄にすることがあってはなりません。私達の歩みは刻一刻この終わりの時に向かっており、クリスチャンの見るべき視点も、生きる目的もこのためにあるのです。
【1ペテロ3:8-13】
3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
3:10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
3:11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、
3:12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
3:13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
多くの教会が、そして兄弟姉妹が朽ちるものを中心に、その視点から全てを見つめ、信仰生活を歩むことを、常識としているように思われます。
しかし、これらは私達が与えられているもののごく一部分であり、添えて与えられているもので、私達の受け取るべき絶大なる資産そのものではありません。
【マタイ6:31-33】
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
クリスチャンの本当の目的に目を覚ましましょう。
神が私達に何を与え、どのように歩むことを望んでおられるのか。
神は溢れるほど私達を愛すればこそ、
その計画は滅びではなく、言葉に言い尽くせない大いなる喜びと、輝く栄光の歩みなのです。
ですから、あなたに伺います。
あなたは、まだ朽ちるものを見続けて歩みますか?
それとも、朽ちないものを見続けて歩みますか?

主の救いを見よ

2016年10月14日
【出エジプト14:13,14】
モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。
主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。
主が私達のために用意している計画は、私達の思考では到底及ばないような驚くべきものばかりです。
それは私達のために主が用意された圧倒的な愛に基づく計画であり、同時に主の圧倒的な栄光が現されるためのものです。
言い換えれば、主がご自身の愛する者のためにどれほど驚くべき御業をなされるのか、その絶大な栄光を全地に、そして「天上にあるもろもろの支配や権威(エペソ3:10)」(サタン)に、また「この世ばかりでなく来るべき世々(エペソ1:21,2:7)」に至るまで、見せつけるために用意された計画なのです。
そのような壮大な計画の前に、その計画がどこから来てどこへ行くのか、つまりはその計画が用意された理由や、その計画がどのような結果になるのか、あまりに主の思いが高すぎて私達には到底理解することができません。
ですから、主の大いなる御業が現されるときその直前には、私達はその目の前に迫る状況に死を予感するほど、私達の力ではどうにもできない現実が迫って来ることがあります。
それはこれから現される主の御業が圧倒的だからこそ、あまりに非力で何もできない私達には、迫る現実がいかに私達に何もできないかしか理解できないのです。
ここでイスラエルが主に叫んだように主への不信に、心を奪われてはなりません。
そこで出て来る言葉は主をのろう言葉でしかなく、その言葉には何一つ希望が存在しないからです。
【出エジプト14:10-12】
パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、
かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。
わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。
そのときこそ、心静め主の御声に耳を傾けましょう。現実を見る目を閉じ、信仰の目を開いて、神に用意された真の状況を見る必要があります。
主は何をご用意され、私達がどのようにあることを、何をすることを望んでおられるのか。
これまで私達にあらゆる良きことをしてくださった主に、この時こそ深い信頼を寄せ、心静め主に祈り尋ねるのです。
そう、そのとき今日の御言葉のように、主は語られるでしょう。
「かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。(出エジプト14:13)」
あなたはそこに、主の救いを見るのです。それは永久に、二度とそこに死を見ることがないために、主ご自身が戦われるのを見るでしょう。
主は永遠にあなたの勝利者です。
あなたが無力なときこそ、あなたの全てを主にゆだねましょう。
主がその全てに勝利を現してくださいますから。

