聖書箇所: 申命記9:25

主は私達をご自身の宮とされました。それは天から地上に遣わされた私達を主が足場として、私達を通して、天がこの地に顕現し、神の天からの統治がこの地に及び、主が私達を通してこの地を勝ち取られるためです。
そして、私達はこの明確な目的のため、天からの霊によって新しく生まれた者であり、である以上私達は主がこの御業を私達を通して成し遂げられるため、一切の主の妨げとなるものを退け、主をお入れする空の器となり、真の主の宮として生きる、そのことが私達クリスチャンの本来の生きる道であると言えるのです。
ですから、主はこの空の器を通して、主の名により願い求めるのであれば、主がこの地でなされた御業よりも大きな業を行うであろうと語られ、それは主が栄光を受けられるためであると語られているのです。
主は私達の個人的な問題や悩みを願い求める祈りでさえも、その必死の祈りの内に私達を聖霊に於いて導き、主の御心にかなう祈りへと祈りを変えてくださる主であり、またその祈りを神の大いなるご計画、大いなる御旨へと導いてくださいます。
そして全てをこの祈りを起点として、歴史さえも動かされます。
さらにこの祈りは、互いをとりなし合う祈りとして、祈りに交わりと、そこから豊かに広がる溢れる主への感謝と賛美を私達に与えてくださいます。実にそのような祈りを主は喜んで聞かれ、まさに教会とはそのような場所であるのです。
そうして、これほど豊かな祈りによる恵みを、この特権を主が私達にくださるのは、まさにその祈りの本質に主のためにとりなす、民のためにとりなすという、救いの完成の時への神の計画のために祈るということがあるからなのです。
まさにモーセがあれほど力強く祈り、また多くの大いなる御業を主に現していただけたのは、その動機にイスラエルの民への不断のとりなしがあったからと言えるでしょう。
この祈りこそ、やがて天地が震われ、壊れゆく被造物が全て失われていく時、しかし震われない神の国を受けているという真の希望を持っている私達が、まさにその滅びに向かう地の中で、とりなす祈りと同意味のものであるということができるでしょう。
私達こそは、主が満ち溢れることを望む永遠の都、そして主の宮です。
そして主は私達の内に満ち溢れたいと切望し、まだ完成しない宮が一日も早くつなぎ合わされ建て上げられることを願って居られるのです。
多くの人々がこの主の奥義をその溢れる恵みと希望を、知りません。あるいは知ろうともしない。それはクリスチャンであってもそのような状況にあるというのが現状です。
ましてや、救われていない人々はどのようにこれからの時代を生きていけばよいのでしょうか。
主はこのために誰がとりなして祈るかを、誰が主の御心を受け止めとりなすかを、心から渇き願い、待っておられるのです。
今回はこの主の御心を受け、とりなしの祈りについて共に分かち合いたいと思います。

