【詩篇103:13-14】
父がその子供をあわれむように、 主はおのれを恐れる者をあわれまれる。
主はわれらの造られたさまを知り、 われらのちりであることを 覚えていられるからである。

神が私達をどのように思われているのか、これほどにわかりやすく語り掛けてくださっていることに感謝します。
父という思いに、すべての語り尽くせない神の思いが込められていると言えるでしょう。
我が子を思う深い思い。
その生まれる前から私の全てを知り、その全てを見守り愛し尽くされている愛。

【詩篇139:13-17】
あなたはわが内臓をつくり、 わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
わたしはあなたをほめたたえます。 あなたは恐るべく、くすしき方だからです。 あなたのみわざはくすしく、 あなたは最もよくわたしを知っておられます。
わたしが隠れた所で造られ、 地の深い所でつづり合されたとき、 わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
あなたの目は、 まだできあがらないわたしのからだを見られた。 わたしのためにつくられたわがよわいの日の まだ一日もなかったとき、 その日はことごとくあなたの書にしるされた。
神よ、あなたのもろもろのみ思いは、 なんとわたしに尊いことでしょう。 その全体はなんと広大なことでしょう。

親として子を生み出し、慈しみ育む者の思いがそこに表れています。
主の目は私達から片時も離れることなく、私達を見つめ愛されている(あわれまれている)のです。
我が子が生まれた時のことを忘れる親が居るでしょうか。
その喜びを、我が子の幸いを願う思いを、その愛を忘れる親があるでしょうか。
それが、神が私達に常に向けておられる思いです。
あなたにとって神はどのような存在でしょうか?
遠く離れて高いところから眺めているだけの存在でしょうか?
ただただ厳しい存在、あなたの罪を見張り裁こうとして見ているような存在でしょうか?
どこかあやふやで、昔話の中に登場するような、架空の存在に近い、でも存在だけは信じている、そんな存在でしょうか?
いずれにしても、神の存在を誤解することなく知ることが、私達の神との関係を健やかにする、また私達自身の存在を回復する道のりです。
でも、この父との関係を多くのクリスチャンが誤解しています。神の私達への思いを偽られているということが、信仰の歩みを困難なものにしていることがよくあるのです。
もちろん、親との関係また親の子への思いのうちに、父なる神の愛は表れますが、実際の親との関係が(人の罪故に)健全ではないことも今の複雑な世の中に於いてはありますから、そこに於いて神との関係を誤解してしまうこともあるでしょう。
どうにも父なる神の思いを理解できないこともあるかも知れません。
しかし聖書を通して、神はこれほどにあなたへの愛を温かく、やさしく、語り掛けておられるのです。
人の親は完全ではないかも知れない、しかし父なる神は完全な父。完全なる愛、永遠に変わることのない溢れる愛をもって、あなたを愛し続けている。だとすれば、人との愛で傷ついていたとしても、この愛が私達を覆い、私達を救うことができるのです。
全てを包み込む最も安心(平安)な愛。あなたもその愛の中に身をゆだねて、神への信仰(信頼)の歩みを、今日も進めていこうではありませんか。


【1コリント1:2】
コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。

パウロの手紙の冒頭に書き出された挨拶には、この手紙を受け取った者への、「あなたは主にあってこのような者なのですよ」という呼びかけか含まれています。
なぜなら、多くの人達が自分が神にあってどのような者とされたのかということを忘れてしまう、あるいは自覚しないままで歩んでしまうからです。
彼が語り掛けるこの言葉はまさに今の私達に、「あなたはこのような者なのですよ。目を覚ましてしっかりしなさい。」と語り掛けている言葉でもあるのです。
「御名を至る所で呼び求めているすべての人々」とは、「すべて主の名を呼ぶ者は救われる。【ヨエル2:32】」と語られているように、主の名を呼び求め救われた者を表す言葉でもあり、また「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。【ヨハネ16:24】」と主から約束され、今主の名によって祈ることをゆるされ、今も祈り続けている者達を指す言葉でもあります。

【ヨハネ17:11】
わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。

つまりは、そのように神の深い愛によって主の名を主ご自身から与えられたクリスチャンを意味する言葉です。
また、「キリスト・イエスにあってきよめられ」とは、

【エペソ5:25-27】
夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。

とあるように、主は永遠の愛によって私達をご自身と永遠に一つとされるために、私達をきよめたのだということを意味し、

【ヘブル9:14-15】
永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。
それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。

とあるように私達はキリストにあって、その十字架の血によってきよめられ、神の国を受け継ぐ神の民「聖徒として召された」のです。

【ダニエル7:13-14, 18】わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、 見よ、人の子のような者が、 天の雲に乗ってきて、 日の老いたる者のもとに来ると、 その前に導かれた。
彼に主権と光栄と国とを賜い、 諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。 その主権は永遠の主権であって、 なくなることがなく、 その国は滅びることがない。
[中略]
しかしついには、いと高き者の聖徒が国を受け、永遠にその国を保って、世々かぎりなく続く』。

そして、私達は主の永遠の聖徒とされ、主は天地万物全てのものの主権者であり、この方と「わたしたちの主」という個人的に特別な関係の中に私達はあるのです。
同時に「わたしたちの主」とは私達の、主への特別な愛の呼びかけを含む言葉でもあるでしょう。

どうでしょうか。
いかにあなたが主との特別な愛の関係の中にあり、その神の愛によって特権とも言うべきものを与えられた、いかに特別な者とされているのかということがわかったでしょうか。
これがあなた、クリスチャンです。
まずクリスチャンとしてのアイデンティティを神にあって、聖書に語られる神の言葉にあって持つこと。あなたがどのような者であるのかということをあなた自身がしっかり認識すること。そこから始めることが偽りの中に閉じ込めようとする悪の支配する世の中で、信仰者として生きていくためには重要なことなのではないでしょうか。
この国で信仰を保つことは大変なことだと言われます。
ですが、「しかし、わたしたちの国籍は天にある。【ピリピ3:20】」とあるように、もしもあなた自身が何があっても決して揺るがぬ、神の国に国籍を持つ(神の国を継ぐ)者であることを知識の上だけでなく本当に知ることができるならば、あなた自身が揺るがされることはなくなるでしょう。
神の目に映る本当のアイデンティティにあなた自身が立てますように。

【ヨブ記 19:25】
わたしは知る、 わたしをあがなう者は生きておられる、 後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

人は苦しみの中で、自らの命を贖う価を自らの中にすら見出せないこと知り、救い主の存在が必要なことに行き当たります。

【詩篇49:7-8】
まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。 そのいのちの価を神に払うことはできない。
とこしえに生きながらえて、墓を見ないために そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、 それを満足に払うことができないからである。

いや、それを知ることができる人はむしろ幸いな人と言えるでしょう。
なぜなら、多くの人がそのような苦しみに遭っても自らの命は自らの力で何とかできると、彼を救わんとする神の御手すら退け、たとえ相手が神であろうとも自らの命を強奪するかのように戦い取ろうとし、神に逆らい生きる人の方がむしろこの世には多いからです。

【ヨハネの黙示録9:20-21】 これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。

という意味で言うならば、ヨブは確かに神が誇るほどの義人(正しい人)であったということができるでしょう。

【ヨブ記 1:1, 8】
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

しかし、主はそのような義人でさえ、人の力(自らの力)をもってしても、自らを正しいものとすることはできないことを、最初からご存知でした。だからこそヨブはその部分をこの苦しみの中で、自らに於いては罪人でしかない姿として現したのです。
主が全ての根源です。この義も神の中から得なければ、そこに義は存在しないのです。
神こそが義(正しい)であり、義の根源であるからです。この義により、全てのものは保たれ、全てのものは存在できるのです。そして私自身にはこの義は存在しないのです。
全てを主から得て生かされなければ存在できない。それは全て主に造られた被造物の定めなのです。それは主に命があるからです。

【ヨハネによる福音書1:1-4】
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。

多くのクリスチャンは正しく生きたいと願うようになります。そして、自分の力で正しく生きようと苦しみます。
しかし、自らの中にその正しさ(義)が存在しないことを自らの罪により知ることとなるのです。

【ローマ人への手紙7:15-24】
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。
すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、
わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

さあ、あなたはどうでしょうか。ヨブが何に苦しんでいたのか、分かってきたでしょうか。
同時に神が今何からあなたを救おうとしているのかわかったでしょうか。

【コリント人への第二の手紙5:21】
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

私達は主によって義とされなければなりません。あくまで私に義は存在しないのです。
この方の十字架にしか、私達が義とされる道は存在しないのです。
だから、ヨブは苦しみの中で救い主を見たのです。
あなたも自らの罪の中で苦しんではいないでしょうか。
神を愛し、聖なる者として生きたいと願うからこそ、どのように生きればいいのかと迷っていないでしょうか。
この罪人を解放できるのは、十字架の死にのみよります。
あなたを贖う救い主の十字架の御姿にのみ希望を求め、あなた自身をこの十字架の主にゆだねていこうではありませんか。ただ神の義がこの身になることを願って。

【ヨブ記33:23-30】
もしそこに彼のためにひとりの天使があり、 千のうちのひとりであって、仲保となり、 人にその正しい道を示すならば、
神は彼をあわれんで言われる、 『彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、 わたしはすでにあがないしろを得た。
彼の肉を幼な子の肉よりもみずみずしくならせ、 彼を若い時の元気に帰らせよ』と。
その時、彼が神に祈るならば、神は彼を顧み、 喜びをもって、み前にいたらせ、 その救を人に告げ知らせられる。
彼は人々の前に歌って言う、 『わたしは罪を犯し、正しい事を曲げた。 しかしわたしに報復がなかった。
彼はわたしの魂をあがなって、 墓に下らせられなかった。 わたしの命は光を見ることができる』と。
見よ、神はこれらすべての事を ふたたび、みたび人に行い、
その魂を墓から引き返し、 彼に命の光を見させられる。

※この箇所は後の日に私達に与えられる主イエスキリストを預言する御言葉です。


【詩篇48篇】
コラの子の歌、さんび
48:1 主は大いなる神であって、われらの神の都、その聖なる山で、大いにほめたたえらるべき方である。
48:2 シオンの山は北の端が高くて、うるわしく、全地の喜びであり、大いなる王の都である。
48:3 そのもろもろの殿のうちに神はみずからを高きやぐらとして現された。
48:4 見よ、王らは相会して共に進んできたが、
48:5 彼らは都を見るや驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去った。
48:6 おののきは彼らに臨み、その苦しみは産みの苦しみをする女のようであった。
48:7 あなたは東風を起してタルシシの舟を破られた。
48:8 さきにわれらが聞いたように、今われらは万軍の主の都、われらの神の都でこれを見ることができた。神はとこしえにこの都を堅くされる。[セラ
48:9 神よ、われらはあなたの宮のうちであなたのいつくしみを思いました。
48:10 神よ、あなたの誉は、あなたのみ名のように、地のはてにまで及びます。あなたの右の手は勝利で満ちています。
48:11 あなたのさばきのゆえに、シオンの山を喜ばせ、ユダの娘を楽しませてください。
48:12 シオンのまわりを歩き、あまねくめぐって、そのやぐらを数え、
48:13 その城壁に心をとめ、そのもろもろの殿をしらべよ。これはあなたがたが後の代に語り伝えるためである。
48:14 これこそ神であり、世々かぎりなくわれらの神であって、とこしえにわれらを導かれるであろう。

神を喜び、主を賛美する者は、やがてその喜びに満ちた賛美の内に、ある所にたどり着くでしょう。
その賛美の中心地、賛美が永遠にとどまることなく、その中心には主ご自身が居られる場所。
永遠の都、聖なる都、新エルサレム。
そして、この都の内にいる者は地上のエルサレムが山に囲まれた堅固な要塞であるように、主の永遠の統治の内に、主ご自身が「火の城壁(ゼカリヤ2:5)」となり私達を囲み、ご自身の栄光でその内を満たされるでしょう。
主こそ我らのやぐら(詩篇18:2)となり、私達をあらゆる危険から常に守られるのです。
これに挑もうとする如何なる者もこれに太刀打ちできません。
その心は都を見るや主の恐れと、都に現された主の力と栄光を見て恐れ、急ぎ逃げ去るのです。
そして私達はこの絶対的な安全な場所、何ものにも揺るがされることのない主の宮のうちに、主のいつくしみを思い、絶え間なくその唇は賛美が溢れ出る。
この賛美は地の果てにまで溢れ出て多くの聖徒達も同様に祈りの内にこの都で賛美をささげ、それが全地を覆っているのがわかるでしょう。
まさに主の永遠の都は今ここにあり、永遠の神の国においては、やがて来るべき神の都は霊に満ちる祈りの内に現れ、圧倒的勝利の内に完成している(ヨハネ19:30,黙示録21:6)のです。
その勝利はこの地を飲み込むほどのもの。私達を取り囲んでいた困難も悩みも問題も全てはこの中に飲み込まれ主の勝利の内に全てが最善の形で完了してしまう。
私達の賛美とは、祈りとは、礼拝とは、そのようなものです。
つまりは私達は、主にひたすらに心を向け、神を信じ、この方の良くしてくださった事を何一つ忘れず、数え、ほめたたえ、また今私達が直面するあらゆることにおいても、主に願い求めるのなら必ず主が報いてくださる(ヘブル11:6)ことを信じ、主をほめたたえるなら、この宮の内に、都の内に私達の賛美は、祈りは、引き上げられる。
そして、天にある礼拝(黙示録4,5章)の内に自分も入れられていることを知るでしょう。
それは神の子羊の御前、永遠の勝利者であられる方の前に集うものであり、この場所から全地の裁きが下ることを知るでしょう。
ここにすべての勝利の源たる方が居られ、神の義により正しく裁きがなされている。
私達は、この王なる方の花嫁とされているのです。
私達を取り囲むあらゆることを超え、死を超えて、この主の御前に主だけを求めて、主への賛美の内に出るとき、主は金の勺をもって、あなたの願いを、あなたの名を呼び聞き入れてくださるでしょう。
「何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう(エステル5:3)」と。
だから、私達は主をほめたたえ得ないと思われるような状況に於いても、主をほめたたえ、主の御前に出るのです。
この方はあなたを愛し、私達が何ものを頼りとせず、主だけを愛し、この主だけが素晴らしき方と近づくのを、けっして無にされる方ではありません。
あなたを愛して止まないゆえに、勝利と恵みに満たして余りあるものとされるでしょう。
だから私達はなおさらに主をほめたたえ、「主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめる(詩篇27:4)」ことを永遠の望みとするでしょう(詩篇48:12,13)。