【2サムエル24:18】
その日ガデはダビデのところにきて彼に言った、「上って行ってエブスびとアラウナの打ち場で主に祭壇を建てなさい」。
人はいつまで経っても自分の力に頼り、誇ります。
特に、自分に経験が豊かになり、自信がつき、自分の力でいろいろなことができるようになると、そのような人間の本質が見え隠れします。
しかし、これは神の前に何の意味もないことです。
全能なる方、絶大な力を持つ神の前にそれは塵のようなものに過ぎず、私達の力は自分の「髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない」微弱な存在です。
だからこそ、私達が神により頼まずに生きることのできる日など、ただの一日、いや一刻一秒もないでしょう。
しかし、そうであるにも関わらず、その事実を自己過信のうちに忘れ、自らの力を頼り、誇る者は、神により頼む存在どころか、知らずにいても、神を必要とせず、自力で生き、やがて神を退け、神に対抗する存在となるのです。
これは潜在的でありながら、全ての人が持っている罪の根幹に関わる、人間の本質と言うことができます。
「 神のように(創世記3:5)」なる。神無しで「わたしは有る」という存在に、人はなりたいのです。そしてそれが人の最初の罪です。
今日の箇所ではそれに続く聖書の遡る箇所に
【2サムエル24:1】
主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。
とあります。そこから推察されることは、イスラエルの民も同様に自らの力を誇った。そして、また同様にダビデも自らを誇り、その結果として自らの力を誇るため民の人数を数えようとしたのでしょう。
このダビデの強制的な人口調査はその罪のゆえに神を怒らせました。
ダビデは自ら気づき神の前に罪を悔いますが、裁きはイスラエルの民に及びます。ことは「七万人(歴代志24:15)」の人々が死ぬほどの大惨事に至りました。
この時、ダビデが主の前に悔いても、この人の(本質的)罪に対する贖いの命の代価が、まだ支払われていなかったのです。
そこで、今日の箇所にあるように、主は罪の贖いについて語られたのです。
真の悔い改めは十字架の贖いなしに存在することはありません。
自らに高ぶる私達は、肝心なものが何一つ見えず、しかしその目には自らの栄光(神から奪った栄光)しか目に入らず、とてつもないかけ違いをしでかします。
それは信仰経験が長く、豊かになればなるほど、その危険があるのです。
私達はしっかり自分で何でもできる、『できる信仰者』ではなく、神がいなければ『何もできない信仰者』であるべきなのです。
これほど高ぶった私達に、だから自らを最も卑しめられ、侮られ、痛めつけられ、神にも見捨てられ、永遠に裁かれた、最も低き者となり十字架にかけられた、主イエスの命の代価が必要なのです。
私達はこの十字架の前に、心砕かれ、低められ、悔い崩おれて、悔い改めなければ、サタンへと自らを変え、滅びへと自らを進めていく道から逃れることはできないのです。
しかし、この十字架に自らを低める神への謙遜の道が開かれる時、そこにこそ自らが果たすべき自らの使命、神に与えられた召し、自らの生きる道が見えて来るのです。
【1歴代志21:27,28-22:1,2】
21:27 また主がみ使に命じられたので、彼はつるぎをさやにおさめた。
21:28 その時ダビデは主がエブスびとオルナンの打ち場で自分に答えられたのを見たので、その所で犠牲をささげた。
 [中略]
22:1 それでダビデは言った、「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである」と。
22:2 ダビデは命じてイスラエルの地にいる他国人を集めさせ、また神の家を建てるのに用いる石を切るために石工を定めた。・・・
ダビデは神の家を建てる悲願を抱えていましたが、それはその子ソロモンに於いて成就することとして、神から約束を与えられていました。
けれども、ダビデの心はこの主の家のために何が自分自身にできるのか。何を主にこの地上でささげることができるのかということでいっぱいだったのでしょう(1歴代志28,29章より)。
だからこそ、この贖いの代価をささげるアラウナ(オルナン)の祭壇を建てたとき、この場所が「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである(22:1)」と、神殿を建てるのに最もふさしい場所であることがわかったのです。
驚くべきことに、父なる神が私達に御子をさえ惜しまずに与え贖いの供え物とされる十字架の型となる出来事、アブラハムがイサクを主にささげようとしたモリヤの山はこの場所であったのです。
【2歴代志3:1】
ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。そこは父ダビデに主が現れられた所、すなわちエブスびとオルナンの打ち場にダビデが備えた所である。
ここに真の贖いの恵みをダビデは受け取ったことがわかると思います。
私達の歩みは十字架の御足の跡をたどることであり、しかしそれは決して自らを誇り自らを喜ばせる道ではありません。しかし、そこに溢れる十字架の愛と恵みを受け取り、主と共にこの地では低められるけれど、天に於いては高きにまで引き上げられる、栄光の道を歩むことなのです。
【ピリピ2:6-11】
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
2:10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
2:11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
今はごくわずか見えても、主は全てをご存じです。自らの高慢を省み、主の十字架の前に、この恐ろしき罪を悔い改め、溢るる神の恵みを今受け取りましょう。