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聖書箇所: ヨシュア3:7-17

神はご自身の御業を、ご自身の選ばれた民を通して現すことを望まれました。
それはご自身の選ばれた民と共にこの地を治めるという、助け手として、キリストの花嫁として造られた者への愛の故に。
そして、私達を神ご自身をお入れする器とされた。永遠の主の宮となるために造られた者、またこの地に生み出された者、それが私達です。
しかし私達、人は罪を犯し、神との関係を破壊し、生まれながらには自らのことに生きるしか、目的や満足、喜びを持たない者となりました。
だから、私達は主をお入れする器であることを忘れ、自らの満足、欲望、自らの生活のみを満たそうと、主からすら全てを奪い、手に入れようとする者となりました。
まさに、主がこの地に、ご自身の民の元に来られたにも関わらず、人々は主を受け入れないばかりか、この方を十字架にかけて殺してしまいました。
しかし、この十字架こそ、私達の罪を贖われた姿。同時に私達自身を十字架に、共にかけて死につけてくださったことにより、この自分自身から私達を解放し、よみがえりの命によって、主ご自身の命によって生きるものとしてくださったのです。
イスラエルが海(紅海)を割り、川(ヨルダン川)を割って渡って来た事実は、この贖いと、自己からの解放という2つの側面を、キリストの十字架の死とよみがえりによって与えられたことを私達に表しています。
つまり紅海を渡ったことは救いの経験を、ヨルダン川を渡ったことは聖霊の満たしの経験を表していることを知るのです。
主は私達を空にしないではご自身によって満たすことができないことをご存知です。
そして主で満ちることなしに、主はご自身の御業をこの地に現すことはできない、ご自身の統治を、私達を通して顕すことができないことを、ご存知です。
ですから、主は主に近づき、主を愛し、主のものとして主に仕えようとする者達に、一度空にする経験の中を通します。
これは主イエスご自身が公生涯の始めに経験されたことであり、多くの主に仕えた義人達が通った道であり、主の弟子達も全てを捨てて主に従った者達であることからもわかる通り、信仰者のごく当たり前の道であるのです。
しかし多くのクリスチャンはこの道を通ることを、本当の神の愛を信頼できないばかりに嫌い、避けて通ろうとしますが、主は私達を愛するが故にご自身に近づけてくださり、ご自身で満たしてくださろうと、この経験を備えるのです。
自分が空にされ、裸にされる経験は、不安で、惨めで、当面は喜ばしいととても思えないものでしょうが、主は死にたる(空になった)私達を、死ぬべき体をも生かすよみがえりの命(聖霊)によって生かし、その命が溢れ出て、とどまることなく地を潤し、全地に主の命と愛と栄光と主の統治を現す主の御業を、私達を通して現されるのです。
このようにして全地は、私達を通して主に勝ち取られて行くのです。
今、何も善きことのなくなり滅びようとするこの地に、主はリバイバルの御業を、ご自身を愛する民を通して成そうとされています。
主の尊き器となって、主の御業を現す者は誰でしょうか。
主の十字架の愛に安心して、自らを主に明け渡し空の器となるのは誰でしょうか。
今回は主の器として空とされる者にこそ溢れる主の御業を、聖霊の満たしということとの関連を通して、共に分かち合って行きたいと思います。

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聖霊に満たされよ

2016年05月15日
聖書箇所: 使徒行伝1:8

今主が私達にとても真剣に強く語られていることは、神への真実な信仰です。
それは人の目に見て良く、自分の思いに良いと思われることを念頭においた信仰ではありません。
主の御思いをそのままに受け取る、決して愛の冷めていない信仰。
神の御心(御言葉)を(エジプトのパロに対したモーセのように)一つも妥協することなく、あらゆる困難をも、立場状況をも、恐れることなく貫き通す信仰。
まさにイスラエルが主の霊の導き(雲の柱、火の柱、雲)に全てをゆだねて全く主の導かれるままに歩んだ(民数記9:33-36)ように、
私達も主の御言葉に歩むため、内なる御霊に導かれて歩む(ローマ8:12,13)ものであるべきなのです。
真の信仰者としての歩みとはそのような生きた神と生きた御言葉と共に歩みを進めるものです。
そしてその霊(雲)に導かれる歩みが幕屋に霊(栄光の雲)が満ちるところから始まったように、私達も聖霊に満ちるところからその真の歩みが始まります。
それは決して人としての勇者、強者である者にしかできない歩みではありません。
主イエスと共に居た弟子達も、主の十字架の死後、恐怖に震えて寄り集まっているところから全てが始まったのです。
そこによみがえられた主イエスは現れ、聖霊に満たされる約束を、それは世界を揺るがすほどの爆発的な力を与える「上よりの力」であることを語られました。
だからこそ、何の力も、地位も、知恵も、生きる場所も手段でさえもなかった弟子達は、その約束を心から渇き求めたのです。聖霊の満たしを。
今の時代(黙示録3:14-22のラオデキヤの教会時代)の私達は、主を頼りとせずとも多くのものに富んでおり、豊かで、何の不自由もない時代です。
だから最も必要なことを、生きた信仰を、生きた主との関係を、聖霊の満たしを、心から渇き求めることのない時代です。
しかし、この聖霊の満たしこそ、喩え話や絵空事でもなく、私達が神の子として神の絶大な相続を受け継ぐ相続人であることを、再臨とそこに連なる新天新地の望みと、天の礼拝とその中心に居られる栄光の御神を、主の愛と主の圧倒的勝利を確信する力を、今ある現実のこととして、感じさせ、信じ、私達をそこに生きる者へと導くのです。
今回は最初の教会に与えられた神の恵み、信仰の原点を聖霊の満たしと言うところから、共に振り返り分かち合いたいと思います。