だから主を喜ぶことは私達の力なのです(ネヘミヤ8:10)。
「なえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにし(ヘブル12:12)」、しっかり立って、
今日も、主の素晴らしさを仰ぎ、賛美しましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ゼカリヤ2:4,5】
2:4 言った、「走って行って、あの若い人に言いなさい、『エルサレムはその中に、人と家畜が多くなるので、城壁のない村里のように、人の住む所となるでしょう。
2:5 主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる』と」。

【詩篇18:1-3】
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

【ヨハネ19:30】
19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

【黙示録21:6,7】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

【ヘブル11:6】
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

【詩篇27:4】
27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。

【ネヘミヤ8:10】
8:10 憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。

【ヘブル12:11,12】
12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
12:12 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。

【マタイ21:16-17】
イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

神が私達の前にご自身の姿を現された時、私達は本当にこの方を神として受け入れることができるでしょうか?
これは実際にイスラエルの地で起こった現実のことです。
この聖書の箇所で語られているのは主イエスがまさに聖書に預言されたままの姿でご自身をエルサレムに現された時のことです。
そしてその時、神を最初に受け入れるはずであった、神の選びの民であるイスラエルは、その神を受け入れることできませんでした。
なぜならかみの言葉を預かっているはずの選民は、その言葉を人の知恵で理解しようと、人の知恵で神を退けてしまったのです。
人の知恵はいくら積み重ねたとしても、人に賢者のように認められたとしても、神の知恵に至ることはないのです。

【1コリント2:6-10】
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
しかし、聖書に書いてあるとおり、 「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、 人の心に思い浮びもしなかったことを、 神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」 のである。
そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。

当時イスラエルにはたくさんの律法学者がおり、あらゆる聖書の解釈が人の力によってなされていました。
ですがいざ主ご自身を目の当たりにした時、彼らの聖書解釈がその目を覆い、実際に目の前に居る神を見えなくしてしまったのです。

【ヨハネ7:45-52】
さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。
下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。
パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。
役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。
律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。
彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、
「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。
彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。

むしろ誇り得る知恵も何もない、子供のように素直に、目の前に居られる主の栄光の姿のみを見て、喜び受け入れる者に、主イエスは救いであられるのです。そして、その方を救い主として受け入れる者のみ、神を心からほめたたえることができる。

私達は今生きて居られる方、私達の中に生きて働かれる神の栄光の姿に、目を向けているでしょうか?人の知恵により積み重ねた信仰を誇り、この今生きて働かれる救い主を、私達の心の中で退けてはいないでしょうか?

どうか主が何ものにも頼らず、真っ直ぐに主のみを素直に信じる眼差しを、私達に与えてくださいますように。

主を喜ぶことは

2017年06月24日
【詩篇100篇】
感謝の供え物のための歌
100:1 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
100:2 喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
100:3 主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
100:4 感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
100:5 主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。

主が私達の神であること、これに勝る喜びはありません。
この方を神とすることは、「わたしは有る(出エジプト3:14)」という方を私の神とするということであり、私の根源(創造主)とするということです。
それは私達を、主に造られた被造物としての本来の位置に、安息させるものです。(全てのものは本来あるべき場所に収まると安心するものだからです。)
常に「有って有られる方(出エジプト3:14)」。永遠に現在に有られる方。この方が万物が有るということの根源であり、この方を神とするということは私自身の存在を、この神の元に永遠に有る者とするということです。
それは私達の存在が永遠に保証されるというものです。これほどに、心に平安を与えることは他にないでしょう。

【ヨハネ14:27】
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。

誰でも自分の存在できる場所を求めてさまよい、存在できるために努力し、葛藤する。それがこの世の常であるのに、主を神とするということは、それだけで平安が満ち、その渇望を充分に満たしてあまりあるものとなるのです。

またこの方が神(創造主)であるということは、万物が主のものであるように、私達自身も主のものであるということです。
つまり、この方を我が神とするということは、この方の民となるという事であり、もっと驚くべき事に、主イエスの贖いが成し遂げられた現在においては、この方の子、神の子とされるということなのです。

【黙示録21:6,7】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

これが私達の喜びの根源です。
この喜びは世が与えるいかなる悦びとは異なります。
この世の悦びは私達の状況が変われば消え失せるものです。
その悦びの根源となっている事自体が、消え失せる朽ちるものの上に成り立っているのですから、それははかなく消え失せ、移ろいゆくものであると言わざるを得ないでしょう。
この悦びを集めて、幸せな人生を築こうとするなら、人は簡単に絶望の中に身を沈めます。これが世の与えるものです。

【伝道者1:2-4,12:13,14】
1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
1:4 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
 [中略]
12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

しかし、私達が主を神とし、この方自身を私達の喜びの根源とするとき、主に与えられた私達の命は、内側から喜びの声を上げ、その喜びは賛美となって主をほめずにはいられないものとなるでしょう。

【ローマ14:17】
14:17 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

そのほめたたえる声はもうとどめることはできません。
やがて、大きな大きな賛美となって、私達は天の主の宮の大庭で、とどまることのない賛美をささげ続けるため、集められる。
地の教会はそのようにとどめることのできない賛美をささげ続けるために集まり、各々に与えられた喜びは溢れ溢れて、大きな喜びとなってその全体を満ち溢れさせるものとなるでしょう。

【詩篇100:4,5】
100:4 主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
100:5 主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。

さらにその喜びは主への感謝とそのみ名をほめたたえて、世代を越え、地域、空間を越えて溢れ、多くの造られた者達に主をほめたたえさせるものとなるでしょう。

【詩篇150:6】
150:6 息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。主をほめたたえよ。

だから、今主の甘き御名を呼び、主を喜び、賛美することを始めましょう。
どんなに小さな声からでも、いいのです。
この喜びはやがてこのようにとどめられることなく、全地を覆う賛美となるのですから。

栄光の歩み

2017年06月20日
【ローマ12:11,12】
12:11 熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、
12:12 望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。

この地にあって、教会がまずすべき事は何であるのか。それがここに表されているように思います。
それはいかなる時代においても、いかなる場所においても変わることはありません。
ローマ人への手紙に、この後に多く語られている具体的な教会として聖徒としての歩みに先立ち、パウロが聖徒達に語ったこと。
だから、この地に遣わされた教会として、主イエスに救われたすべての聖徒達は、これを始めとしなければ何の力も得ないでしょう。
すべき事、やりたいこと、主の計画と思わしきこと、私達が教会として、することはたくさんあるように思われます。
でもどこから始めるのかが重要なのです。その行く末が大きく変わってしまうからです。

主の霊にあって立ち、主の霊により、神の熱心を私達はすべての日にまとう必要があります。
主の熱情は私達を常に霊に満たし続けさせ、霊に燃え、その炎が私達自身を燃やし続け、私達の「からだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ(ローマ12:1)」させ続けるでしょう。
こうして私達は主に仕えるという、自らのささげものを主にささげ続けるのです。

私達の望みはこの地上で消えゆくような望みではありません。

【エペソ1:14】
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

私達の望みは神の国をつぐことの望みであり、私達のために「天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ(1ペテロ1:4)」望みなのです。

【ローマ8:24,25】
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

この目に見えない望みを、聖霊は私達に信仰によって見させるものであり、「聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか(エペソ1:18)」を知らしめるものです。
そして、この望みを待ち望ませ、それこそが、神の計画(みこころ)に生きることであり、私達がこの地上に生きる理由、またこの地上で生きるための大きな力ともなるのです。
私達はこの栄光を見て喜びます。

【ヘブル11:13,16】
11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
 [中略]
11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

だから私達はこの地上でいかなることがあっても屈することがありません。
絶望することはありません。
たとえ、この地上で、苦しみや悲しみ、あるいは世から思わぬ迫害を受けることがあったとしても、この永遠の栄光にすべての歩みは繋がっていることを知り、あらゆる状況を越えて、神の霊に満たされ、この世で得ることのできない喜びに満ち、神の力に満ちるのです。
こうして、私達は絶えることなく、満ち溢れて常に祈り続け、満ちた祈りは神の国をこの地に顕現させ、この地に神の栄光が満ちるのです。

【2コリント4:17,18】
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

私達の歩みは永遠です。
私達は永遠の命を得ているのです。
私達は永遠にすべき事をこの地上でし続けながら、今この地の生活でしかできないことをすべきなのです。
永遠の主の栄光を見ながら。
主イエスがそのようにこの地上を歩まれたように。

ただ主の望むこと

2017年06月19日
【申命記10:12-16】
10:12 イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、
10:13 また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
10:14 見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。
10:15 そうであるのに、主はただあなたの先祖たちを喜び愛し、その後の子孫であるあなたがたを万民のうちから選ばれた。今日見るとおりである。
10:16 それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

私達がなぜ主に選ばれ、救われたのか、その理由は全くわかりません。
おそらく、その理由は永遠にわからないでしょう。
私達に何らかの理由があって、神が救う価値があるとして救われた。
そのようなものは、私には何も見当たりません。
私には主を喜ばせるものは何もなく、むしろ生来の性質は、常に主に逆らい、甚だしく悪しき罪に汚れた罪人。主から離れ、自分の事のみに没頭して生きてきました。
神に愛されることなど知りもしませんでしたから、神を愛することなど到底考えもしませんでした。
私の迎えるこの一日がすべて自分の力で支えられていると信じ、そのすべてが神の恵みによって支えられていたことなど露も知りませんでした。

そんな私を主は愛してくださいました。
それは主からの一方的な愛でした。
主はそんな主も知らず逆らうだけの何の価値もない者を、何の得もないであろうに救ってくださったのです。
天地万物のすべては主のものです。
この方がすべてを造り、そのすべてを今も、また永遠に統べ治めておられます。
そんな壮大な想像すらつかない方が、その持ちゆるすべてのものを置いて、あたかも私が主のものでなければ、それらのものが何の意味もなく、何の価値もないかのように、私のために地に下られ、ご自身のすべてを私にくださいました。
その命までも。
神の御子である方の命という絶大なる価値ある犠牲(十字架)に、私など見合うものではありません。
なのに主は、「今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。(申命記10:12)」と言われるのです。
「ただこれだけ」です。
私が主を愛さなければ何の意味もないかのように、主は「あなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。(申命記10:12,13)」と言われるのです。
それも、私が「さいわいを得る」ために、なのです。
どうして、そんな主を愛さずにおれましょう。
ただ一方的にこれほど愛してくださった方に答えずにおられましょう。

【申命記10:16】
10:16 それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

私のすべては、そしてこの命は主のものです。
私は永遠に主よ、あなたを愛します。

戸をたたく音

2017年06月17日
【黙示録3:20】
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

この御言葉は驚くべき事に、神を信じない者にではなく、クリスチャンである、七つの教会の一つに語られています。
「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。(ヨハネ14:23)」と言われる主イエスが、私達の内に住まうのではなく、「戸の外に立って、たたいている(黙示録3:20)」のだとしたらどのような状況だというのでしょうか。
私達は救われた時、救い主であるイエスキリストを信じ、受け入れたはずです。つまり、私達の内に主をお迎えし、主は私達の内に住んでくださっている。また同時に教会の内にご臨在される方のはずです。
その方が戸の外に立つと言うことは、すでに主イエスが私達の内から、また教会の内から、外に出されてしまっているということです。
何と悲しむべき事でしょうか。
「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。(ピリピ2:21)」とある通り、私達の各々の事情は主イエスを私達の心の内から閉め出すのです。

【創世記3:6-11】
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

このことは、アダムとエバがサタンの誘惑に会い、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われ(創世記3:6)」る実を食べたのと同様に、
「肉の欲、目の欲、持ち物の誇(1ヨハネ2:16)」に惑わされて、「世と世にあるものとを、愛して(1ヨハネ2:15)」、主から身を隠し、父(神)の愛を退ける(ヨハネ2:15)ことであり、
アダムとエバがエデンの園に住まいながら、主を退けたために、自らをエデンの園から退けてしまったのと同じ過ちを繰り返すこととなるのです。

【ルカ14:16-24】
14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
14:24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

主が再び来られる終わりの時は、その反対に神への愛が冷め、各々自分の事に心を奪われ、神を閉め出し、せっかく招かれた婚宴にあずからないという、教会の本来の目的を完全に見失い、世の友となり、またサタンの友ともなり、神の敵となりさがった(ヤコブ4:4)教会の姿をここに見ることができます。
何と恐ろしく愚かなことでしょうか。
しかし、彼らは主が来られる直前まで世を謳歌し、「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っている(黙示録3:17)」者達となるでしょう。

【ルカ17:28-30】
17:28 ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、
17:29 ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
17:30 人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。

しかし、主が来られる日はその婚宴に入れられる者には最も幸いの日となるとしても、それを退ける者には裁きの火の中で、主に退けられ絶望の内に投げ出される日(ルカ13:24-27)となることでしょう。
残念なことに、多くのそのようなクリスチャンは主が来られる日ははるか先の事のように認識(1ペテロ3:3,4)し、自分の生きている間にはそのようなことはないであろうと考えます。
しかし、私達は明日生きているのかどうかもわからない「消え行く霧にすぎない(ヤコブ4:14)」存在です。
もし、明日にでも私達が死を迎え地上を離れるようなことがあれば、主イエスに再びお会いするのは明日ということになるではありませんか。
携挙を明日来るかも知れぬと待ち望むことは、個人においては明日にでも主にお会いすることになるやも知れぬと、備えを今するように生きるということでもあります。
主への愛が冷め、主を退けることがいかに主が悲しむ事であり、また愚かで恐ろしいことであるのか、私達は認識を新たにし、目を覚ます必要があるのです。

【雅歌5:2-8】
5:2 わたしは眠っていたが、心はさめていた。聞きなさい、わが愛する者が戸をたたいている。「わが妹、わが愛する者、わがはと、わが全き者よ、あけてください。わたしの頭は露でぬれ、わたしの髪の毛は夜露でぬれている」と言う。
5:3 わたしはすでに着物を脱いだ、どうしてまた着られようか。すでに足を洗った、どうしてまた、よごせようか。
5:4 わが愛する者が掛けがねに手をかけたので、わが心は内におどった。
5:5 わたしが起きて、わが愛する者のためにあけようとしたとき、わたしの手から没薬がしたたり、わたしの指から没薬の液が流れて、貫の木の取手の上に落ちた。
5:6 わたしはわが愛する者のために開いたが、わが愛する者はすでに帰り去った。彼が帰り去ったとき、わが心は力を失った。わたしは尋ねたけれども見つからず、呼んだけれども答がなかった。
5:7 町をまわり歩く夜回りらはわたしを見ると、撃って傷つけ、城壁を守る者らは、わたしの上着をはぎ取った。
5:8 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓って、お願いする。もしわが愛する者を見たなら、わたしが愛のために病みわずらっていると、彼に告げてください。

愛する主があなたの元にその溢れるほどの愛を持ってあなたを迎えに来られる時、あなたを呼び戸をたたく音がしても、この世で生きることに馴染んで、戸を開けることに躊躇し、この世への未練と、この世の教える常識の中に眠り続けることを望むならば、主は悲しみと共に去っていくことでしょう。
そこに残されるのは、あなたのために、十字架に自らの命をささげた主の死(没薬)の事実とそこに主がどれほどにあなたを愛したのか、注ぎ続けた主の愛のみであり、それを退けてしまった自らの愚かさへの言いようのない絶望感でしょう。
そして、残されたこの世では迫害の波の中、主を選んで殉教するか、主を捨てて背教し、永遠の滅びを選ぶかしか存在しない時代に生きることとなるのです。
だから、主はここに私達に対して警告し、主の再臨を退ける前に、主の愛に目覚めるよう勧めています。
主への愛のために病みわずらうほどに、主にお会いすることをこい慕い、この地で離れていようとも主を待ち望む。
あなたの愛は目覚めているでしょうか。
この地の生活に埋もれ、
主があなたに注いだ初めの愛から離れてはいませんか?