命の川の音

2016年10月12日
【エゼキエル47:8-10】
47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。
神の命が川となって、流れ溢れる出る時が来ました。
かつて、サマリアの女に主イエスは言われました。
【ヨハネ4:10】
イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。
また、仮庵の祭の終わりの大事な日に主イエスは叫ばれました。
【ヨハネ7:37-39】
7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
この2つのことは同じことを指し、今の恵みの時代に注がれた私達の内の聖霊について語られています。そして驚くべきことにこの奇跡は、今あなたの中に成就しているのです。
このことをあなたは信じ実感しておられるでしょうか?
この「生ける水」は私達の命の渇きを永遠に潤し、そればかりか私達の腹から川々(文語訳)となって溢れ出るものです。
そして「この川は、神と小羊との御座から出て、(黙示録22:1,2)」、私達の内側から溢れ出るものであり、それは私達クリスチャンの一人一人が個々の中で完結するものではなく、一度私達の中から勢いを持って溢れ出た川は、合わさってさらに一つの川となり勢いを増して行くのです(エゼキエル47:1-6)。
「死ぬべきからだをも、生か(ローマ8:11)」す絶大な力をもって、溢れる「この川の流れる所では、すべてのものが生き(エゼキエル47:9)」るのです。
教会から溢れ出る、よみがえりの命の絶大なる力をもって流れる、一つの川の流れは、やがて全地に満ちるでしょう。
「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望(2ペテロ3:9)」む主の御心がそれを成し遂げる。
今滅びに向かってひた走るこの国を生かすために、主はこのことをご自身の熱心をもって成し遂げるでしょう。
これは夢幻の話でも、偽りでもありません。現実に起こることです。
なぜなら、この国の中に有り余る問題は私達の危機を感じる感覚を麻痺させる程に多く、すでに未来を支える若者達の唇から将来について語ることができないほどの無力感や絶望感を与えています。
「しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。(ローマ5:20)」とあるように、この滅びが見えるほどに現実化したこの国だからこそ、主の恵みは溢れ、その熱心がこの国を生かすのです。
主はこの国を神の元に立ち返らせようと、主ご自身の命の川で溢れさせ、滅ぶべき者を「この川の流れる所では、すべてのものが生き」るようにされるでしょう。
この川の溢れる音が(信仰によってのみ聞こえる霊的な耳をもって、)あなたに聞こえるでしょうか?
あなたの内から溢れようとするこの川の流れを、あなたはとどめていないでしょうか?
【ルカ18:8】
しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。
不信仰を語り合い、現実に振り回されことはもう終わりにしましょう。
主の御座を見上げる時、そこから命の川はあなたに溢れ始めます。
主の恵みがまずあなたから、豊かに溢れますように。

【2列王記25:27-30】
25:27 ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十七日、すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出して
25:28 ねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。
25:29 こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した。
25:30 彼は一生の間、たえず日々の分を王から賜わって、その食物とした。
私達が救われクリスチャンになったということは本当はすごいことです。
しかし、時々私達はそのことを忘れさせられいつの間にか意気消沈させられ、希望もなく、未来も見えず、あるいは今日と変わらない明日を求めるだけで、やっとのような信仰生活を歩む日もあるでしょう。
でも、騙されてはいけません。それはあなたが主から与えられた救いの絶大な意味を見えないようにされ、その喜びを奪おうとされているだけです。
だから、もう一度そこに立ち返って、主の驚くべき御業がいかに恵みに富んだものなのかを見つめ返したいと思うのです。
もしも、救いにより私達が与えられた立場が本当にわかったら、あなたはその中に主にある永遠の深い安らぎ、平安を得ることでしょう。
今日のこの箇所には救われたということがどのようなことを意味するのか、その型となることが語られています。
【ルカ4:17-21】
すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
主イエスご自身がイザヤの預言からこのように語られたように、これが人々に与えられている良い知らせ、福音の本質であり、主が来られた時からあなたの中に成就するもの、主を受け入れ救われた時からあなたはその恵みの中に入れたのです。
「囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、(18節)」とあるように私達はそれまで罪捕らえられ、永遠の滅びと受けるべき、死刑囚でした。
その罪の暗闇に神を見ることもゆるされず光はなく、罪の奴隷として売り渡されたもの、この罪の前に成す術のない自由のないものでした。
それは、エホヤキンに現された姿も同様です。
しかし、主はそこから私達を解放しました。ご自身の命を十字架に差し出し、この死刑囚という立場から私達を贖い出して、その「獄屋から出して(27節)」くださったのです。
そして罪に打ちひしがれ傷ついた私達を、主ご自身がいやし、慰め(28節)てくださいました。
私達は「獄屋(囚人)の服を脱ぎ(29節)」、キリストを着て(ガラテヤ3:27)、さらに驚くべきことに、この地上のどの王よりも高い神の王国の王族としての地位を与えられたのです(28節)。
私達は、一生の間、常に王なるキリストの前で、やがて朽ちるような食物でなく永遠のいのちを与える「神の口から出る一つ一つの言で生きるもの(マタイ4:4)」として食事し(29節)、主との深い交わりを与えられています。
もう私達は何を食べようか何を着ようかと思い悩む必要はありません(マタイ6:31,32)。主ご自身がその全ての必要をご存じで、たまにではなく、また一時的、あるいは気まぐれでもなく、「一生の間、たえず日々の分を王(なるキリスト)から賜わって、(30節)」生きる者とされたのです。
私達に与えられていないものは何一つありません。
エデンの園で神との間に与えられていたもの、その全てが神との和解により主との愛と永遠におけるいのちの交わりのうちに、回復した。
それが救われた私達の本来の姿です。これが私達の希望です。
そしてこの恵みは主との間に永遠に与えられているものなのです。もうここから私達を引き離すものなど存在していないのです(ローマ8:35-39)。
さあ、元気を出してください。
いつまでも偽りに捕らわれずに、本来のあなたの姿を見つめてください。
そしてあなたの主に与えられている今日を喜び、主をほめたたえつつ、一日を過ごしてまいりましょう。
今日もあなたの上に、主の恵みと愛と交わりがとこしえにとどまりますように。

