聖書箇所: ヨハネ16:33

主に近づきたいと願う者にとって、神に最も近い場所とは、私達が望む場所とは少し違うかもしれません。
それは命を懸けて主に近づく場所であり、またこの地に於いては、誰も見向きもしないような、見捨てられたような低い場所かもしれません。
まさに主が十字架にかかられた場所。
しかし、それは同時に私達を、罪から、世から、サタンから、そして自分自身から解き放つ場所であり、主が私たちを通してご自身の栄光を現すために私達を導く場所であるのです。
確かに私達にはその神の御思いを理解できないかも知れません。はるかに人の理解を超えた道のりを、主の御言葉のみを信じて、その約束のみを握りしめて、見えない道を見えるように、細い主の御声を聞こえるように歩むことかも知れません。
しかし、それこそが信仰によってのみ歩むことのできる主と共に歩む道なのです。
あるいは私達の罪深き生まれながらの性質は、罪を握りしめ、それを主が除き去るときには、私達は苦しみ悲しみの叫びを上げるかも知れませんが、その後には死を経るからこそ現れるよみがえりの内に、私達は主の真の平安の中に生きる者となり、そこにこそ栄光に輝く神の御国が顕現するのです。
まさにそこで私達は主の十字架を経験し、主の愛をさらに深く知ります。さらにはそのことによって主を愛する愛を成熟させ、この愛によって働く信仰をもって、この地に於いて主の最も親しき者として、主と共にこの地を、この生涯を歩んで行くのです。
主は主を選んで苦しむ者を軽しめられません。
その苦しみを何一つ捨て置かず、この苦しみの中で主は親しく臨み、全てに勝利された完全なる勝利者として、栄光と共に私達にご自身を現されるでしょう。
今回はまさに私達に語られる力強くもやさしき慰めの主の御言葉に、心から感謝して耳を傾けていきたいと思います。

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【出エジプト20:4-6】
20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それにひれ伏
してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

人の生来の性質は偶像を求めます。
まさしくこの偶像というものは非常にやっかいなもので、主がモーセに授けた十戒と言われる律法の中の一つが今日の御言葉になるのですが、この御言葉を与えられ、律法を守ることをイスラエルは誓ったすぐ後に、彼らは金の子牛という偶像を作り、神ならぬ神に祭壇を作り、供え物をささげ、崇めてしまうのです。
彼らはこの偶像に「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である(出エジプト32:4)」とさえ言っています。
しかし彼らは明確に「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです(出エジプト32:1)」と、天地万物を創造された、人の手によって造ることなど到底できようはずのない栄光の神を、自らのために造れと、ありえない冒涜を犯し、「 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたので(ローマ1:23)」す。
私達に造れる神に一体何の意味が有るのでしょうか。
「10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
10:20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。(1コリント10:19,20)」とあるように、自らの手で造った神という名のいかなる偶像も、それは何の意味もないものであり、それを崇めることは悪霊どもにひざをかがめ、悪霊の仲間となる、サタンを崇め、サタンと契約を結ぶ行為に他なりません。何と恐ろしいことでしょうか。
しかし、人はその結果がどれほど恐ろしいものであるのかを知らずに、この恐ろしい行為を当たり前に犯してしまうのです。
サタンの仲間となった者の行く末は、神に敵対する者であり、その結果は当然永遠の滅びなのです。それは神に選ばれた民であっても同様。
神ならぬ神に仕え、神に敵対する者となる以上、その定めから逃れうることはできません。

偶像が作り出されるのは、人間が自らの欲望をかなえる都合のいい神を造り上げようというところから発生するものであることが、このイスラエルの反逆からよくわかると思います。
ですから、いかなる人の貪欲も、「貪欲は偶像礼拝にほかならない(コロサイ3:5)」のです。
この世と言われる場所はこの貪欲が生み出す偶像礼拝に満ちた場所です。
それは神を退け、自らの欲望を満たすことを何の躊躇もすることなく、むしろ自分のために、自分の力で生きる者を賞賛さえされる場所であるからです。
この数限りない偶像に、世(サタン)は巧妙にクリスチャンのひざをかがめさせようとします。
それはサタンの甘い誘惑を伴うものですが、私達はここに明確な決別を宣言しなければなりません。

【ルカ4:5-8】
4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
4:8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

主イエスがこの世に公に姿を現され宣教の働きを始められるとき、サタンはこのように主イエスを誘惑しましたが、私達も主イエスに遣わされている世というものに一歩でも足を踏み入れるのであれば、主イエスの答えられたサタンに対する宣言を常にその内側に携えていなければなりません。
でないなら、人は容易にその誘惑に惹かれ偶像の元に姦淫を行い、サタンとの契約を結び、二度と戻ることのない永遠の滅びに落とされてしまうからです。