【黙示録2:4,5】
2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

※今回の聖書の引用箇所です。ご一緒にご参照ください。

【1ヨハネ2:15-17】
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。

【黙示録3:14-22】
3:14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
3:18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

【ヤコブ4:4】
4:4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。

【ルカ13:24-27】
13:24 そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。
13:25 家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。
13:26 そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、
13:27 彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。

【1ペテロ3:3-10】
3:3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
3:4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
3:5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
3:6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
3:7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
3:10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

【ヤコブ4:14】
4:14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。

小さく賢いもの

2017年06月16日
【箴言30:21-28】
30:21 地は三つのことによって震う、いや、四つのことによって、耐えることができない。
30:22 すなわち奴隷たる者が王となり、愚かな者が食物に飽き、
30:23 忌みきらわれた女が嫁に行き、はしためが女主人のあとにすわることである。
30:24 この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。
30:25 ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。
30:26 岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。
30:27 いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。
30:28 やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。

この地にあるこの世の国は、人の知恵と力により、治めようとするものであり、その全ては己の心から発するものを形とするもの、どれほど人が理想を求めても、そこに善は存在しません。
「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。(エレミヤ17:9)」とある通り、人の心が偽りであるので、はなはだしく悪に染まった社会しか作り出すことができません。
「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。(箴言1:7)」「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。(箴言9:10)」からこそ、神を恐れないこの世は神の知恵がなく、愚かなことを繰り返すしかありません。
国を統治するのはその国の主権を持つ者ですが、最初に権力を持つニムロデの時代(創世記10:8-12)から、人は同じ構造を繰り返しています。
権力により支配をする構造。
それにより人は一つになろうとするため、自らの力と知恵で高い塔を作り、高みを望む者達が心一つにして、その支配の塔を作ろうとするのです。

【創世記11:3,4】
11:3 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
11:4 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

これこそがバベルの塔であり、このように人がひとつになって、神を離れ、自らの知恵と力により、神に逆らってこの地を治めようとする者達の集大成。
この高き塔こそ、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう(ルカ4:6,7)」というサタンの誘惑のささやきを聞く場所なのです。
主はこの人の力に「彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。(創世記11:6)」と語り、神ご自身が人に自らの似姿(創世記1:27)の内に与えた人の力を打ち砕くため、「彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」と心を一つにできなくし、力を分散させようとしました。
神に逆らって、自らの欲求の満足とそこに至る自己達成のために発揮する人の力は神が危惧するほどに、これほどに強いものなのです。
これがバビロンの起こりです。
そして、これがイスラエルを捕囚することとなる大帝国バビロンに繋がるものであり、やがて大淫婦と言われる「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母(黙示録17:5)」の姿、「大いなる都、不落の都、バビロン(黙示録18:10)」となるものなのです。
つまり人の世の歴史には、連綿とこの人の作り出した、人の知恵と力の支配の結晶であるバビロンが存在するのです。
そしてこのバビロンを神は忌み嫌われ、幾度もその歴史の中で打ち砕かれているのです。
さらに神は、その支配と権威の構造ごと、十字架により打ち砕き、全てを主イエスキリストの足の下に置かれました。

【エペソ】
1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。

【コロサイ】
2:14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
2:15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

このように、人の世は支配と権力を奪い合い、こうしてこれまで多くの国々が歴史の中に生まれてきたのです。
神は初めから人の愚かさではなく、神ご自身の知恵によりこの地を治めることを望んでおられたのに。

【箴言8:5-17】
8:5 思慮のない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ。
8:6 聞け、わたしは高貴な事を語り、わがくちびるは正しい事を語り出す。
8:7 わが口は真実を述べ、わがくちびるは悪しき事を憎む。
8:8 わが口の言葉はみな正しい、そのうちに偽りと、よこしまはない。
8:9 これはみな、さとき者の明らかにするところ、知識を得る者の正しとするところである。
8:10 あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教を受けよ、精金よりも、むしろ知識を得よ。
8:11 知恵は宝石にまさり、あなたがたの望むすべての物は、これと比べるにたりない。
8:12 知恵であるわたしは悟りをすみかとし、知識と慎みとをもつ。
8:13 主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。
8:14 計りごとと、確かな知恵とは、わたしにある、わたしには悟りがあり、わたしには力がある。
8:15 わたしによって、王たる者は世を治め、君たる者は正しい定めを立てる。
8:16 わたしによって、主たる者は支配し、つかさたる者は地を治める。
8:17 わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。

だから、今日の御言葉のごとく、罪の奴隷たる者が王となり、神の知恵を持たない愚かな者が自らの欲望を満足させるために生きる世を、神は耐えることができないと語り、地は震うと言うのです。

【箴言30:21-23】
30:21 地は三つのことによって震う、いや、四つのことによって、耐えることができない。
30:22 すなわち奴隷たる者が王となり、愚かな者が食物に飽き、
30:23 忌みきらわれた女が嫁に行き、はしためが女主人のあとにすわることである。

そして、バビロンに属するもの大淫婦たるものが、「地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得(黙示録18:3)」て、「彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにし(黙示録18:7)」て、「心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言(黙示録18:7)」うことを忌み嫌うのです。

神はこのようなこの世の歴史に、明確な区切りをつけられることを語られました。
神の国がこの地の国々を打ち砕いて、全地を支配するという計画です。
それがダニエルが解き明かしたネブカデネザル王の夢の内容(ダニエル2:31-45)です。
歴史を動かす大きな中心的国家、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、そしてローマの影響を大きく残した現代。
その全ての国々の支配を超えて神の国は全地を統べ治め、やがてこれらの国々を打ち破って完全なる神の永遠の統治がこの地に到来することを預言したのがこの夢でした。

【ダニエル2:44】
2:44 それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。

つまりこれこそが神の壮大な歴史における神の計画であり、私達はこの神の国に国籍を持ち、この地にこの計画を成就するために遣わされた者達なのです。
ですから、私達がこの地に染まり、この世の支配にひざをかがめ、大淫婦の仲間として、生きることはサタンに属し神の選びから自ら出て滅びに向かうことであり、愚かな生き方なのです。
私達はそのようなことをする必要は全くなく、救われた時から、キリストと共にこの地を統べ治める者として、始めからキリストの花嫁とされているのです。
大バビロンという都ではなく、私達こそ神の住まう神の国の永遠の都、新エルサレムなのです。
だからこそ、私達はそれにふさわしい賢い歩みをこの地上でもすべきなのです。
それが今日の御言葉の後半部分です。

【箴言30:24-28】
30:24 この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。
30:25 ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。
30:26 岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。
30:27 いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。
30:28 やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。

私達にこの地上では力はなくとも、神の国の到来を望んで今からそれに備え(25節)、決して揺るぐことのない信仰の岩(マタイ16:18)の上、御言葉の岩(ルカ6:48)の上、キリストの土台(1コリント3:11)の上に家を建てる(26節)。
王なるキリストはこの地上にはおられず天に居られるけれども、 私達はキリストの体、教会として一つとなってこの地上で生き、またこの世に出て行き(27節)、地には居るけれど、その霊において、常に王なるキリストの御前、天の御座のある王の宮殿に永遠に住まう。
そのような生き方を主は小さいけれども、非常に賢いものの生き方として語られているのです。

愛する兄弟姉妹。私達も世に惑わされてすでに得ている神の祝福を失うことなく、たゆむことなく、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めて(ピリピ3:13,14)」いこうではありませんか。

※今日の引用箇所です。ご参照ください。

【創世記10:8-12】
10:8 クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。
10:9 彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。
10:10 彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。
10:11 彼はその地からアッスリヤに出て、ニネベ、レホボテイリ、カラ、
10:12 およびニネベとカラとの間にある大いなる町レセンを建てた。

【マタイ16:15-18】
16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

【ルカ6:47,48】
6:47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
6:48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。

【1コリント3:11】
3:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。

【ダニエル】
2:31 王よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観をもっていました。
2:32 その像の頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、
2:33 すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土です。
2:34 あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。
2:35 こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。
2:36 これがその夢です。今わたしたちはその解き明かしを、王の前に申しあげましょう。
2:37 王よ、あなたは諸王の王であって、天の神はあなたに国と力と勢いと栄えとを賜い、
2:38 また人の子ら、野の獣、空の鳥はどこにいるものでも、皆これをあなたの手に与えて、ことごとく治めさせられました。あなたはあの金の頭です。
2:39 あなたの後にあなたに劣る一つの国が起ります。また第三に青銅の国が起って、全世界を治めるようになります。
2:40 第四の国は鉄のように強いでしょう。鉄はよくすべての物をこわし砕くからです。鉄がこれらをことごとく打ち砕くように、その国はこわし砕くでしょう。
2:41 あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。
2:42 その足の指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
2:43 あなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、それらは婚姻によって、互に混ざるでしょう。しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。
2:44 それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。
2:45 一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と、青銅と、粘土と、銀と、金とを打ち砕いたのを、あなたが見られたのはこの事です。大いなる神がこの後に起るべきことを、王に知らされたのです。その夢はまことであって、この解き明かしは確かです」。

【出エジプト20:4-6】
20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それにひれ伏
してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

人の生来の性質は偶像を求めます。
まさしくこの偶像というものは非常にやっかいなもので、主がモーセに授けた十戒と言われる律法の中の一つが今日の御言葉になるのですが、この御言葉を与えられ、律法を守ることをイスラエルは誓ったすぐ後に、彼らは金の子牛という偶像を作り、神ならぬ神に祭壇を作り、供え物をささげ、崇めてしまうのです。
彼らはこの偶像に「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である(出エジプト32:4)」とさえ言っています。
しかし彼らは明確に「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです(出エジプト32:1)」と、天地万物を創造された、人の手によって造ることなど到底できようはずのない栄光の神を、自らのために造れと、ありえない冒涜を犯し、「 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたので(ローマ1:23)」す。
私達に造れる神に一体何の意味が有るのでしょうか。
「10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
10:20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。(1コリント10:19,20)」とあるように、自らの手で造った神という名のいかなる偶像も、それは何の意味もないものであり、それを崇めることは悪霊どもにひざをかがめ、悪霊の仲間となる、サタンを崇め、サタンと契約を結ぶ行為に他なりません。何と恐ろしいことでしょうか。
しかし、人はその結果がどれほど恐ろしいものであるのかを知らずに、この恐ろしい行為を当たり前に犯してしまうのです。
サタンの仲間となった者の行く末は、神に敵対する者であり、その結果は当然永遠の滅びなのです。それは神に選ばれた民であっても同様。
神ならぬ神に仕え、神に敵対する者となる以上、その定めから逃れうることはできません。

偶像が作り出されるのは、人間が自らの欲望をかなえる都合のいい神を造り上げようというところから発生するものであることが、このイスラエルの反逆からよくわかると思います。
ですから、いかなる人の貪欲も、「貪欲は偶像礼拝にほかならない(コロサイ3:5)」のです。
この世と言われる場所はこの貪欲が生み出す偶像礼拝に満ちた場所です。
それは神を退け、自らの欲望を満たすことを何の躊躇もすることなく、むしろ自分のために、自分の力で生きる者を賞賛さえされる場所であるからです。
この数限りない偶像に、世(サタン)は巧妙にクリスチャンのひざをかがめさせようとします。
それはサタンの甘い誘惑を伴うものですが、私達はここに明確な決別を宣言しなければなりません。

【ルカ4:5-8】
4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
4:8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

主イエスがこの世に公に姿を現され宣教の働きを始められるとき、サタンはこのように主イエスを誘惑しましたが、私達も主イエスに遣わされている世というものに一歩でも足を踏み入れるのであれば、主イエスの答えられたサタンに対する宣言を常にその内側に携えていなければなりません。
でないなら、人は容易にその誘惑に惹かれ偶像の元に姦淫を行い、サタンとの契約を結び、二度と戻ることのない永遠の滅びに落とされてしまうからです。

【民数記25:1-3,9】
25:1 イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めた。
25:2 その娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだ。
25:3 イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがったので、主はイスラエルにむかって怒りを発せられた。
 [中略]
25:9 しかし、その疫病で死んだ者は二万四千人であった。

このような世の戦いにどれほど多くの兄弟姉妹が飲み込まれ、本来与えられている命を失っていることでしょうか。
クリスチャン自らが自分の貪欲を制することができず、自ら作り出した偶像(自らの都合のいい恵みを与えてくれる都合のいい神やそこに導く数々の教え)に捕らえられる状況ですから、そこに聖別無くして、どうして世に立ち向かうことなどできるでしょうか。
しかし、時代は刻一刻と反キリストを迎える準備を整え、この反キリストにひざをかがめよと社会が要求するときが近づいているのです。
時代は信仰を失うか、信仰を守るため命をささげるかを問うほどに厳しさを増していく、それがこれから私達が向かおうとしている未来の姿です。
ですから、今ここに主にある信仰をしっかり持つ必要があるのです。

【ダニエル3:14-18】
3:14 ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。
3:15 あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。
3:16 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。

私達は今生きている社会においてでさえ、信仰に於いて妥協を要求されることがあるでしょう。
しかし、今社会常識という言葉や、生活のため、立場のためと、神に背く一抹の罪を責められる気持ちを持ちながらも理由をつけ、巧妙な言い訳を通して、信仰を譲る者は反キリストの登場を待たずして、日々サタンに近づき、かけがえのない永遠の命を明け渡し続ける者となるのです。