主を喜ばせる行い

2016年10月10日
【2サムエル2:4-7】
時にユダの人々がきて、その所でダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。人々がダビデに告げて、「サウルを葬ったのはヤベシ・ギレアデの人々である」と言ったので、
ダビデは使者をヤベシ・ギレアデの人々につかわして彼らに言った、「あなたがたは、主君サウルにこの忠誠をあらわして彼を葬った。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。
どうぞ主がいまあなたがたに、いつくしみと真実を示されるように。あなたがたが、この事をしたので、わたしもまたあなたがたに好意を示すであろう。
今あなたがたは手を強くし、雄々しくあれ。あなたがたの主君サウルは死に、ユダの家がわたしに油を注いで、彼らの王としたからである」。
人に対する態度は、自分の神に対する態度に通じるところがあります。
神を愛し、神に仕え、神のために生きると口で言うことはとても簡単です。
しかし日々の生活の中で、そのことを思い、いついかなるときも全ての行動の基盤をそこに置いているのであれば、それは自然に日々の行動に現れます。
【エペソ6:6-8】
人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、
人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。
あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。
そして、全ての行動の根底に何があるのか、人にはわからなくても、神はその心の奥底をご存じです。
やがて主イエスが再びこの地に来られ、このダビデ(王である主イエスキリストの型としてここでも見ることができます)のように、全地の王としてこの地を治める時には、主はこれまでの私達の心からの行いをもって、私達に報いてくださるでしょう。
【2コリント5:9,10】
そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
なぜなら、主ご自身のために私達がしてきたことを、主が喜ばないはずがないからです。
そして、その喜びは今私達がどのように行動すべきかを決め、行う段階から私達は味わうことができるのです。
なぜなら、主を愛し、主を思い、主のために主の御心を行なおうと行動を選択する段階から、私達は聖霊を通じて、私達の心の中に主の喜びが満ち溢れ始め、いかなることにも心揺れることのない平安で心が満たされるからです。
逆に言うならば、この平安と喜びによって、私達は今何をすべきか、何が神を喜ばせることなのかをはかり知ることができるのです。
今日あなたの一日はどのような一日でしょうか。
主に喜ばれる日々が重ねられますよう心からお祈り申し上げます。

聖書箇所: マタイ24章

主はまさに今が私達にとって終わりの時であると語られます。
そして、その時にこそ、主の聖霊は私達の上に豊かに注がれる。それは主の福音が全地に語り出されるために。主の福音は終わりの時にこそ全世界に宣べ伝えられるのです。
主はだからこそ、目を覚まし、主がこの地に来られるのを迎えるため、備えているようにと言われます。
主の御言葉に従い、主の約束を得る者は幸いです。
しかし、この主の御言葉を退け、主を退けて、自らの今この地で生きることの満足のためにのみ生きる者には、主が来られることを迎えることはできず、主からの永遠の報いを得ることはできません。
では私達はどのようにして、主をこの地にお迎えすべきでしょうか。
それは人知れず、主のみに心を向けて、主の御心を行うこと。
私達の元に来られる主には永遠の打ち傷がその身に残り、釘の跡がはっきりと残っているのです。
これこそ、私達を贖われた永遠の代価、私達の永遠の裁きをその身に受けた傷跡。
主に贖われた者は、その打ち傷が自分のために傷つけられたものであることを、その十字架の上に永遠に見ることができるのです。主の永遠の愛と共に。
そしてこの打ち傷こそ、私達が敵たる者から打たれてもなお主の愛をもって愛し、主の愛をもって救いに飲み込むための、最大の勝利の力であるのです。
神の十字架の愛は私達を通して全地に溢れ、救いはこの神の愛をもって全地を覆い、神はこのような方法を通して全地を勝ち取られるのです。
主が愛されたように、私達が互いに愛すること。これこそが、永遠不滅であり、この世に完全に勝利した、主の教会なのです。
主はこの永遠の希望たる福音と圧倒的な愛とを、私達の力で注ぐようにとは言われていません。
あなたがたを捨てて孤児とはしないと語られる主は、今私達の内に生き、溢れる霊として、満ちみち溢れてくださるのです。
これこそが私達をこの地で主の証人とする力。
主は今、この愛に、この命に、この霊に、満ち続けよ。私があなたがたを遣わすと語られます。
私達がこの聖霊に満ち、福音のラッパを鳴らす時、主にある同士達はこの聖なる戦いのために集められるでしょう。
自らの生活のために、主に背を向けて来た兄弟姉妹達も、終わりの日の苦しみの中、神の元に悔い改めて立ち返るでしょう。
こうして、主のリバイバルが来るのです。
主は死したる者(ラザロ)をもよみがえらせることのできる、よみがえりの主。
死の捕らわれからも、よみがえりをもって人々を勝ち取られる主なのです。
この滅ぶべき地をも、主は救いをもってよみがえらせてくださるのです。
「信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか【ヨハネ11:40】」と今主は語られます。
だから主を信じて、私達も全地に遣わされようではありませんか。主の魂の勝ち取りのために。