【民数記25:1-3,9】
25:1 イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めた。
25:2 その娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだ。
25:3 イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがったので、主はイスラエルにむかって怒りを発せられた。
 [中略]
25:9 しかし、その疫病で死んだ者は二万四千人であった。

このような世の戦いにどれほど多くの兄弟姉妹が飲み込まれ、本来与えられている命を失っていることでしょうか。
クリスチャン自らが自分の貪欲を制することができず、自ら作り出した偶像(自らの都合のいい恵みを与えてくれる都合のいい神やそこに導く数々の教え)に捕らえられる状況ですから、そこに聖別無くして、どうして世に立ち向かうことなどできるでしょうか。
しかし、時代は刻一刻と反キリストを迎える準備を整え、この反キリストにひざをかがめよと社会が要求するときが近づいているのです。
時代は信仰を失うか、信仰を守るため命をささげるかを問うほどに厳しさを増していく、それがこれから私達が向かおうとしている未来の姿です。
ですから、今ここに主にある信仰をしっかり持つ必要があるのです。

【ダニエル3:14-18】
3:14 ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。
3:15 あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。
3:16 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。

私達は今生きている社会においてでさえ、信仰に於いて妥協を要求されることがあるでしょう。
しかし、今社会常識という言葉や、生活のため、立場のためと、神に背く一抹の罪を責められる気持ちを持ちながらも理由をつけ、巧妙な言い訳を通して、信仰を譲る者は反キリストの登場を待たずして、日々サタンに近づき、かけがえのない永遠の命を明け渡し続ける者となるのです。

【ルカ9:23-26】
9:23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。

今日あなたはどのような面持ちで社会(世)に出て行かれるでしょうか?
しかし、一歩そこを出るとき、あなたは神を選ぶか、自分を選ぶかという選択肢の中に足を踏み入れます。
そしてその選択はあなたを滅びに導く偶像の元に引き出すか、栄光の神の絶大なる祝福の元に導くかを明確に分ける選択肢です。

そのとき私達は、信頼する主に私達の全てをゆだねつつも、私達のいのちを主にささげて、世に、サタンに宣言する必要があります。
「3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません(ダニエル3:17,18)」

【使徒行伝7:28-43,51-53】
7:38 この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使や先祖たちと共に、荒野における集会にいて、生ける御言葉を授かり、それをあなたがたに伝えたのである。
7:39 ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて、
7:40 『わたしたちを導いてくれる神々を造って下さい。わたしたちをエジプトの地から導いてきたあのモーセがどうなったのか、わかりませんから』とアロンに言った。
7:41 そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。
7:42 そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。預言者の書にこう書いてあるとおりである、『イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。
7:43 あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。
 [中略]
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。

この神に逆らい金の子牛の偶像を作り、エジプト(世の型)に帰ろうとしたのは、神の選びの民とされたイスラエルでした。
それは神を知らない者達ではなかったのです。
さらに民に誤り導かれてその先頭に立ち、率先してこの偶像礼拝にイスラエルを導いたのは大祭司アロンでした。
信仰においては、モーセに次いで指導者中の指導者であるアロンがこれを行ったのです。
まさにこの時こそ、神がイスラエルの民を愛し、この律法に従えばあなたは神の宝の民となると言われる神の言葉を、モーセが神から授かっている真っ直中にいる時でした。この律法を元に、イスラエルは一つの民として、選民として歩みを始めるところだったのです。
しかし、この金の子牛を神とした時からイスラエルの民の神への背信が始まったわけです。つまり初めからイスラエルの民は神に逆らうところから歩みを始めてしまった。
だからこそ、「イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。
あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。(使徒行伝7:42,43)」と、預言をもって主から厳しい指摘を受けているのであり、その結果として「だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう(使徒行伝7:43)」と警告されているのです。

そして、この同様の警告を今度はそのはるか後の時代、ステパノを通して、イスラエルの民に、神が語られた。
この言葉を聞いていたのは「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々など(使徒行伝6:9)であり、「その上、民衆や長老たちや律法学者たちを煽動し、彼を襲って捕えさせ、議会にひっぱってこさせた。(使徒行伝6:12)」とあるように、イスラエルの中心的指導者がここにまた含まれていました。
この議会の席でステパノが聖霊によって語ったのが、今日語られている警告だったのです。