【ルカ9:23-26】
9:23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。

今日あなたはどのような面持ちで社会(世)に出て行かれるでしょうか?
しかし、一歩そこを出るとき、あなたは神を選ぶか、自分を選ぶかという選択肢の中に足を踏み入れます。
そしてその選択はあなたを滅びに導く偶像の元に引き出すか、栄光の神の絶大なる祝福の元に導くかを明確に分ける選択肢です。

そのとき私達は、信頼する主に私達の全てをゆだねつつも、私達のいのちを主にささげて、世に、サタンに宣言する必要があります。
「3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません(ダニエル3:17,18)」

【使徒行伝7:28-43,51-53】
7:38 この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使や先祖たちと共に、荒野における集会にいて、生ける御言葉を授かり、それをあなたがたに伝えたのである。
7:39 ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて、
7:40 『わたしたちを導いてくれる神々を造って下さい。わたしたちをエジプトの地から導いてきたあのモーセがどうなったのか、わかりませんから』とアロンに言った。
7:41 そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。
7:42 そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。預言者の書にこう書いてあるとおりである、『イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。
7:43 あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。
 [中略]
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。

この神に逆らい金の子牛の偶像を作り、エジプト(世の型)に帰ろうとしたのは、神の選びの民とされたイスラエルでした。
それは神を知らない者達ではなかったのです。
さらに民に誤り導かれてその先頭に立ち、率先してこの偶像礼拝にイスラエルを導いたのは大祭司アロンでした。
信仰においては、モーセに次いで指導者中の指導者であるアロンがこれを行ったのです。
まさにこの時こそ、神がイスラエルの民を愛し、この律法に従えばあなたは神の宝の民となると言われる神の言葉を、モーセが神から授かっている真っ直中にいる時でした。この律法を元に、イスラエルは一つの民として、選民として歩みを始めるところだったのです。
しかし、この金の子牛を神とした時からイスラエルの民の神への背信が始まったわけです。つまり初めからイスラエルの民は神に逆らうところから歩みを始めてしまった。
だからこそ、「イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。
あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。(使徒行伝7:42,43)」と、預言をもって主から厳しい指摘を受けているのであり、その結果として「だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう(使徒行伝7:43)」と警告されているのです。

そして、この同様の警告を今度はそのはるか後の時代、ステパノを通して、イスラエルの民に、神が語られた。
この言葉を聞いていたのは「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々など(使徒行伝6:9)であり、「その上、民衆や長老たちや律法学者たちを煽動し、彼を襲って捕えさせ、議会にひっぱってこさせた。(使徒行伝6:12)」とあるように、イスラエルの中心的指導者がここにまた含まれていました。
この議会の席でステパノが聖霊によって語ったのが、今日語られている警告だったのです。

これは今の時代に全く関係のないことでしょうか?
使徒行伝の時代から大幅に時が過ぎた今のクリスチャンには全く語られていないことでしょうか?
いいえ、私達こそ、この内側に聖霊をいただいている者であり、聖霊の語りかけは常に私達に与えられているのであり、だからこそ、この言葉、使徒行伝7:51-53から目を背けてはならないのです。
そして、今の時代にもまた語られているのです。
あなたがたはまた聖霊に逆らい、主の思いを退け、自らの生活のみに心を使い、自らの満足のためにのみ神への信仰を語り、主の御言葉を無にしようというのかと。
もしも私達が主の御心を背けて、自らのことばかりに心奪われ、エジプトに帰ろうと心を使い、またエジプトに帰してくれる、自らの生活を満足させくれる金の子牛たる神を掲げて、聖霊の語りかけを退け、預言者の言葉を退け続けるのであれば、私達は再び預言者たるイエスを十字架に追いやるのであり、「6:4 いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、
6:5 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
6:6 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能(ヘブル6:4-6)」となるのです。
そこに待つのは、「だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう(使徒行伝7:43)」となることでしょう。

これは冗談や喩えで語られていることではありません。
この国の国民をやがて外国の民々が引いていく。日本の国がこの外国の民に占拠される日というのも、今の日本の抱えている問題の未来像の中に見え隠れしています。
どのような未来が待つのかは、歴史の全てを司られる神に選ばれた民であり、この地上においてこの神の祭司とされた私達クリスチャンがいかに神に向き合うのかに関わっているのです。
多くのクリスチャンは今日明日のことを考え、語り、今日と同じように未来がやってくるであろうと高を括って、自らの都合のよい計画を自らの満足のために立てます。それは教会や教団、クリスチャンの全体の集まりにおいてもこれまで延々と変わることはありませんでした。
だとするならば、クリスチャンはかつてパウロが嘆いたように、この国においては、「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない(ピリピ2:21)」と主に嘆かれても仕方ないのです。
しかし、神が私達をこの地に置かれた目的は「1:5 わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、
1:6 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。(黙示録1:5,6)」とあり、「5:9 あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
5:10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」とあるように、キリストと共に神の御心のままにこの地を統べ治めるためなのです。
そしてそのために、私達は救われ、天に国籍を持つ者(ピリピ3:20)でありながら、この地上に遣わされているのです。
なぜ主に選びの民として選ばれたのか、この本来の目的を私達が見失うのであれば、それはイスラエルが神の選民としての目的を失い、救い主イエスを自らの手で十字架にかけたのと同様に、私達も再び来られる主に逆らい、人の目にわかりやすく救世主に見える、私達の生活を満足させてくれる反キリストに従い、神の選びから自ら退けられた者になるということなのです。
これは恐ろしいことですが、現実にはすでに始まっていることなのです。
なぜなら、私達は変わらぬ信仰生活を送り、変わらぬ恵まれた日常を送るための言葉以外、つまりは私達が私達のためだけに生きることを語る言葉以外、受け入れることがすでにできなくなってきているからです。
それはすでに聖書に預言されていることに他なりません。

【2テモテ3:1-5,4:3-4】
3:1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
3:2 その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
3:3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
3:4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
3:5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。
 [中略]
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

【1コリント10:5-12】
10:5 しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
10:6 これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。
10:7 だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
10:8 また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
10:9 また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。
10:10 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
10:11 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。
10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

【ユダ1:16-19】
1:16 彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。
1:17 愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。
1:18 彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。
1:19 彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。

もしも今の時代にあなたの思うままに生きさせてくれるあなたのための神が出てきたら、あなたはそれに従うでしょうか?
そのように目に見えてあなたに都合良く恵まれる神に導く指導者を、あなたは容易に神から来た者として受け入れ、従って行きはしないでしょうか?
それがかつての金の子牛であり、終わりの日の反キリストなのです。
誰が神のためにのみ生きることを願い、神の御心に真剣に耳を傾けるでしょうか?
この国が、イスラエルが崩壊した時と同様に、滅びの警告を受け、まさにその現実が目に見える形で刻一刻と目の前に迫っているのに、どうしてこの滅びからこの国を救い出そうとする神の御心のために生きることを放棄していられるでしょうか?
ここに必要なのはこの国の破れ口に立つとりなしの祈りであり、語られるべき福音なのです。
神の知恵が無き者がどうして、この国を滅びから救い出すように導くことができるでしょうか。
祈り無くして、どうして誤り続ける人に、神のあわれみ深き全能の知恵が授けられるでしょうか。
福音が語り出されること無くして、どうして日常的にソドムとゴモラのような罪の中に生きるこの国にあって、ツロとシドンのような道を歩み続けるこの国にあって、滅びから一人でも救い出されることがありましょうか。
あなたの人生は今この時神に従うこと無くして、どうしてこの国の滅びから自分一人免れることができるでしょうか。

【エステル4:13,14】
4:13 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。
4:14 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。

だから、愛する兄弟姉妹。共に祈りましょう。あなたが神の御心を受け取り、この国の滅びをとどめる一人となるために。

【詩篇46:1-11】
聖歌隊の指揮者によって女の声のしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌
46:1 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
46:2 このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
46:3 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。[セラ
46:4 一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。
46:5 神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。
46:6 もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。
46:7 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ
46:8 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
46:9 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
46:10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
46:11 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ

私達が悩めるとき、苦しみ、力尽き、どうしていいかわからないとき、そこに主が居られます。
私達が主の名を呼び、主の許に行くとき、そこに主の大能の力があり、こここそ我が避け所(全てのことからの避難所)であることがわかるのです。
ここから、主のわざが始まります。
実はここからが私達のスタートなのです。
自分の力が尽きなければ、私達はここにたどり着くことはないでしょう。
私達は生来の性格上、自分の力で生きることを常とし、自分で何とかしようと、自然にしてしまうのです。
だからかえって一人で悪戦苦闘してしまう。
主が私の唯一の避け所であり、私の力は主にしかないと知るためには、その悪戦苦闘にことごとく解決がなく、無駄となり、疲れ果て、いよいよ自分に絶望し、力を主にのみ求める以外にないところに行くしかありません。
そしてその間、常に心休めるところはなく、自分の安心して隠れている場所が主にしか見出せなくなって初めて、全てを置いて主の許に近づくことができるのです。
ここが、あなたのうちに神が働くスタート地点。決して絶望の場所などではないのです。
なぜか、ここには主の安息があり、ここに主の深い臨在があります。
主が共に居られ、そこに自分に向けてくださる主の愛とあわれみが溢れる。
周りの全てのことが、心煩わすその騒々しさと共に静まり、まるで別の時間と空間の中に居るかのように、深い安息の中に心静めて居られる。
たとえ天地が揺り動かされても、その全てが滅び、消え失せてしまっても、この避け所の中には何の影響もない。
そう、私達に確信させられる神の御腕の中のような場所。
この主の居られる場所こそ、神の国、天の御国。
あなたが知らずとも、実はあなたはその御国の中、神の都に主と共に居るのです。
そこには神の御座から命の川が流れ、その川はそこに住まう全てのものを喜ばせ都の中央を流れる。
その中心には主が居られ、「私は有る」という方が、都を絶対的に揺るがないものとされる。
この姿こそ、まさしく聖書の結論として描かれている天にある都、新しい聖なる都新エルサレム。私達の永遠に住まう天にある故郷の姿。

【黙示録22:1-5】
22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
22:3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
22:5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

だから、ここでは時の流れは存在しない。
永遠という終わりのない、この世とは別の場所に、私達は入れられているのです。
この地で私達が神の御国に入れられるとき、神の国はこの地に顕現します。
神の絶大なるみわざがこの地を覆います。
私達を悩ます全てのものはこの神の前に無力な者とされ、神の御声に万物は振るえ、ひざをかがめます。
主との深い祈りの交わり、この地で神を避け所とする者が入る神の御国。
そしてこの神の御国が絶大なる神の臨在と共にこの地に影響を及ぼす。神の御業が全地を飲み込む。
その時主はご自身をこの地に顕し、その御声はこの地に響きわたる。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。(詩篇46:10)」と。
全地の者はこの主の御業とその御声にひれ伏し、主を拝します。
主の名を知らないものでさえ、その絶大なる顕れに主を恐れ、この天地万物の主なる方のものとなることを多くの者達が望むようになります。
一人のクリスチャンがいるということはそのような絶大なことです。
あなたがこの地に遣わされたということはこれほどの影響を地に与えます。
それは主の名を知る者だからです。
「主よ。今来て、助けてください。」と叫べるからです。
あなたが主の前に人の業を止め、静まり、ただひたすらに主の顕れを願うということは、このように主が天地を揺るがしてまで、あなたの全てを、この地と共に勝利に飲み込むということです。
あなた一人が主に真剣に向き合うということは、このようにしてこの地にリバイバルを呼ぶということです。
あなたは今悩んでますか?
問題に囲まれていますか?
自分の力つき、疲れ果ててますか?
ならば、主の御業が顕れ、リバイバルがこの地を飲み込むために、主の名を真剣に呼べるときです。
さあ、躊躇することなく、あなたの避け所、主の名を力の限り呼びましょう。
この国の全てが主の勝利に飲み込まれてしまうために。

【ルカ22:31-34】
22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
22:33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
22:34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

この言葉を語られたのは、弟子達が最後の晩餐の席でありながら、「自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうか(ルカ22:24)」と争論をしていた後のことでした。
彼らはこの世の基準を元に、そのような争論を繰り広げていたのですが、主が語り出されたことは、神の眼差しという、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(マタイ23:12,ルカ14:11)」という全く異なる基準を元に、「しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。(ルカ22:26)」と、この世の常識とは全く正反対のことを話されたのです。
「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである(マタイ20:28)」との言葉の通りに、主イエスは十字架で私達にご自身の命を与えてくださるほどに、ご自身を低くし仕えられました。
この主イエスの御足の跡をたどり、主と共に自分を低くすることにより、人々に仕え、そのことによりむしろこの地を治める者となる。
主イエスはそのような低く小さくあるけれど、壮大な神の御心を弟子達に語られました。(ルカ22:28-30)
それは主の弟子達に対する大きな願いだったのです。
しかし、誰が一番偉いかの争論はこのとき始まったものではなく、すでに幾度も繰り返されていたものでした。その都度神の国の基準について同様に主は語られてきましたが、もしもそこで弟子達が自らの高慢を自覚できたのであれば、このように主が十字架にかかられる前日、主が切に望まれた弟子達との最後の晩餐の時にまで、誰が偉いかなどと話してはいなかってでしょう。
そして弟子達はサタンにふるいをかけられることをゆるされました。
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。(マタイ26:31)」とあるように、数日前には子ろばに乗りエルサレムに入城された主イエスを「ホザナ」と叫び、エルサレム中で主イエスを来たるべき救い主として迎えたのに、この数時間後には、弟子達は捕らえられるイエスを一人置き去りに、逃げて行くのです。
それも主イエスが救い主ではなかったかのように恐れ怯え絶望して。
ペテロも主イエスの預言通り、主イエスを三度も否むことになります。