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御言葉に親しむ

2016年10月08日
【詩篇119:14-16】
わたしは、もろもろのたからを喜ぶように、あなたのあかしの道を喜びます。
わたしは、あなたのさとしを思い、あなたの道に目をとめます。
わたしはあなたの定めを喜び、あなたのみ言葉を忘れません。
主の御言葉に親しむこと、これは命の言葉であるイエスキリストご自身を知り、交わることです。
多くの兄弟姉妹が御言葉を理解しようと学び、あるいは調べ、研究します。
そのことを否定はしません。
しかし、御言葉を知るには大原則があります。
聖書こそ神の御言葉であり、生ける御言葉(ロゴス)であられるキリストが文字として現されたものです。だからこの御言葉は私達の内に生きる聖霊によらなければ、何一つわからないということです。
つまりただ読解するように聖書を読んだとしても、そこでわかるのはただの律法としての規律であったり、道徳的な規範であったり、あるいは歴史書籍であったり、礼典のための参考書であったりするでしょう。
つまりは教会運営や信仰生活の手引書となることはあっても、それ以上のものにはなりません。
しかし、この御言葉は主イエスキリストであり、生きているのです。
【ヨハネ1:1-4,14】
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
 [中略]
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
主イエスはこの地で涙を流され、憤り、また真理を語り、多くの人々と食事をし、交わり、父なる神に祈り、父に仕え、従い、十字架の道へと進まれました。
そこには知性も感情も意志もある。まさに人(「人の子」)であり、神(「神の御子」)でした。
つまり、主イエスはちゃんと、生きてパーソナリティー(「位格」)があり、私達はだからこそ、人と人が交わるように、主イエスと交わることができるのです。
この方は今も生きて私達の内に聖霊として住まわれ、また聖書を通して私達に語りかけられます。まさに今私達は生きておられる主と交わることがゆるされているのです。
これは驚くべきことです。
そこには愛が溢れ、命に満ち、生きて触れ交わるように主を知り、主ご自身の御心の奥深くを教えてくださる。そして主に愛をもって従うように、御言葉を喜び、御言葉を忘れず、御言葉に従い生きていく。主と私だけの、他の人では代わりになることのできない、深い交わりがそこに存在するのです。
もしそのように、つまりは主と愛にある深い交わりを持つように、御言葉を読み触れるのであれば、聖書は今までとは全く異なった命の光を放つでしょう。
今日も主イエスを愛し、御言葉と共に歩んでまいりましょう。

【1ペテロ5:8-11】
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。
あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。
どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。
クリスチャンとなった者、主に救われた者は決して苦しみに会わないのではありません。むしろ、世から移されて神の者とされ、暗闇とサタンの支配からイエスキリストの支配の中に入れられたからこそ、世は私達を憎みます。私達は世のものではないからです。
この世の支配者であるサタンは主から格別の恵みに預かる、祝福された主に選ばれた民、クリスチャンを、大きな妬みをもって戦いに巻き込んできます。
つまり、私達が救われ新しく生まれたその日から、信仰の戦いは始まるのです。
しかし、主はこの戦いはすでに結果が出ているものであり、主を信じたその時から、私達は永遠の十字架の勝利にあって主に勝ち取られたものであり、常に、いついかなる時も、私達は全てのものに勝利している者であると語っているのです。
この最初から、何ものにも揺るがされることのない勝利の中にいるからこそ、むしろ神はこの地を勝ち取る者として、私達をこの地上に遣わされました。
それが私達の本来の姿です。
【1ヨハネ5:4,5】
なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
このことを私達クリスチャンはもっと知る必要があります。
この世の何ものにも揺るがされることのない、不動のものとされるために、私達はこの事実を知るために、戦い、苦しみに会うときもあるかも知れません。
しかし、そこにいつも十字架にあって、主は私達をいやし、絶大なるそのよみがえりの力により強められ、力づけられ、永遠に変わることのない完成した十字架の御業を、我が内に不動のものとして知るのです。
まさしく私達が勝利者として、十字架に一つのものとされ、不動のものとなる。私達自身が揺るがされることのなく、むしろ世を揺るがす者となるのです。
パウロを「この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、(使徒24:5)」と言わしめた主の絶大なる神の力はあなたにも働いて、世から多くの命を神の国へと、そして永遠の命へと勝ち取る者となり、あなたも世を揺るがす者となることでしょう。
神はあなたを永遠に勝利者として、勝利の道を歩むように招き、また導きます。
神の全能の力に全てをゆだねて。主の圧倒的な勝利が、あなたの人生を覆い尽くしていることを、あなたが知るに至り、その勝利を目の当たりにする全ての人々によって、神の御名が高らかにほめたたえられますように

