世界を変える一人

2017年10月29日
聖書箇所: 黙示録3:1-6

主がこの地をご自身の元に取り戻されるのに、多くの者の手を使う必要はありません。
主に全てをささげる、主の御心に心から従うただ一人が居れば、主はその御業を成します。
人は主の御心を退け、自らの手で神を造り、自らの手で祭壇を造り、祭りさえ自ら造り出して、主を怒らせ続けてきました。
それは主の民であったとしても、いや主の民だからこそ、主をどれほどに悲しませ続けてきたことでしょう。
私達の理解の中に、常識の中に、知識の中に、ちっぽけな人間の範囲の中に主を閉じこめ、自らの思いを叶えるための都合の良い神を造り、都合の良い礼拝をささげる姿を見て、私達は歴史の誤りを、そして自らの信仰姿勢を見つめ直す必要があるでしょう。
同時にその中に現された神の御心と御業を、思いみるべきです。
かつて一人の小さな人を通して、宗教改革という、神の御業が成されました。
それは神の真理が真の自由を得させ、偽りの中に閉じこめられた人々を解放した瞬間でした。
世界中を敵にしても神の真理に立ち、神にあって霊の戦いに勝利を得た、歴史的事実に目を向けながら、今回は真のクリスチャンとしての生き方について、主の御言葉に耳を傾け、共に考えていきたいと思います。


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聖書箇所: 1コリント12:5-15

今主はご自身の特別な啓示によって、小さく弱い、取るに足りない私達のような存在の中に、ご自身を表そうとされています。
まさに神を顕す者として、この地に置かれた存在、それが主の教会なのです。
主はその行き着く先、主のご計画の完成の時に、ご自身を表現する唯一の存在として私達を、主を永遠に内に頂く、神の国の永遠の都として定められました。
まさに、永遠に神を表す者としての教会の、この地に於ける顕現こそ、私達の存在意義です。
主イエスが生涯を御父のため、御父を表すために全てをささげられたように、全て主に命をささげ従った者を通して、主はご自身を表し、顕現されます。
そして、今主はこれほどの恐れ多きことを小さき私達を通して成そうとしておられます。
人の理解を超えた神の御心の啓示、私達の心を主にささげ、主の御心を真剣に伺いと思います。

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聖書箇所: エステル3:17,18

私達は主により救われ新しい者となったと言われますが、どのようなものとされたのかを私達は本当に知っているでしょうか。本当に理解しているでしょうか。
神は私達を麗しい花嫁として、ご自身の全てで私達を満たし、飾り、栄光に与らせ、主に特別に愛された存在として、全世界にそれを見せつけようとするばかりに、私達を愛されます。
それは花婿なる主ご自身の素晴らしさ、愛の深さ、豊かさ、そしてご自身の栄光を、その全てを注がれた私達自身という存在が現すものであるということです。
しかし、その驚くべき事実と裏腹に多くの兄弟姉妹が閉塞感と絶望の中に閉じ込められています。
そして、その特権を受けるべく主に近づくことの麗しい関係ですら、恐れの中に失いつつあります。
何とサタンに植え付けれた偽りの深いことでしょうか。
しかし、主は今ご自身の深い愛の中、その麗しい栄光の光の中に私達を目覚めさせ、私達の本当の姿を教えてくださろうとしています。
真理によって、この長く深い偽りから、自由にしてくださろうとしています。
それは愛する主の花嫁達をご自身の元に迎え入れる備えのため。
永遠に主に愛され永遠に共に住まう、主にふさわしい花嫁として、私達を今目覚めさせようとしておられるのです。
真理によって、私達を解放せんとする主の熱い思いを受け、私達も今この御言葉に真剣に耳を傾けていきたいと思います。


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聖書箇所: ルカ20:14-18

私達は神から離れては何もすることはできません。
なぜなら、私達の内に神ご自身が満ち溢れること、それを除いて私達が完全に満たされることはないからです。
多くの人は(それがクリスチャンであっても)、それを自ら(の力)に依らなければ満たされることはないと考えています。
そこに神に背を向け生きる私達の罪の根源が見えます。
そして、悲しいことに神の私達に注ぐ愛の多くをそのことによって退けているということに気づくことすらありません。
しかし、もしも私達が本来のキリストにあるぶどう園のぶどうの枝のように、私達の生きる必要な全てのことを(全ての全てを)主からその命と共に受ける生き方をするならば、私達は主が私達にご自身の命と共に注がれた無尽蔵の富をもって、まさに天の御国に備えられた富をもって、全てが満たされ、その天の前味わいをこの地上で受けるという、想像を超えた恵みに満たされることとなるのです。
実は誰にでも与えられているけれど、多くの人が見過ごしている、主にある生き方について。
今回は私達が神から受ける取るべき本来の愛と恵みについて、共に分かち合いたいと思います。


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聖書箇所: 列王記上1:15-31

主がこの地を治める王となれるために立ち上がられる時、主の約束にあって、命をかけて共に立ち上がる者は誰でしょうか。
主が来られこの地を治めることは、この世の君にとって、そしてその支配下にあるこの世に生きる者(私達の仲間である兄弟姉妹ですら)にとっては極めて不都合であり、主がこの地に来られる時(リバイバルの時)は命の危機にすら及ぶ戦いがこの地に展開されることでしょう。
それでも偽りの言葉に騙されることなくサタンに支配を譲らず、心明け渡さず、神の約束の言葉にのみ立ち続ける者は幸いです。
その者はこの永遠に変わらぬ神の御言葉によって、主イエスのように、全世界と戦ったとしすても、完全な勝利を得るからです。
この主の御業のために、命をささげ立ち上がる者は誰でしょうか。
主と共に十字架の死を担う者は、そのよみがえりの内にキリストご自身と共に、キリストの無尽蔵の富を受けます。この朽ちるべき土の器の中に、生きる神の永遠の宝が現れるのです。
主はこの中にご自身の御業を成し、私達を通して神の栄光を現されます。
だから、主は全てを捨てて自らに従って来た弟子達を通して、ご自身の御心(ご計画)を、その御業をなされるのです。
このことによって、主はこの地に来られます。
こうして私達のただ中にある王座に主が着座され、私達を通して主は全地を治められるのです。
いや、私達はそのために主を内に頂き、新しく生まれたのです。
今は真の平和が求められる時ですが、世はその真の平和の作り出し方を知りません。
もし、私達が心から悔い改めてこの主を私達の内に王として迎えるなら、私達を取り巻く、緊迫する滅びへと向かわせる状況は一変するでしょう。王なる神が全地を治める真の平和が訪れる。
真の平和は神の民の心からの悔い改め、私達のリバイバルから始まります。
主の十字架(聖別)は今も昔も変わることなく、この奇跡(リバイバル・神の永遠の統治)の中心にあります。
あなたもこの方の初めの愛の内に留まり、この方だけのもの(聖別)として、真のクリスチャン(キリストの僕)として、全地の主を私達の内の王座に頂く者として、歩んでいきませんか?


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