【マタイの福音書 26:74】
74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。

とあるように、ペテロは主イエスをのろってまで、「知らない」と言い、自分の命を守ろうとしたのです。
のろうほどの否定、それは主イエスへの信仰を捨てることと同等の重い意味を持ちます。
しかし、彼こそサタンがふるいにかけることを神に願い許されたことを主が語られたとき、真っ先に主の言葉を命をかけて否定した者だったのです。
「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません(マタイ26:33)」
「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません(マタイ26:35)」
「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です(ルカ22:33)」
彼が「生ける神の子キリスト(マタイ16:16)」の言葉を、これほど力強く否定できたのには、彼自身の主を越えて自分で自分の信仰を誇れる高慢が、隠されているように思われます。
そうです。主イエスは弟子達に、ペテロに、忠告を与えたとき、その本質に、ただの漁師であったり、取税人であったり、取るに足らない者達であった弟子達が、いつの間にか高き者となっていた、この高慢の根強さを十分ご存知であったでしょう。
だからサタンのふるいでさえ、彼らの高慢を打ち砕く道具とされたのです。
なぜなら、弟子達に「わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせる(ルカ22:29,30)」ことが主の願いだったからです。
神の国における十二の部族をさばくほどの高き位を弟子達に与えるためには、彼らの高慢は致命的なものでした。
彼らはこの後、主イエスに続いて最も低められる者とならなければ、彼らにそれほどの高き位を神は与えることができなかったでしょう。
主イエスも従われた「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(マタイ23:12,ルカ14:11)」という神の国の法則の前に。
だから、その全てが完全に打ち砕かれるほど決定的に、弟子達は主につまづかなければなりませんでした。
そして、主の預言の通り、弟子達は主イエスを一人捨て逃げたし、その自らの主張した信仰は完全に打ち砕かれました。
同様にペテロは主をのろい信仰を捨てるほどに主を否定しました。
鶏が鳴いたとき、彼への預言を思い出し、自らが何をしでかしたのか、その深刻な事態に打ち拉がれたのです。
彼もこれまでの主との歩み、その全てが完全に打ち砕かれたのです。
しかし、そのときペテロを見つめた主の目(「主は振りむいてペテロを見つめられた。(ルカ22:61)」)はどれほどあわれみに満ちたやさしいものだったでしょう。
そこに込められている思いこそ、「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。(ルカ22:32)」という深い愛ととりなしだったでしょう。
自らの全てを打ち砕くほどの彼自身の失敗がなければ、彼はこの後誰の痛みも弱さもわからない、指導者になったことでしょう。
しかし、信仰にこれほどのつまづきと痛みを持ったからこそ、主イエスが「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:32)」と願われた通り、兄弟姉妹の弱さが痛いほどわかる者として、彼らを力づける者となった。
彼はこれまでのユダヤ人の指導者のような、高慢な指導者ではなく、小さく弱い兄弟姉妹に、心底仕える者となったことでしょう。
確かに私達の根強い高慢は、私達に決定的なつまづきを引き起こさせてしまうこともあるかも知れません。
しかし、私達のその失敗の最中にさえ、主は「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈っ(ルカ22:32)」て神にとりなしてくださる主であり、あなたが立ち直り、兄弟たちを力づけることを切に願い続けてくださる主なのです。
いや、そのような主であるからこそ、神の目からは失敗ばかりを繰り返す私達をも、兄弟を愛しまた仕え、主の御体たる教会を建て上げるに足る者としてくださるのです。
何たる不思議、何たる愛、何たる奇跡。
だから、私は主のみをほめたたえるのです。
どうか、あなたのつまづきにも、主の驚くべき愛とあわれみが満ちあふれますように。

※昨日のメッセージにも出てきた、今日の聖書箇所の前に語られている部分です。ご参照ください。

【ルカ】
22:24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
22:25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
22:27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。
22:28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
22:29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう

【マタイ25:40】
25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

私達の神に対する態度は、人に対する態度に現れるときがよくあります。
神に対して侮る態度をとる者は、人に対しても侮り、神に対して高慢な者は、人に対しても高慢であったりします。
それが一つの基準となり、自分が神に対してどのような者であるかを推し量ることもできるのです。
今日の御言葉は、まさしく私達の人に対する態度を、主が見ておられるのだということがはっきりとわかる箇所です。
それも最も小さな者達に対する態度を主が見ておられるのだとすれば、私達は神に対してどのような者としてその目に映るでしょうか。
人は見た目に惑わされ、重要視されているような、地位や名誉を持つ人や、才能や賜物、あるいは豊かさなど、目に見える何かを持っている人に、また身分の高い人、偉い人には丁寧であったり親切であったりするでしょう。
たとえば偉い先生や、全国的に活躍している奉仕者、歌手や、メッセンジャー、メディアにたびたび登場するような有名人、海外で有名な大きな教会の牧師やリバイバルの器と言われる先生方、そんな人達には黙っていても、人は集まり、また歓迎し親切にするでしょう。
しかし、身なりが貧しかったり、何も目を惹くものを持っていなかったり、卑しく見える人には、以外と適当な態度で接してしまう。
しかし、主イエスご自身貧しい大工のせがれとして生まれました。
ですから、彼を昔から知っていて、彼の人間としての姿しか目に入らなかった者達は、彼を軽んじ、彼こそが長い間イスラエルが待ち望んでいた救い主であることに気づきませんでした。

【マタイ13:54-58】
13:54 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。
13:55 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
13:56 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
13:57 こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。
13:58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。

果たして今の時代に主イエスが同様に現れたら、私達には主ご自身のことがわかるのでしょうか。
いや、主は「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである(マタイ25:40)」とはっきり言われています。
主の基準はさらに明確で、私達の前に遣わされた小さい者達の内に主はご自身を投影されているのであり、まさしくその小さい者達の中に、卑しく小さい者とされこの地に来られた主イエスの姿を見出し、あるいは主イエスがこの目の前の小さな者をどれほどに愛しているかということを見ることができなければ、私達は主の御心を見出すことのできなかった高慢な者であったということが現わされてしまうのです。

【マタイ18:1-5】
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
18:2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
18:3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
18:4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
18:5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
【マタイ23:11,12】
23:11 そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
23:12 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。

目に見えるものによらない、目に見えない、「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る(1サムエル16:7)」と言われる神の国の基準。神の眼差しは低い者、小さい者に注がれています。
主はそのような者をこそ哀れまれる。
なぜならそれは、彼らこそ、神の恵みを心から喜べる者であり、また神の栄光を現すにふさわしい人々であるからなのです。

【ルカ14:11-14】
14:11 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
14:12 また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。
14:13 むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人などを招くがよい。
14:14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。
【1コリント1:26-31】
1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

私達自身が低い者、小さい者であるのかどうかは、私達がどのような眼差しでまた心で、人(小さい、低い者達)に向き合っているのかで推し量ることができます。
多くの人々は自らが偉い者になろうと考えます。
それは弟子達が最後の晩餐の席でまで、論議し合っていたのと同じように、クリスチャンの私達の集まりの中でも、世と同じ基準において誰が偉いのかと心の中で人を見てしまっているということなのです。

【ルカ22:24-30】
22:24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
22:25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
22:27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。
22:28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
22:29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

しかし、主はそれとは別の神の国の基準で私達がこの地を治める者となるよう、私達に語られています。
それは自らを低くし、兄弟姉妹にそして神に仕えることにより、治める者となる。つまり「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(マタイ23:12,ルカ14:11)」という神の国の法則に基づいて、この地を治めることを、主は私達に求めておられるのです。

【ピリピ2:5-9】
2:5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。

いや、そのような神の思いを持って、地にまで下り、卑しめられ、自らの全てを無にしてまで、低きところに下られた主イエスと共に生涯を歩む者に、そのようにこの十字架に続く御足の跡を、命をささげてたどる者に、主は天においては高き座を与え、治める者としようと語られているのです。
この主イエスの思いをもって、この地を歩む者には、今にも消え入りそうなほど弱い者、小さい者、傷ついた者、貧しい者たちの姿が目に映り、そこに主に仕えるように仕え、主を愛するように愛する思いが芽生え溢れてくるでしょう。
どうか主が、私達を主イエスの思いにかなう低き小さな者としてくださいますように。

【マタイ12:18-21】
12:18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
12:19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。
12:20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
12:21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。

神から隠れる

2016年12月14日
【エレミヤ23:23,24】
23:23 「主は言われる、わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか。
23:24 主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。

人は自らの思う人生を送りたいというのが生来の性質でしょう。
それを人の幸せと世では言います。
幸せになりますようにとは、自分の思うままの人生を送れますようにというもの。
あなたの思うままの人生を送れますように。
この言葉は一見すると、親切でやさしい思いやりのある言葉に思えるかも知れません。
しかし、聖書において神はこのことこそが、誤り、罪であることをはっきりと表しています。
各々が各々の思うままに良いと思うことをするということは恐ろしいことです。
各々が自分の基準で生きる。それに対立してしまう、その妨げになるような全く逆の価値観を持つ者が現れたらその時はどうするのでしょうか。
互いに正しさを主張するその行き着く先に何が残るでしょうか。
また、誰がそのように多くの者同士が関わり合いながら作られる社会や国と言ったものを正しく裁けるでしょうか。私利私欲のためにしか生きない者達なのに。

【創世記6:5-7】
6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
【士師記21:25】
21:25 そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。
【使徒行伝7:51-54】
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。

このように人々は自分の思いのままに生きようと繰り返し神に逆らい、過ちをまた罪を繰り返してきました。
神はご自身のご計画(御心)のままに天地万物を造り、私達人間を造りました。
それは私達一人一人各々に於いても変わることなく、一人一人が主のご計画の元、愛をもってこの地に造り出されました。
そこには祝福を注ごうと恵み溢れる道のりが用意され、また各々に、互いに愛し合いまた社会を、時代を、国を、神と共に治めるための壮大な計画が用意されているのですが、人は自分とそのごく近い周りのことしか見えない、非常に近視眼なので、そのため自らの思うままに生きようとするならば、神の思いを知らず、必ず逆らい罪を犯すのです。

【ローマ8:5-9】
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
8:9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。

神によって救われたクリスチャンも全く同様のことが言えます。
救われて新しくされた喜び、この新しい命をご自身の命を差し出して与えてくださった方のために、ささげよう。
神のため、私を救ってくださった救い主イエスキリストのために生きていこう。
救われたばかりの時、救いの喜びに溢れているときには誰しもがそのような思いを少なからず持つものです。
しかし、やがて自分の生活も気になり始める。
神のために生きると自分のために生きる人生がなくなるような気がする。
図らずも人はそのような罠の中、生来の生活に戻っていくのです。
神に背を向け、神から隠れるようにして。
そこに語られているのが今日の御言葉です。
神はそのように生きる私達に今日のように、いやいつも絶え間なく語り続けています。
あなたの姿も、あなたが何をしているかも、あなたが何を言い、何を思っているのかも、私は全て知っている。私に隠れおおせるものはない。
私はここに主を恐れます。
同時にどれほど主が私達を愛しておられるのかを知り、感謝と共にまた主を畏れます。
あなたはどうでしょうか?
自ら思うままに自らの判断と力で生きることが神から喜ばれず、むしろ自らが神から背を向け逆らっていることが、どこか自分の中でわかっているから遠く離れ、神から隠れようとしているのではないでしょうか?
もしもそのようなら、神の本当の思いを誤解してしまったのです。
あなたの神はあなたの言うことを何でも聞く都合のいい神ではないかも知れません。いやむしろそのようなものが神に見えるのであれば、それはイエスを誘惑に来たサタン(マタイ4:1-11)と同じものです。
それに気づかず甘い誘惑に乗り、自分の欲しいものを手にしたなら、その結果はサタンに膝をかがめさせられ(マタイ4:8-10)、それによって得るものは、自らの滅びを刈り取ることになるのです。
そういう意味では、神の計画は飽くまでも神ご自身のためのご計画であり、それは普遍のものですが、同時にあなたのためのものであり、その計画にはあなたへの溢れるほどの愛が含まれているのだと言うことを、あなたは知らないのです。いや、忘れてしまったのです。
でなければ、なぜ神の大いなる計画の中に(その中心に)十字架があったのでしょうか?
あれはあなたのためのものだったのではないでしょうか?
そこにはあなたを愛して止まない神の御心が溢れているのではないでしょうか?
そのように神のご計画は愛溢れ、あなたの思うままではないかも知れませんが、神を愛し神の御心に従い生きる者に、あなたが思うよりもはるかに素晴らしく、また価値があり、恵みと祝福の溢れる人生を与えてくださるでしょう。
だから、今主があなたに語りかけている言葉に耳を傾けてみましょう。
最初の人間アダムとエバが罪を犯した時、神から隠れたあの時から、変わることなく神の愛は、今度は今あなたに注がれ、あなたに語りかけています。
「あなたはどこにいるのか(創世記3:9)」と。

【詩篇139:7-18】
139:7 わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
139:8 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。
139:9 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
139:10 あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
139:11 「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
139:12 あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。
139:13 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
139:14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
139:15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
139:16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。
139:17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。
139:18 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。

神に富む者として

2016年12月13日
【ルカ12:15-21】
12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
12:16 そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして
12:18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。
12:19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
12:20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。
12:21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。

多くの兄弟姉妹がこの地上の生活に固執し、本来神から与えられている召しと言われる、神の計画から離れて生活しています。
それは同時にその人に与えられている神の恵み、祝福と言ったものを退けて生活していると言っても過言ではないでしょう。
なぜなら神が私達に与えようとされている祝福の大部分は天における祝福(エペソ1:3)であり、この地上では受け取りきれないほどのあふれるほどの恵みに他ならないからです。
つまり、天における祝福に添えて与えられる程度のものでも、私達は地上の生活はすべて満ちみちてしまう程のものなのです。

【マタイ6:31-33】
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

この天(神の国)における祝福を、退けて地上のことだけに心を奪われて生きるのであれば、その人はこの地上で望むものを手に入れたかのように、一時的には豊かなように見えるかも知れません。
しかし、彼が手に入れたのは朽ちてしまう宝(マタイ6:19)なのです。
ましてや、明日の命でさえ私達にはどうすることもできない、どのようなものなのかわからない(ヤコブ4:14)ものなのですから、この朽ちていく宝さえ実は自分のものとはならない(ルカ12:12)のです。
ではどうしてこのような地上のものばかりに人々は心奪われて生きてしまうのでしょうか。
それは、この地上に心奪われてしまえば、その人は救われる前の生活(「異邦人(マタイ6:32)」の生活)と何ら変わることなく、むしろそこに逆戻りさせ、あるいは世に戻って帰ってこないことにさえさせようとする、サタンの巧妙な策略の中に人は簡単に陥るからです。
そして、その巧妙な策略さえ見えないように、世の常識の中に隠され、人々は容易に救いによって与えられている、天においても地においても与えられている絶大な祝福を手放すこととなるのです。

【1コリント15:50】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

むしろ、私達は「自分のために宝を積んで神に対して富まない者(ルカ12:21)」とはならず、神の計画を見つめ、神の御心のままに、神のために生き、神に対して富む者となろうではありませんか。
そうするなら、私達の体は地上にあっても、心は天にあり(マタイ6:21)、そして主が再びこの地に来られる時には、私達はこの主と共に栄光の内に地上に現れることでしょう。

【コロサイ3:1-4】
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

あなたの望むものは地上のものでしょうか?
天のものでしょうか?
目に見えるものでしょうか?
目に見えないものでしょうか?