【マタイ4:18-20】
さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
人生を変える出会いがあります。それは主イエスとの出会いです。
人生を変えるべき一言があります。それは主イエスから召されたときです。
主に出会った者は人生が変わります。
新しい命を与えられ、新しい人生を歩むからであり、それは私達が本来どのような目的で主により造られたのか、その本来の目的に沿った人生を歩むからです。
そこには、こんなはずではなかったと言う、人生を掛け違えるようなことはなく、主に従って行くならば、後悔の必要は決してありません。
そして、主の召しに躊躇する必要もありません。
主は私達の人生の全てを見ておられ、私達のこれまでの歩みを何一つ無駄にすることなく、最善の道のりを備えてくださるからです。
確かに主と共に歩むためには、これまでから全く新しい歩みであるため、すべてを捨てて従って行かなければならないでしょう。
しかし、その歩みは全てに勝る価値のある歩みとなります。
【マタイ19:27-29】
そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。
イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。
おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。
主に従って行くかどうかを決めることは一瞬かも知れません。しかし、そのことはあなた自身の永遠の歩みの価値を大きく決定することになるでしょう。
それはこの地上において、たとえイエスと同じ道を歩むことになったとしても、命よりもはるかに価値のある、神の喜びを一身に受ける恵まれた人生を歩むこととなります。
なぜなら、主に従い歩む道はいずれにしても、主の御足の跡をたどるという、唯一父なる神を満足させる道のりを、主と共に歩むからです。
そして主からの召しを大切に担って歩む歩みは、やがて主の秘めたる胸のうちをうかがい、その御思いを共有しながら歩むという、主と最も親しい交わりを持つ歩みとなるでしょう。
やがて天において主と顔と顔とを合わせてお会いするとき、その主との親しい交わりは何も変わることなく、いや驚くほどの親しさをもって、この地上での主との共なる歩みを、主と語り合えることでしょう。
それはどれほどの喜びであり、どれほど価値のあることでしょうか。
そうです。私達の人生は主にどれほど満足していただけるかであり、その喜びを主と共にどれほど共有できるかであり、そのことにより、主の栄光が私の人生にどれほどに輝きあらわれいでるかであるのです。私達の人生そのものは主への最上のささげものであり、主を喜ばせる最上の麗しい香りを放つものとなることができるのです。
主に従い歩む道のりは、どこまでも深く、底知れない価値を見いだせる道のりなのです。
それは主と出会った瞬間から始まる、主に従い行くかどうかという選択。あなたが主に向かい、まず一歩を踏み出すかどうかから始まるのです。
さあ、恐れずに、共に主に従ってまいりましょう。