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聖書箇所: レビ25章

聖書において再臨の日を待ち望むことに視点を置いて信仰生活を送るということは、新約聖書にのみ見ることのできる視点ではありません。
すでにモーセが預かったイスラエルへの律法の中に、本質的再臨信仰を見出すことができます。
ヨベルの年というイスラエルの民への完全な解放の年という概念は、この再臨に際して、私達が完全なる解放を得ることを啓示しているものです。
そこには
?ラッパの音と共に自由がふれ示され完全なる解放が与えられること
?私達の本来の嗣業の地である天国に戻ること
?ヨベルの年(再臨の日)から逆算して生活が営まれていること
?罪と死の奴隷となっていた私達が完全に解放される(からだが贖われ救いが完成する)
ことが語られています。
イスラエルの生活の中に刻まれた風習であり概念であるものは、まさに私達が天から来て天に帰る者が、再臨の時至るまで地上に遣わされ、救いが我が身にそして全地に完成するのを待ち望むことを中心に生きるべきことを表しています。
私達はこの永遠の重い栄光を望み見ながら、やがて万物が主に統べ治められ足もとに従わせられる日を、主と共に万物を治めるキリストの御体とされた者として、待ちに望むものであるのです。
そしてそのように造られたキリストの御体として、キリストご自身がそのうちに満ちみちているのが、本来私達教会であるのです。
主の霊に満たされることなしにこのことを本質的に知り得ることはできないでしょう。
つまり主をお入れする宮として、この地で主ご自身が満ちることなしに、主の宮としての備えをすることはできないでしょう。
天の家の備え(天の主の宮)と地の家の備え(教会)は連動されているのです。
だからこそ、私達はこの地に於いてするべきことはたくさんあるように思えても、本質的にはこの地上の体、命が一つしかないのですから、ただ一つのことしかできないということを思いみるべきです。
「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。【詩篇27:4】」
私達がこのように生きることは聖霊の満たしにつながり、また御国がこの地に顕現するリバイバルに直結していることです。
同時にそのように生きる時、私達は主を満足させる最上のささげ物を、自らの人生全てを通してささげるために生きる生き方をするでしょう。
今回はペンテコステの日を控え、聖霊の満たしと再臨信仰について、私達クリスチャンの本質的信仰生活という側面を重視しながら、共に考え分かち合って行きたいと思います。

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聖書箇所: 1コリント3:17,18

主の御心の奥義は主が私達の内にとこしえに住まわれるということです。
まさに主のご計画が完成し、天の御国が新しい天と新しい地となり完成する時、永遠の都であり、主の宮である私達の内に主はとこしえの住まいを設けられます。
しかし、主はそのご計画を完成する前に、今すでに私達の内に新しい命、キリストの御霊、聖霊として先行して住まわれました。
そのためにご自身を十字架にかけ、私達を共に死につけて、また共によみがえらせ、私達と一つとなられのです。
主が私達の内にそれほどまでに住まいたいと願われる強い思いは、まさに十字架の上で私達にご自身の全てを与え、ご自身の全てで私達を満たしたいという深い愛なのです。
私達はこの主の深い思いを、主の霊によってのみ知ることができるのです。
それは人間の知恵によっては計り知ることはできません。そして、この主の深い思いを知り、人の思いの理解を超えた、真の信仰を私達が持つことを主はいつも願われています。
それはやがて主の宮として主をお入れするにふさわしい者となるために。
もしも私達が心から主を愛し、主を求め、主と共に永遠に住まうことを望んで、生きて行くならば、私達はその主の宮を建て上げる備えを、この地でするでしょう。
私達の内にすでに住まわれる聖霊は、私達をそのために、主の住まわれるにふさわしい者とするため、私達を「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変え【2コリント3:18】」ていくでしょう。
私達は主をお入れする器です。これは大いなる奥義です。
でもその器はどのように生きるかで尊いものにも、卑しいものにもなるのです。
どのようなものとして私達が生きるか、今日ここで主の前に深く自らの歩みを見つめ返して参りましょう。

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