【2コリント4:16-5:10】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。

※今日のメッセージで引用した聖書箇所です。ご参照下さい。
また、聖書はその前後の文脈も重要なものとなります。願わくば、聖書を開き、メッセージをご覧いただくことをお薦めいたします。
今日も神様からの祝福が豊かにありますように。

【エペソ1:3-6】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
1:6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
【マタイ6:19-21】
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。
【ヤコブ4:14】
4:14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。

【ヘブル11:8-16】
11:8 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。
11:9 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。
11:10 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。
11:11 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。
11:12 このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。
11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
11:14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
11:15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

アブラハムは一般に信仰の父と呼ばれるほど、ただひたすらに主を信じ歩み続けた人でした。
「受け継ぐべき地に出て行(ヘブル11:8)」くという彼の召しは何を犠牲としても、何も知らずとも、アブラハムを約束の地へ導きました。
ただ約束だけを持って、ただ主だけを信じ続けて、アブラハムはその召しにすべてをささげて生きたのです。

【使徒行伝7:2-5】
7:2 わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて
7:3 仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。
7:4 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、
7:5 そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである。

たどり着いた約束の地において、アブラハムは幕屋に住み寄留者のように生活をし、実際にはまだその地は与えられませんでした。
また、数え切れぬほどの彼の子孫がこの地を受け継ぐことを約束されましたが、彼にはそれらのものは何一つ彼自身の肉体の目に於いては見えませんでした。
しかし、ただ一身に主を信じ続けたことにより、彼の信仰によって見えないものを見せる信仰の(霊の)目は、彼にはるかに大いなるものを見せていたのです。
「ゆるがぬ土台の上に建てられた都(11:10)」。
それは聖書の結論、「新しい天と新しい地(黙示録21:1)」の「聖なる都、新しいエルサレム(黙示録21:2)」であり、「天にあるふるさと(ヘブル11:16)」と言われる、私達が永遠のはじめそこから来て、とこしえの果てまでも主と共に住まう永遠の都。
ただ約束だけを握りしめ、主だけを信じ歩み続ける道のりは、時にあまりに遠く、待ち望むとはいかなることかと、途方に暮れることもあるかも知れません。
それほどに神の計画は壮大で、その受け取る約束をこの地上では見ることさえかなわないかも知れませんが、しかしただ一身に主のみを信じる信仰は、私達をこの永遠の都を望み見るまでに至らせるのです。
そして、そのあまりに壮大で完全、美しく輝き溢れ、いや筆舌しがたいほどの、この地では見ることのできない、地にあるものよりもはるかに良い天にある都を見た者は、この地上でどのように生きたとしても寄留者に過ぎないことを知るのです。
いや、この都を来たらしめる主の計画の一旦は私達の人生の歩みの中にあり、主が私達に与えて下さった壮大な約束は、この都を来たらしめるためのものであることを知るでしょう。
それが待ち望むということなのです。

【黙示録22:20】
22:20 「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。

私達をこの永遠の都に招き入れて下さる方が、この地に再び来られるのを待ち望む祈りは、こうして私達の約束の地への歩みの中に、いつも主にささげ続けられるものとなるのです。
それが私達の主への変わることのない祈りなのです。

【黙示録22:1-5】
22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
22:3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
22:5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

【創世記】
15:1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
15:2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。
15:3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。
15:4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。
15:5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。
15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

アブラハムは一人の小さな人でした。
ただ主からの約束だけを握りしめ、全く知らないまだ見ぬ地へ行くことに全てを捧げた(創世記12:1-4)人です。
誰が住み慣れた故郷を離れ、何の理由もわからず、見えない神の約束という、人の目や耳には見えない、不確かに見えるものだけを信じて、はるか離れた地に旅立つことができるでしょう。
そのためにどれほど多くのものを捨て、神だけを信じ、頼りとして生きたでしょうか?
しかし彼は私達と何ら変わりのない普通の人だったのです。
「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか(創世記15:2)」
「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう(創世記15:3)」
この二つのアブラハムの言葉から、彼も一人の弱さを持つ人であることを伺い知ることができるでしょう。
確かにアブラハムは神を信じ、その約束だけを信じて、長い旅に出て、そして約束の地に着きました。
主はアブラハムを祝福され、多くの持ち物も得て、豊かで力のある民になっていきました。
しかし、彼はその約束、大いなる国民どころか、一人の子、跡継ぎすらいませんでした。だから彼にとっては何を持っていても、何も意味もないことに見えたのです。
だからロトが住む、ソドムとゴモラの地が襲われ、ロトとその財産が奪われたのを、アブラハムたちが戦い、全てを取り戻し、ソドムの王から何の報いも受けず、サレムの王メルキゼデクに全ての物の十分の一を捧げ、ただメルキゼデクから祝福を受けたにとどまった。
その報いを主が大きく報いようとされた事でさえも、(このメルキゼデクこそ主イエスの型である人物であり、このささげたささげ物と受けた祝福とがどれほど大きいものであったかということをアブラハムはどれほど知っていたかは不明ですが)彼には意味がなかった。
すべては全く他人のものとなってしまう。
主はそこで、再びアブラハムに大いなる約束を語られました。
ただひたすらに主を信じ、主を愛し生きようとするアブラハムを、主はこの上なく愛したから、主はその思いの如何に大きいかを語られた。
彼の子孫は星の如くに数えられないほど大きな民族となると。
アブラハムのしたことは、ただひたすら一身に主を信じたことでした。
主はこれを彼の義と認められたのです(創世記15:6)。
このとき、アブラハムの目には人としては何も見えていませんでした。
約束の地を全て得たわけでも、ただ一人の子でさえもいませんでした。
しかし、主の約束を、その約束を語られる主を信じたのです。
彼ははるかに見えないものを信仰の目によって見て、信じたのです。
それは主をひたすら信じることによって開かれる信仰の目。

【ヘブル11:1-3】
11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

この目はアブラハムにのみ与えられているものではありません。
もしもあなたが主をただ一身に信じるのであれば、主が語られる約束をはるかかなたにあろうとも見て、今あるかのように確信することができるのです。
そして、そのことはアブラハムとその子孫との間に証しされているように、必ず成就するのです。
いや、図らずも選民イスラエルを通して世界中に現された救いの壮大な計画は、このアブラハムというごく普通の一人の人の、小さなしかしひたむきな主への信仰によって、現実のものとなっているのです。

【ヘブル】
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

「私はある」という方を信じ、この方を求めるのであれば必ず報いて下さると信じる生き方に、主は私達の信仰を見、そしてその信仰を主はこの上なく喜ばれるのです。
だから、私達も生きる全ての道で主を認め、主をただ信じて、ゆだねて、すがって、主と共に歩いてまいりましょう。
はるかに広がる主の栄光の輝きを目指して。

※今日の引用箇所です。
【創世記12:1-4】
12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。
12:4 アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。

【1ペテロ3:13-15】
3:13 そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか。
3:14 しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。
3:15 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。

万物を統べ治める方、全てのものの主はイエスキリストです。
全ての主権はこのイエスキリストにあります。
この事実は世界中のどこにおいてでも、いつでも、変わることはありません。
これは全ての歴史を貫き、世界中を貫いて変わらない事実なのです。
それはどの国に住み、誰が王であっても、誰に主権がある(この国日本においては国民に主権がある)と言われていても、その事実は変わりません。
しかし、この世は主権を人に与えます。
これは空中の権を持つ者の支配下(エペソ2:2)の元に与えられた統治と主権であり、この主権を主張する者はこの空中の権を持つ者の支配下に自らがあることを主張している(マタイ4:9)ことになります。
それがこの世と言われているものです。

【サムエル上2:1-10】
2:1 ハンナは祈って言った、「わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う、あなたの救によってわたしは楽しむからである。
2:2 主のように聖なるものはない、あなたのほかには、だれもない、われわれの神のような岩はない。
2:3 あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。
2:4 勇士の弓は折れ、弱き者は力を帯びる。
2:5 飽き足りた者は食のために雇われ、飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、多くの子をもつ女は孤独となる。
2:6 主は殺し、また生かし、陰府にくだし、また上げられる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くされる。
2:8 貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、王侯と共にすわらせ、栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、その柱の上に、世界をすえられたからである。
2:9 主はその聖徒たちの足を守られる、しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。
2:10 主と争うものは粉々に砕かれるであろう、主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、地のはてまでもさばき、王に力を与え、油そそがれた者の力を強くされるであろう」。

【ダニエル4:34,35】
4:34 こうしてその期間が満ちた後、われネブカデネザルは、目をあげて天を仰ぎ見ると、わたしの理性が自分に帰ったので、わたしはいと高き者をほめ、その永遠に生ける者をさんびし、かつあがめた。その主権は永遠の主権、その国は世々かぎりなく、
4:35 地に住む民はすべて無き者のように思われ、天の衆群にも、地に住む民にも、彼はその意のままに事を行われる。だれも彼の手をおさえて「あなたは何をするのか」と言いうる者はない。

主イエスを真の主権者として私達が認めるとき、この神の支配の中に私達は生きています。つまり、神の国の者としてあなたは生きていることになるのです。
「ただ、心の中でキリストを主とあがめ(1ペテロ3:15)」るとき、それがあなたの中に成るのです。
私達はあらゆるときに、神の国に生きる者として、神から出て神から遣わされた者として、この地において善を行うよう生かされています。
この世は神に敵対します。だからあなたの善に悪をもって報いられることも多々あるでしょう。
それは私達が世の者でないからであり、世の支配にある者は、私達がどのようであっても、神のものであるから敵対するのです。

【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

その時こそ、「ただ、心の中でキリストを主とあがめ(1ペテロ3:15)」ましょう。
そこに主の臨在が満ち始め、そこは神の支配の内に治められ、神の国がその場所に現れます。
あなたが遣わされたその場所はそのようにして神のものとして、神が勝ち取って下さるでしょう。
これは血肉による戦いではありません。
この戦いは王である方、万軍の主である方が戦われる主の戦いなのです。
そして、あなたの主は永遠に全地の主、イエスキリストなのです。
全ての現実は、全ての歴史は、万物は、この主イエスキリストの前に膝をかがめます。
この方に敵対する者は全て粉々に打ち砕かれます。
ただ、主を恐れ。ただ、心の中でキリストを主とあがめましょう。

※今日引用した箇所をまとめておきます。ご参照ください。
【エペソ2:1-2】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
【マタイ4:8-10】
4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

新しい歩み

2016年11月24日
【エペソ4:20-24】
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

ひとたび私達の内に「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになり、私達の心を照して(2コリント4:6)下さった聖霊は今も私達の内に住まい、私達の心を照らしてキリストにある真理のそのままを私達に直接語り続けて下さいます。
なぜなら、この聖霊こそ我が内に住まうキリストであり、この方こそ真理そのものであり(ヨハネ14:6)、この方の内に神にある知恵と知識のいっさいがあって(コロサイ2:3)、むしろそれ以外に私達は真理を知る術がなく、その聖霊によるからこそ、聖書から真理を知ることができ、語られたメッセージに心よりもさらに深く霊の内からアーメンと言うことができるのです。
そのように霊とまこと(真理、御言葉)によって私達は、この内に与えられた新しい命にふさわしい生き方に導かれるのです。

【ローマ6:4】
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

確かに私達は救われた当初、その救いの喜びの内に、これまで私達自身を捕らえる何かから解放され、何か新しくされたことへの希望を自然に感じていたことと思います。
これは私達がその時は何をも知らずとも、キリストにあって新生した感覚を聖霊が知っていたからでした。
この新生こそ、キリストと共に十字架につけられ私自身が死に、そのことにより古き人を脱ぎ捨て、主と共によみがえって、キリストにあって生きる、新しき人を着ることであり、それは私達の生き方そのものを根底から新しくするものです。
なぜなら私達はこの新しい命にあって生きるならば、私達のこれまでの、どのようにしても「情欲に迷って滅び行(エペソ4:22)」ってしまう生き方ではなく、その根底的性質ごと新たにされ、「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着る」生き方をするようになるからです。(義と聖とは神にしかない性質であり、神の性質そのものです。)
つまり、この新しい命、聖霊なる神の性質にあずかって生きる、私達は聖霊により全く新しい者とされるのです。

【2ペテロ1:3,4】
1:3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。
1:4 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。

私達自身が元の生活に戻ってしまうのであればそれは何も意味を成しません。
これまで自らの思いで生き、自らの力で、自らの知恵と経験と判断で生き、自らに導かれるまま、自らのために生きる生き方を、そのまま続けるのであればせっかく救われ新しい命にあずかったとしても、古き人としての生活があなたを救われる前の生き方へと導くでしょう。
逆に新しき人を着て生きるとは、この新しい命に導かれて、神に全てをゆだねて、神を信じて、神のために生きる生き方であり、それは私達自身の力や生来持ってものでは到底及ばない、神の命の持つ神の性質にふさわしい生き方をすることなのです。
これまでの生き方は、内に生きる命が完全に変わってしまっているので、全く通用しないのですから、思い切った心の変革が必要です。
だから、「心の深みまで新た(エペソ4:23)」にし、その根底から自らを新しくする歩みに立ちましょう。
新しく生まれた者は古い生き方は不必要なのです。その全てを捨て、これまでの私では全く知らない、新しい生き方を聖霊に導かれて生きていきましょう。
また、これまで古き人としての歩みを続けてきたのであれば、これまでの生活を省み、悔い改めて、十字架の元に再び新しき者とされて、今日から新しき人としての歩みを始めてまいりましょう。

【2コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

※今日の引用箇所です。ご参照下さい。
【2コリント4:6】
4:6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
【ヨハネ14:6】
14:6 わたしは道であり、真理であり、命である。
【コロサイ2:3】
2:3 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
【ヨハネ16:13-14】
16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
16:14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