主の訪れに気づく

2016年10月04日
【ルカ4:16-21】
4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
4:19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
4:20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
4:21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
主イエスが語られたこの御言葉は【イザヤ61:1,2】の預言です。
それはイエスがこの地上に誕生されるはるか昔に預言者イザヤによって語られた預言。
そして、その預言が「この日に成就した(21節)」と、大いなる希望をもって主が自らの唇で語られています。
はるか未来の預言と思われていたもの、それがこの日成就したと語られたのです。
今、この言葉は同様に私達にとってははるか昔に語られた言葉に思われるかも知れませんが、今の私達に語られています。
主が今生きておられる。私達のうちに。
この事実はこの御言葉が、今のあなた自身に、そして今向き合っているあなたの現状に、明らかに光を差し入れる希望の言葉であり、これはただの慰め、ただの気休めの言葉ではないのです。
この時代、主イエスに出会った多くの人達がいました。しかし、この時まで多くの預言者を通して語られた、救い主に関する預言(メシア預言)の言葉の一つ一つが、自分に何ら関係のない、ただの気休めの言葉として、あるいは自分から遠い場所で起こるおとぎ話のように捉えていたのであれば、どれほど近くでイエスに出会えたとしても、この方が自分の救い主であることに気づくことはありませんでした。
そのように多くのイスラエルの民はイエスにつまづきました。目の前に居る救い主に気づかず、やがてはその救い主自身を自分たちの手で十字架につけてしまったのです。
そのことは今の私達にも同じことが言えます。
今あなたに語られているこの御言葉があなた自身にあまり関係のないことのように、日常の生活に追われるままに日々を過ごしているのであれば、あなたのうちに居られる方がどれほど絶大な方で、あなたの人生を全く変えるほどの神の大いなる御手があなたに伸べられていたとしても、あなたはそれらには全く関係なく、つまり救い主はあなたの人生に直接的には何も関わることなく、あなたは人生の大切な時間の大半を過ごしてしまうでしょう。
でも、この方は今生きてあなたを救う救い主なのです。
あなたを罪に捕らえられた生活から解放し、だからこそあなたを囚人のように捕らえる全てのものから解放すると、今主は言われます。
そして、問題だらけ、悩みだらけ、苦しみだらけ、悲しみだらけ、死とのろいの満ちる地上で、希望の光を、いずこともなく盲人のように探し求める、あなたの目に光を与え、その目を開かせて真の希望が如何に絶大なものなのかを知る者としてくださると主は今語られているのです。
そして現実に打ちひしがれているあなたに主イエスにある真の自由を得させ、救い主のめぐみの年が今来ていることあなたに告げ知らせていると言っているのです。
なぜ、なおあなたは、何も与えられていない者のように、他の何かに希望を求めたり、自らの小さな小さな手でわずかな希望を握りしめるように、小さく背を丸めて、目の前にあるものだけを見ながら、ため息とあきらめだらけの人生を歩む必要があるでしょうか。
あなたの信仰の目を開くなら、そこにあなたの救い主は生きて居られるのです。
どうか、今生きてあなたに働く主の大いなる愛に、あなたが気づきますように。主の知恵と啓示の霊をもって、あなたの目が今開かれますように

【詩篇103:13-19】
父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。
主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。
人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。
風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。
しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、
その契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。
主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはすべての物を統べ治める。
心弱まるとき、自らには何もなく、力も、良い知恵も、頼れる人も、頼れる物も一切なく。ただ心許なく、神様すら遠くに思え、どうしたらよいのか途方に暮れるとき。
まさしく、聖書にある通り、私は何者でもなく、塵(ちり)に過ぎない者。それ以上でもそれ以下でもない。
そう感じるときが誰にでもあるでしょう。
しかしここで、主は私達が塵に過ぎないことを知っていると言われています。
主を我が主とし、神を我が神とし、王なる方を王とする者、主を恐れる者に、主は「わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(黙示録21:7)」と語られます。
それが神に造られた者、そして主イエスの贖いにより神との和解を受け、神との本来の関係に戻された者のあるべき姿です。私達はここに平安を得ます。
この王なる神がご自身の玉座に着かれるなら、神が全てを統べ治め、とこしえに変わらない主の公義といつくしみが溢れ、万物は主の御言葉に従って行くのです。
現実が如何なる状況に見えたとしても、この現実が御言葉に従っていくのです。
【ヘブル11:3】
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
この御言葉こそ、神の子とされた者には愛そのもの。そして命そのもの。主イエスそのもの。
神の子はこの御言葉の中に留まり生きるのです。
そうです。神はあなたの父のように、あなたを愛し、あなたに何もないことを十分に知っていると語りかけられ、だから主により頼み、主に従い、主を愛し、主を恐れ生きる者のために、主は万物を動かしてあわれむと言われるのです。
このとき、私達に何もないということは何の意味もなくなります。なぜなら、天地万物全てを統べ治める方が、あなたの全てとなるというのです。あなたには全てのものが主にあって与えられているというのです。
これがどれほど凄いことかわかるでしょうか。
あなたには何もなくとも、全てが満ち溢れ、問題は何一つ問題ではなくなり、全てが主の栄光となっているのです。
鍵はあなたが神を恐れ、あなたの王として玉座に迎え、主の御言葉のうちに留まることです。全てはあなたの何ものにもよらないのです。
全ての恐れを捨て、ただ主のみを恐れましょう。

永遠の安息を得る

2016年10月02日
聖書箇所: ヘブル11:5-11

クリスチャンには決して苦しみがないわけではありません。
むしろクリスチャンであるからこそ苦しむこともあるのです。
そんな時、ときとして人は苦しみの中、神の沈黙を感じることがあります。
なぜこの苦しみの中に自分は居るのか。神はなぜ沈黙されているのか。
しかしそのような時だからこそ、信仰者として知ることがある。得るべきことがあるのです。
人は生まれながらには神を恐れることを知りません。また、心から神を渇き求めるということを知りません。
でも実はそんな時こそ、神はあなたの近くにいるのです。
そう、この苦しみこそ神への近道とも言える。
日が昇るその直前こそ、一日で最も暗い時間であるように、しかしそこには明けの明星であり、義の太陽として昇られる主が間近に居られるのです。
人はこの苦しみの訓練の中で、朽ちることのない信仰を精錬されます。
人の力が尽きる時こそ、神の力が、栄光が現れる時。そして、その栄光を見る時私達は、私達の何ものにもよらず、ただ主の一方的な愛と恵みによって生かされているという大いなる事実を知り、この方にのみ心から信頼して寄り頼むという信仰を得るのです。
キリストの計り知ることのできないほどの壮大で絶大な愛を、私達が本当に知り受け取る時、私達は本当に神を知り、神との永遠の交わりを知るのです。
主は私達を神の中にあるこの永遠の交わりの中に入らせるために訓練をされていたのです。
そしてこれこそが天国にある永遠の平安、神のみが与えることのできる安息なのです。
主はこの交わりの中に留まり続けるのであれば、いかなる時も神の国はそこにあり、だからこそそこに現れた神の国が、あらゆる困難を、問題を、この地を、この世を飲み込み、神はこのような方法でこの地を勝ち取られるのです。
今回は神が与える訓練の意味として、神の真の願いである、神との永遠の交わりの中に私達を入らしめようという、永遠の安息を得るための神の訓練ということに関して、今悩みの中にある兄弟姉妹への真の慰めとして語られる神の言葉に、感謝して耳を傾けていきたいと思います。

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砕かれた岩

2016年10月01日
【出エジプト17:1-7】
17:1 イスラエルの人々の全会衆は、主の命に従って、シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。
17:2 それで、民はモーセと争って言った、「わたしたちに飲む水をください」。モーセは彼らに言った、「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。
17:3 民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」。
17:4 このときモーセは主に叫んで言った、「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。
17:5 主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。
17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。
17:7 そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。
ここに目の前にある岩に三つの意味を見いだします。
一つは私達の歩みに、問題として立ちはだかる大きな岩です。
ここは水がない沙漠の地であり、周りにあるのは岩。水が全く期待できるような場所ではありません。人がその現実を目にし、自らの考えにおいてどうにもならない状況であることを判断した時、「主はわたしたちのうちにおられるかどうか(7節)」と、神への小さな疑いが神への不信という罪へと人を導き、神を試みます。
つまりここにもう一つの岩が登場する。それは私達の心の、神に対する頑なさです。
心が岩のように硬化してしまうなら、もう人は信仰を働かせることはできません。
「なぜこわがるのか、信仰の薄い(信仰を働かせられない)者たちよ(マタイ8:26)」
問題は死の恐怖と共にさらに大きく見えてくる。この大岩を前にもう人はどうにもできません。惨めに勝手に絶望の内に神をさえのろう。その姿がこのイスラエルの人々に現されている私達の姿です。
「あなたは岩を打ちなさい。(6節)」
神はここに全く別の一つの岩を提示します。それは私達の救い主の姿です。
【1コリント10:1-4】
10:1 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、
10:2 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。
10:3 また、みな同じ霊の食物を食べ、
10:4 みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。
私達の主イエスキリストこそ、私達のために十字架にかかられ、砕かれた岩である方です。この方の死により私達はあらゆる状況の中によみがえりを見出すことができるのです。
【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
いつでも、私達のために十字架の上に砕かれたイエスの姿を見るならば、私達はいかなる問題の前においても、永遠に尽きることのない命の水にあずかることができるのです。
そして、同時に私達の神への頑なな罪という岩は、この贖いの御業により砕かれます。
主イエスの十字架にすがる。
鍵になるのは「初めの愛(黙示録2:4)」です。
信仰年数が長くなり、信仰経験が多くなるほど、この「初めの愛」から遠ざかる傾向があります。成長したクリスチャンはスタートから遠ざかったところにいるのではありません。
あなたは今、目の前の問題に心奪われ、神が見えなくなり、十字架の愛を忘れていないでしょうか。
私達はこの初めの愛から離れたら何もできません。私達の神への頑なさ。何度も神を試みる神への不信。十字架の他に神に帰る道はありません。
もう一度十字架に立ち返りましょう。悔い改めは恵みです。神の愛です。
この十字架の元から死はよみがえりに変えられるのです。
すべての鍵は最初から十字架の元に与えられているのです。