【エペソ4:17-24】
4:17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
4:18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
4:19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
私達は「命(ヨハネ8:12)」を与える「まことの光(ヨハネ1:9)」である方が、「やみの中から光が照りいでよ(2コリント4:6)」と「わたしたちの心を照して(2コリント4:6)」、私達を、キリストを知る者としてくださいました。
神はこの方を信じた私達を「やみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ(使徒行伝26:18)」と「救い出し移して下さ(コロサイ1:13)」いました。
今や私達は「光の子(エペソ5:8)」とされているのです。
これが救いを受けた者、クリスチャンです。
しかし、それを逆戻りするように、「異邦人(エペソ4:17)」、つまりキリスト知らない者、信じない者のように「むなしい(何もない、命もない)心(エペソ4:17)」で生きるのであれば、私達はその光を失い、命を失い、死んだ者のように生きることとなります。
【ルカ11:34-36】
11:34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
11:35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。
私達の目が神から逸れ、「み言葉(詩篇119:105)」を離れる生き方を続けるのであれば、私達はその内なる命の光を覆い隠し、全身は希望なく、命なく、やみに覆われ、恐れに心覆われ虚しく、歩むべき道を掛け違えた歩みを続けていきます。
それは神の祝福から離れた道、神の支配を離れ、悪魔の支配の中を行く道。もと来た道を戻る道。
【エペソ2:1-3】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
さらに、恐ろしいことに、その時には「知力は暗くなり(エペソ4:18)」、内側には神の知恵を失って「無知(エペソ4:18)」となり、「心」は「硬化(エペソ4:18)」して、とうとう「無感覚(エペソ4:19)」になっていまう。
神から離れることを何とも思わず、罪を犯し続けても無感覚となってしまうのです。
こうなると、もはや神へ帰る道を忘れて、いつでも神へ帰れると思っていた道すらわからなくなってしまうのです。
私達の良心に働きかける聖霊を退け続けた結果、罪すらわからなくなっている者に、神に悔い改めて立ち返る道は遠く離れてしまっているのです。
【マルコ3:28,29】
3:28 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。
3:29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。
これは非常に恐ろしいことです。
それは神から離れていることも、悪魔の支配の元で人生の全てが何をしてものろわれたものとなっていても、神に立ち返るための悔い改めの道を見失ってしまっていても、その一切がわからないのです。
もはやその生活が「ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねてい(エペソ4:19)」ても、ごく普通に毎日を過ごしているようにしか思わない。
少しの良心の呵責もすでに神に立ち返らせるには力なく、いつか帰ればいいと神の永遠の裁きが自らに日々一刻一刻近づいていても、それがどれほど恐ろしいことかすらわからなくなっている。
もはやそれは救われる前より悪い状態なのです。
【2ペテロ2:20-22】
2:20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。
2:21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。
2:22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。
あなたの生活は今どうでしょうか。
私はまだ大丈夫と思っていませんか?
少しずつでも神から日々離れていく道を歩いていないでしょうか。
あるいはもう神から離れたあなたを、神がどれほど悲しみご自身の元に引き戻そうと切望されているのかさえも、もはやわからなくなってしまっているでしょうか。
「しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。(エペソ4:20)」と主は今はっきりとそのようなあなたに語りかけています。
【イザヤ55:6-9】
55:6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
55:7 悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。
55:8 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。
55:9 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
神に立ち返れる日は今だけかも知れません。
私達の命は私達自身の力でどうにもできないもの。私達の思いに関わらず、私達は明日の命をもわからない存在なのですから。
だから、「主にお会いすることのできるうちに」主の名を全力で呼び求め、主の元に引き戻してもらいましょう。
主の力は全能、その絶大なる力をもって、そしてご自分の命さえ惜しまずにあなたに与えて下さる神が、あなたを元の光の子としての場所に帰らせて下さいるでしょう。
※今日の聖書の引用箇所を参照できるようまとめました。一緒にご覧下さい。
【ヨハネ8:12】
8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
【ヨハネ1:9-13】
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
【2コリント4:6】
4:6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
【使徒行伝26:18】
26:18 それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。
【コロサイ1:13,14】
1:13 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。
1:14 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。
【エペソ5:8,9】
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさいー
5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものであるー
【詩篇119:105】
119:105 あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

生きた励まし

2016年11月18日
【2テモテ4:5-8】
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
4:6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
4:7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
4:8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
この言葉は、主を一身に見つめ信仰の道を歩んだ先人パウロから、まだ若い牧者テモテに宛てた手紙の言葉です。
信仰者として、伝道者として、いかに歩むべきかを二度の手紙の中に、励まし、勧め、証しし、そしてここで自らの最後を感じて語りかけている言葉です。
それは彼がどのように歩んできたのかを現す言葉でもありました。
【ピリピ3:8-14】
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
パウロのこれまでの歩みは、まさしくキリストを知る歩みであり、自らの生きる日々が十字架の死のさまとひとしくなり、そこから復活に達するための歩みであり(2コリント4:7-11,6:1-10)、主の永遠の計画を一日でも早く来たらせることを願い一身に前へと進む歩み(エペソ1:7-14,ローマ9:1-3,11:11-15)であり、上へ天へと望み見て生きる歩み(コロサイ3:1-4)であり、神の賞与を得るための歩み(1コリント3:11-15,2コリント5:9-10)、そして義の冠を受けるための歩みであったのです。
【1コリント9:24-25】
9:24 あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
9:25 しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
この冠こそ主イエスがパウロのために被られたいばらの冠であり、パウロはキリストの御足の跡をたどり歩み続けた(ガラテヤ4.19,ピリピ2:17,コロサイ1:24,2コリント11:22-30)のです。
そして彼は、神から与えられた彼の召し(使徒8:15-16,23:11,26:15-18,27:24)を全て終えたことを、その召しと約束だけを握りしめ日々歩み続けたからこそわかったのです。
【2コリント4:16-18】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
彼が何を見て、何を求めて、何を望み、何を喜び歩んだのか、その全ての歩みを通して、神はテモテを励ますパウロの言葉をもって、今私達を励ましています。
私達もパウロがその全てをささげ主イエスを見て、求めて、望んで、喜んで、愛して歩んだように共に歩みましょう。
そして、私達がこの地上の歩みをいつか終えて天に帰ることを知るとき、「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。(2テモテ4:8)」と確信と尽きせぬ喜びと主への賛美をもって、天への凱旋へと旅立ちたいと願います。
またこの小さな私達の信仰の歩みをその生きてきた証しを通して、続く信仰者を励ます者となろうではありませんか。

主への負債

2016年11月14日
【ローマ1:14,15】
1:14 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。
1:15 そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。
「果すべき責任がある。」という言葉は、「返さなければならない負債を負っています。(新改訳)」という言葉です。
パウロは主イエスに対してこの思い持っているのです。
私の罪のために払われた、御子の命というとてつもない代価。
この御子の命の計り知れない価値を私達は本当に知っているでしょうか。
私達の罪は、どれほどに小さいものに見えても、その罪というもの自体が神に敵対するサタンの性質、サタンから受け継いだもの(ヨハネ8:44)です。
それゆえに、神の御子の命という途方もない価値を持つ代価でしか贖うことのできないほどの、恐ろしいもの(詩篇49:7-9)なのです。それは永遠の滅びに価するもの。
【エペソ2:1-3,11-13】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
 [中略]
2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
あまりに罪深くおよそ救われるはずのない者。
言葉に尽くせないほどの神の大いなる恵みなどには、とてもとてもあずかるはずのない者。
それが私達です。
私達が主イエスに負っている負債はあまりに大きいのです。
そのことを知る者は、多く主イエスを愛し、その負債を主イエスにこの人生をもって、この命をもって、いかに返すことができるのかということを考えるようになるのです。
【ルカ7:47】
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
あなたはどれほど主に愛されているのかを知っていますか?
この方の愛を知っている者は、この方の渇きを知っているはずです。
救われるべき多くの魂が、死に、滅びに向かうことを悲しみ、断腸の思いで渇いておられるのを。
【ローマ1:16】
1:16 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
だからパウロは続く御言葉にあるように、福音を恥とはせず、誰の前にもその福音を隠すことなく証しし、ローマで鎖につながれたままでも福音を語り続け、やがてその福音に命をささげたのです。
それが主イエスに負債を返そうと、その愛に答えようと、パウロがささげた最高の主へのささげもの。
そのために彼は生まれ、そのために彼は生きたのです。
最高の主へのささげもの、そのために私達は新しく生まれたのです。
あなたはどのように主を愛しますか?
その与えられた新しい命をもって。

【創世記18:17-33】
18:17 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。
18:18 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。
18:19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。
18:20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、
18:21 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
18:22 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
18:24 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
18:25 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
18:26 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
18:27 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
18:28 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
18:29 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
18:30 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
18:31 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
18:32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
18:33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。

主を知らない民が、知らないがゆえに、いや知らないと言えども主を退け主の思いに逆らい、罪を重ね続け、その重なる罪のあまりの大きさ(酷さ)のため、滅びに至ろうとしているのを見た時、私達は何をすべきでしょうか。
そこに自らの家族が居るとするならば、どうでしょうか。
これがアブラハムがこの時置かれていた状況です。
そして今私達の置かれている状況はどうなのでしょうか。

【ユダ7節】
1:7ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。

この国の罪深き状況はすでにソドムとゴモラと同様であり、さらにそれ以上の罪を重ねようとさえしている姿を見て、神はこの国をこのままで放置されることはないでしょう。
刻一刻と自らの選択で滅びに向かう国に、私達も住まいまた家族や大切な人々がそこに生きている。

【マタイ】
26:52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。

だからこそ、主はこの国の滅びの日が遠くないことをあなたに教えられていないでしょうか?
アブラハムは祝福を受ける者として、また主の正義と公道が彼を通して現されるために、主に立てられた者であり(創世記18:17-19)、私達も救われてアブラハムの祝福にあずかる者となった以上、同様に主の正義と公道が私達を通して現されることを主は願っているでしょう。
つまり、アブラハムと同様に私達はこの国を主から与えられており、この国を主の正義と公道によって治める者としての責任を負っているのです。
だからこそ、主はご自身の計画を私達に隠されることはない。

【アモス3:7,8】
3:7 まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
3:8 ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。

だから、今なおさら主の前に、この国の滅びのために、私達はこのアブラハムのようにとりなす必要があるのです。
この国が神に立ち返るように。
アブラハムは何度も何度も主に食い下がり、とりなしを止めることなく、五十人の正しい人から始まり、たった十人の義人さえ居れば、主の裁きがとどめられるようにまで、引き下がることなく、あきらめることなく、とりなしました。
それは主の前に、なりふり構わない必死のとりなしであったと言えるでしょう。
おそらくは、ロトの家族だけで六人はいたのですから、ただあと四人の義人が居れば、ソドムとゴモラの土地は滅ぼされないで済むと、アブラハムはそこまでとりなした。
しかし、結果はその十人にさえ到底至らず、この裁きを免れ生き残ることができたのはロトとその二人の娘のたった三人でした。
ですから、主にとりなしを祈る時、自らのことのように主にとりなし、最後の一歩に至るまで予断をゆるさず、自らの命さえ投げ出して、とりなす必要があるのです。

【出エジプト】
32:32 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば--。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。

いや、このとりなしはそもそもは神ご自身の心なのです。だから主イエスご自身が命を十字架にささげ、究極のとりなしをなされた。
神は私達が滅びることを願ってなどいないのです。
むしろ罪から立ち返り、救われることを切望しておられるのです。

【エゼキエル】
33:11 あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。

主はこの滅びへの破れ口に立ちとりなす者を待っておられるのです。
そうです。主はご自身と心一つにして、自らのことをかえりみず、その命をささげとりなしの祈りを祈るのを。あなたの祈りを待っているのです。

【歴代志16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご 自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

あなたとあなたの大切な人々の住むこの国が、神の前に立ち返り滅びを免れるように共に祈ってまいりましょう。

御言葉に生きる

2016年11月07日
【詩篇119:111,112】
119:111 あなたのあかしはとこしえにわが嗣業です。まことに、そのあかしはわが心の喜びです。
119:112 わたしはあなたの定めを終りまで、とこしえに守ろうと心を傾けます。
詩篇119篇は御言葉について、ヘブル語のアルファベット順に並ぶ詩篇の集まりで、一つ一つの詩篇はそのアルファベットを最初の一文字とした、とても美しいヘブル文学の形式で語られています。
その中にある、「さとし」「戒め」「おきて」「定め」「知恵」「約束」「あかし」などの一言一言が御言葉を表す言葉であり、御言葉のあらゆる側面を知ることのできる詩篇です。
御言葉は主イエスそのものであり、私達の内に住まわれる聖霊(キリストの御霊)が御言葉を照らし出すとき、私達は主イエスご自身と交わるように親しく御言葉を知ることができる。
それが御言葉であり、この詩篇の中で作者があらゆる人生の場面において、この御言葉をいかに愛し、いかに深く交わり、いかにその人生を支えられ、導かれ、御言葉を生涯守って生きることがいかに幸いか、喜びなのかを、生き生きとした御言葉との交わりを通して語っているのです。
まさしく、それが生ける御言葉なる主イエスとの交わり。
【ヨハネ10:2-5】
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
聖書を読んでも最初はわからないことも多いでしょう。しかし、この御言葉との交わりをあきらめずに主が語りかけられることのみ、今心に響きわかることのみに静かに耳を傾けて行くのであれば、その意味はやがて理解することができます。
まさしく、羊は羊飼いの「声を知っているので」必ず少しずつでも聖書から主が語られる声を私達は聞くことができ、それに導かれて生涯を歩むことができる。「彼について行く」ことができるのです。
そのようにして私達は、律法主義的ではなく愛の関係において、この御言葉を守ることができるのです。
【イザヤ29:13】
29:13 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。
もしも、私達に主イエスとの交わりを抜きに聖書を守ることだけを、または聖書を、そのために知ることだけを目的とする、宗教的な生き方だけを信仰と言うのであれば、それは主から心離れ、形だけのものとなるでしょう。
主から心離れて御言葉を知ることはできませんから、人からの知識や学び、メッセージなどを通してしか主を知ることができない。
それでは、それが主イエスからの声なのか、別の者の声なのかを知る術はないでしょう。
聖書の御言葉のみが偽ることのない真理ですから、この声を聞かずして、羊飼いの声を聞き分けているということはできないのです。
ましてや聖書を読まずに信仰生活を送ろうとすることなど、なおさら同様のことが言えます。
【2テモテ4:3,4】
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
終わりの日に向けパウロがテモテに書いた警告は、今主の御言葉との直接的な深い交わりを避けて歩む者達に、強く語られています。
つまりその警告は、まことの羊飼いではない者の声を聞き分け、滅びに惑わす道から立ち戻り、私達のために命をも捨てる真の羊飼いの声のみを聞き、導かれて歩むよう勧めているのです。
【ヨハネ10:10,11】
10:10 わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
さあ、今日も聖書を開け、あなたに語りかける主の愛をしっかり受け取りましょう。
この御言葉があなたの生涯を支え、最良の歩みへと導くのですから。

聖霊のバプテスマ

2016年10月28日
【使徒行伝19:1-6】
19:1 アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、
19:2 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
19:3 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。
19:4 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。
19:5 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。
19:6 そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。
「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか(19:2)」
この質問はとても単刀直入に感じます。
しかし、だからこそこの質問の内容がとても重要なことであることがわかります。
聖霊のバプテスマを受けることをパウロがいかに重要なこととして捉えていたのかはその後の質問と、行動によって知ることができます。
その質問のやりとりは、誰の名によりバプテスマを受けたのかという言葉が続き、その違いを明確化するものでした。
つまりバプテスマのヨハネが授けたのは水により悔い改めのバプテスマを授けたのですが、主イエスの名により、水の洗礼を受ける必要があった。
それは意味が全く異なるバプテスマであったからなのです。
【ローマ】
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
この主イエスの名によるバプテスマとは、同じ水のバプテスマですが、主イエスキリストの死とよみがえりにあずかるバプテスマであるということがわかります。
つまり主により新しい命を授けられ、これまでとは異なる命(これまでの命とは生来の命であり、すでに死につけられている)により生きる、全く新しい者として生まれたことを現すものです。
しかし、パウロはそれだけにとどまらず、さらに彼らの上に手を置いて、結果彼らは聖霊のバプテスマを受けました。
パウロがそのような行動をとった理由は、バプテスマのヨハネ自身が語った言葉の中に明らかにされています。
【ルカ3:16】
「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」
バプテスマのヨハネは、主イエスについて証しをすると同時に、バプテスマのヨハネ自身が授けているバプテスマ(水)と、主イエスが授けるバプテスマ(聖霊と火)の性格が根底的に全く違うということを語っています。
そして、それは人によっては決して授けることのできない、神によらなければ授けることのできない性格の、ありえないバプテスマを語っているのです。
だからこそ、このバプテスマは天的なものであり、特殊で重要なものであることがわかるのです。
主イエスは天に上って行かれる直前にこのバプテスマの重要性を語りました。
【ルカ24:45-49】
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。
24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
【使徒行伝1:8】
1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
ここにこの聖霊のバプテスマを受ける者は天(上)から力を授けられるとあります。
この力は『デュナミス』という言葉であり、ダイナマイトの語源にもなった、爆発的な力を意味する言葉です。
つまり、天的な(神的な)絶大なる力を授けられるものそれが聖霊のバプテスマであり、その力により私達を地の果てにまで主イエスの証人とするものなのです。
いや、だからこそ、初代教会の兄弟姉妹が爆発的に世界宣教へと拡大していく力を与えられていたことは使徒行伝の記述を見れば明白なことでしょう。
またこの「証人」とは殉教者の意味を含む言葉でもありますので、自らの命をも顧みないということでもあります。
が言い換えるなら、自らの命よりもはるかに価値のあるもの、天の御国とその御座に居られる王なる方、主イエスという永遠に最も価値あるものを見させる力が私達の内に働くということがよくわかるのです。
【使徒行伝7:54-60】
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
7:58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
パウロはこのステパノの死にゆく様を恐らく間近で見た者であったでしょう。そのステパノに主イエスが十字架の上で言われた言葉と同様の言葉を言わしめた力を。
天の御国を見た者が、喜びに満ちて神に命をささげる様を彼は間近で見たはずです。
いやそればかりでなく、後にクリスチャンの熱心な迫害者となったパウロは、多くのクリスチャンを迫害する中で、神から注がれた証人としてのこの絶大な力を、最も近く目の当たりにし続けたことでしょう。
だから、この聖霊のバプテスマを受ける重要性を最もよく知っていた。いや自分自身が後にこの著しい力に押し出されて宣教し続けたのです。
だからこそ彼は、今日の聖書の箇所で最初に彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか(19:2)」と尋ねたのです。
今この聖霊のバプテスマということが教義の分裂ということだけでタブー視されがちです。
しかし聖書にはこの聖霊のバプテスマは現代の時代には存在しなくなったとか、著しい聖霊の働きは今は見られないといったようなことは、聖書のどこを探しても語られていません。
確かに全ての霊の働きが神からのものとは限りませんから、よく吟味する必要はありますが、しかし全ての霊的に著しい働きが悪霊からのものということは神にゆるされていません。
【マタイ12:31,32】
12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
12:32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
むしろ、聖霊のバプテスマを受け、さらに聖霊に満たされ続ける歩みの重要性の方がはるかに多く聖書には語られているのです。
聖書に語られている御言葉はそのまま信じるに価します。いやそこからしか、神を知り神に近づく道は存在しないのです。
むしろ終わりの時代主が再びこの地に来られる時に、主への信仰がなくなっていくことを「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか(ルカ18:8)」と、主は気にかけられているのです。
ですから、私達は今一度この聖書に書かれている御言葉を、そのまま信じるという立場に立ちましょう。
そして、主イエスがこの地を去られ天に上られる時、私達に託した主の願い大宣教命令と共に、そのために「上から力を授けられる(ルカ24:49)」よう主が語られた御言葉をそのまま受け止めたいと思います。
さあ共に、主のご計画が地になり、この地を、この国を、主が勝ち取られるために、大いなる主の絶大なる力が注がれる必要があることを主に訴えましょう。
主より聖霊のバプテスマ、上よりの力を授けられるよう、共に祈ろうではありませんか。

心砕かれる

2016年10月20日
【詩篇34:18】
34:18 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。
私達の性質は根本が高慢です。
全てが神により与えられたもの、全てを成したのは主であるのに、私達はそれを自分の何かのように、主の栄光を自らのものとして誇ります。
自分の経験、知識、力、信仰、自分の何ものかで成し遂げた、あるいはその何ものかがあるからこそ、今日をまた毎日を生きることができると考える。
残念なことに私達はそれに全く気づきません。私達は毎日自然にそのように生きている。
私達は人としての成り立ちの根本を忘れ、神に背中を向けて、自らを誇り、自らの力により生きていると勘違いして生きている、それが私達の姿です。
忘れてしまっているのです。知らないのです。
自分が一被造物に過ぎず、塵のような存在であり、創造主である神に生かされて生きているということを。
自分が自然に神を必要としないで、だからこそ神に背中を向けて生きているのだということを。
聖書にあるヨブという人物は、神が誇るほどに義人でありました。彼は自分の信仰により、罪を犯さないように生き、その正しい行いのゆえに神はサタンに彼の義人であることを「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか(ヨブ1:8)」と誇りました。
ですから、彼は子供たちも、持ち物も、自分の健康でさえ失い、全てを失ってても、「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった(ヨブ2:10)」のです。
彼は行いに於いても、言葉に於いても正しかった。
しかし、彼は彼を見舞いに訪ねた友人に罪を犯したからこの苦しみにあったかのように責められ苦しみます。そして苦しんだからこそヨブは、その言い分に於いて自らを正しい(義)として語り続け、神よりも自らを正しいかのように主張し、神に罪を犯すのです。
【ヨブ33:9-11】
33:9 あなたは言う、『わたしはいさぎよく、とがはない。わたしは清く、不義はない。
33:10 見よ、彼はわたしを攻める口実を見つけ、わたしを自分の敵とみなし、
33:11 わたしの足をかせにはめ、わたしのすべての行いに目をとめられる』と。
しかし、彼の全ての行いも、全ての信仰を守ることができる生活を与えられていたのも、その生きる全てのことが、その毎日一刻一秒が神により与えられたもので生きていたことを、むしろ神に与えられないで生きれるものなど何もなかったことを、神ご自身がヨブの前に現れ、そのことを現されるのです(ヨブ38-41章)。
そうです。私が何を自ら誇って生きていたのかを知る。
神ご自身が私達に臨まれ、私の全てが神の前に光の内に全てさらされたなら、私達はひとかけらも自らの何ものかによって生きてきたなどと言うことはできないほど、全ての全てが神によって与えられていたことを知るでしょう。
神はどれほど私達を愛してやまないのでしょうか。
さらに神の前に自らが義人として生きてきたことが、神の義によるものであったことを知るでしょう。
つまり、神よりも正しいと自らを主張するほどに罪深い(神よりも自らを誇り、神に敵対するサタンの性質に満ちた)私達を、その罪をも、神は主イエスの贖いによって赦され、永遠に滅ぶべき私達の命を救われた。
その十字架の代価がなければ、私達は、その罪のゆえに、永遠に滅びなければならない存在でしかなかったことを知るでしょう(ヨブ33:19-30)。
だから、その信仰でさえ神から与えられたものであることを知る。
私の中に生きるキリストが持つ信仰が、内から働く聖霊により働くからこそ、日々信仰が保たれているということを知るでしょう。
【1ペテロ1:3】
1:3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。
だから、全てが主から与えられていなければ私達には何もないのです。
この方がいなければ、私達は一秒たりとも生きることができないのです。
私達はそのことを忘れているから、みずからを、誇ることができるという、どこまでも愚かな罪深い生き物なのです。
それを知るためには、私達は主の前に砕かれなければならないかも知れません。
積み重ねた罪が高く、自らを高く誇らせるなら、私達は主の前に砕かれなければならないでしょう。
でなければ、私達はどこまでも自らを高くして神に対立するサタンと同じ運命をたどり、永遠に滅びる存在となるしかない。
けれども、打ち砕かれ、自分自身が本来の塵に過ぎない存在であることを、心砕かれ知った者に主は近づくことができる(罪は神を遠ざけるため)のです。
だから、たましいが悔いくずおれて初めて、主は私達を救うことができるのです。
それでも、主に自らを主張する自分がどこかにいるでしょうか。
主のあわれみにすがりましょう。
主が私を造り変えてくださるように

主が居られる

2016年10月19日
【創世記】
28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
私達はともすると、主がこの場所に、自分のすぐそばに居られるのに、気づかないときがあります。
私達自身の現状や問題、目に見える現実が厳しければ、なおさらそうでしょう。
心は不安で覆われ、自分の考え得る方法で、いかに現状から脱出するか、最善の問題打開策は何かと考えあぐねる。
そのとき、不安に心と共に、信仰も覆われ、信仰を働かすことができなくなる。だから、愛する主でさえ見えなくなってしまうときがあるのでしょう。
【マルコ6:48-51】
6:48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
6:49 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。
6:51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。
自分の力ではどうにもできない現実を前に、心静めて、もう一度、頼るべき方は誰なのかを思い出してください。
そこにこそ主が居られる。
私達が寄る辺ないときこそ、主がそばに居られ、
私達の力が尽きるときこそ、主の御業が現れるときなのです。
そこに十字架にかかられた主イエスが、天から地にかけられた梯子となられ、居られるのがわかるでしょう。
それは天が開かれ、天と地がつながり、私の地上のすべての悩みを超えて、私が主の御側に引き上げられ、天の御座のすぐ近く、主と直接天の御国にある交わりに入れられる、天の祝福が地上に溢れる瞬間。
【創世記28:12】
28:12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
【ヨハネ1:51】
1:51 「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
そして、私の死につける全てのものが、主の十字架にあって、よみがえりに、勝利に飲み込まれる瞬間。
【1コリント15:55】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
そうです。そこに、よみがえりの主が溢れる愛をもって両手を広げ、あなたのすぐそばで、あなたを恵もうと、待ちかまえて居られるのを、あなたは知るでしょう。
だから、現実に目を閉じ、いや主への信仰によって目を開き、霊の目をさましてください。
ここからが主の働かれるとき、主との至高の交わりを知るときです。

【マタイ12:1-8】
12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
12:2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
12:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
12:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
12:6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主である」。
「安息日の主」はイエスキリストです。
ですから礼拝の中心、礼拝の主はイエスキリストです。同様に教会の主はイエスキリストです。
全ての信仰の中心も、そして私達の全ての全てに於いて、私達の主はイエスキリストです。
それは当たり前のことのようですが、この主イエスキリストは今生きておられる主なのであり、この方は私達の作り上げた信仰の形式や、蓄積した知識や経験、つまりは宗教としてのキリスト教の中に、生きている方ではありません。
私達の狭い知識や経験、その中で狭められた人の心の中に、命を失い、閉じこめられる方ではありません。
今まさに全世界の主権者として、主として生きておられる方です。
そして、この方への愛と、この方から向けられている多くの隣人への愛。律法の中心はここに集約されています。
【マタイ22:37-40】
22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
このように今生きておられる主との「愛によって働く信仰(ガラテヤ5:6)」によって、私達の毎日は生きたものとなるのです。これが、御霊に導かれ(ガラテヤ5:16-18)、キリストの律法(1コリント9:21)を生きる私達の歩みです。
そこには主との愛による命の交わりが存在しています。
これが人間の作り上げた命の失われた信仰と、主との愛によって生きて働く信仰の違いです。
この違いを主は 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない(マタイ12:7)』と語っています。
いけにえをささげることは当時の礼拝においても中心的内容であり、それが信仰の中心であったということができます。
しかしそれはここではただ形式だけのものとなっていることがわかります。
なぜなら、主のあわれみ、主の愛が今どこに注がれているのかという、主との愛に基づく交わり、「愛によって働く信仰」が消え失せていたからです。
このパリサイ人は主の愛を知らず、形式だけの命のない(実のない)、神の心から離れた信仰により、律法の解釈とそれを厳守することだけに心奪われていました。
だから、罪のない者(空腹で困っていた弟子達)への主のあわれみを理解できず、彼らを罪にとがめたのです。
【マタイ15:7-9】
15:7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
15:8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。
そしてそのことは安息日の主であるイエスキリストが目の前にいたのに、つまりは「人の子」として来る預言され待ち望んできた救い主(ダニエル7:13)が目の前に生きて立たれ、自分と語っているのに、気づかないという致命的なミスを犯してしまうのです。
このことは今の私達にも言えることです。
私達は今生きておられる主に本当に気づいているでしょうか?
この方との愛の交わりの中に本当に生きているでしょうか?
本当に今生きておられるイエスキリストをあなたの人生の全てにおける主として、受け入れているでしょうか?
誰かの信仰、誰かの知恵、教会の信仰、信仰者の常識と言われているもの、それらに心奪われて、今生きておられる主との信仰によって生きることを退けてはいないでしょうか?
今神は何をあわれみ、何に愛を注ごうとされているのか、もう一度、生きておられる主との関係の中で、知る必要があるのではないでしょうか?
主よ。あなたは何を思い、何を望んでおられますか?
私がどのように生きることをあなたは喜ばれますか?
愛する主よ。あなたの心と私の心を一つとしてください。あなたの願いこそが私の生きるべき道なのですから。
【歴代志16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご 自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです

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