これは今の時代に全く関係のないことでしょうか?
使徒行伝の時代から大幅に時が過ぎた今のクリスチャンには全く語られていないことでしょうか?
いいえ、私達こそ、この内側に聖霊をいただいている者であり、聖霊の語りかけは常に私達に与えられているのであり、だからこそ、この言葉、使徒行伝7:51-53から目を背けてはならないのです。
そして、今の時代にもまた語られているのです。
あなたがたはまた聖霊に逆らい、主の思いを退け、自らの生活のみに心を使い、自らの満足のためにのみ神への信仰を語り、主の御言葉を無にしようというのかと。
もしも私達が主の御心を背けて、自らのことばかりに心奪われ、エジプトに帰ろうと心を使い、またエジプトに帰してくれる、自らの生活を満足させくれる金の子牛たる神を掲げて、聖霊の語りかけを退け、預言者の言葉を退け続けるのであれば、私達は再び預言者たるイエスを十字架に追いやるのであり、「6:4 いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、
6:5 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
6:6 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能(ヘブル6:4-6)」となるのです。
そこに待つのは、「だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう(使徒行伝7:43)」となることでしょう。

これは冗談や喩えで語られていることではありません。
この国の国民をやがて外国の民々が引いていく。日本の国がこの外国の民に占拠される日というのも、今の日本の抱えている問題の未来像の中に見え隠れしています。
どのような未来が待つのかは、歴史の全てを司られる神に選ばれた民であり、この地上においてこの神の祭司とされた私達クリスチャンがいかに神に向き合うのかに関わっているのです。
多くのクリスチャンは今日明日のことを考え、語り、今日と同じように未来がやってくるであろうと高を括って、自らの都合のよい計画を自らの満足のために立てます。それは教会や教団、クリスチャンの全体の集まりにおいてもこれまで延々と変わることはありませんでした。
だとするならば、クリスチャンはかつてパウロが嘆いたように、この国においては、「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない(ピリピ2:21)」と主に嘆かれても仕方ないのです。
しかし、神が私達をこの地に置かれた目的は「1:5 わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、
1:6 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。(黙示録1:5,6)」とあり、「5:9 あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
5:10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」とあるように、キリストと共に神の御心のままにこの地を統べ治めるためなのです。
そしてそのために、私達は救われ、天に国籍を持つ者(ピリピ3:20)でありながら、この地上に遣わされているのです。
なぜ主に選びの民として選ばれたのか、この本来の目的を私達が見失うのであれば、それはイスラエルが神の選民としての目的を失い、救い主イエスを自らの手で十字架にかけたのと同様に、私達も再び来られる主に逆らい、人の目にわかりやすく救世主に見える、私達の生活を満足させてくれる反キリストに従い、神の選びから自ら退けられた者になるということなのです。
これは恐ろしいことですが、現実にはすでに始まっていることなのです。
なぜなら、私達は変わらぬ信仰生活を送り、変わらぬ恵まれた日常を送るための言葉以外、つまりは私達が私達のためだけに生きることを語る言葉以外、受け入れることがすでにできなくなってきているからです。
それはすでに聖書に預言されていることに他なりません。

【2テモテ3:1-5,4:3-4】
3:1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
3:2 その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
3:3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
3:4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
3:5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。
 [中略]
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

【1コリント10:5-12】
10:5 しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
10:6 これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。
10:7 だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
10:8 また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
10:9 また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。
10:10 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
10:11 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。
10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

【ユダ1:16-19】
1:16 彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。
1:17 愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。
1:18 彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。
1:19 彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。

もしも今の時代にあなたの思うままに生きさせてくれるあなたのための神が出てきたら、あなたはそれに従うでしょうか?
そのように目に見えてあなたに都合良く恵まれる神に導く指導者を、あなたは容易に神から来た者として受け入れ、従って行きはしないでしょうか?
それがかつての金の子牛であり、終わりの日の反キリストなのです。
誰が神のためにのみ生きることを願い、神の御心に真剣に耳を傾けるでしょうか?
この国が、イスラエルが崩壊した時と同様に、滅びの警告を受け、まさにその現実が目に見える形で刻一刻と目の前に迫っているのに、どうしてこの滅びからこの国を救い出そうとする神の御心のために生きることを放棄していられるでしょうか?
ここに必要なのはこの国の破れ口に立つとりなしの祈りであり、語られるべき福音なのです。
神の知恵が無き者がどうして、この国を滅びから救い出すように導くことができるでしょうか。
祈り無くして、どうして誤り続ける人に、神のあわれみ深き全能の知恵が授けられるでしょうか。
福音が語り出されること無くして、どうして日常的にソドムとゴモラのような罪の中に生きるこの国にあって、ツロとシドンのような道を歩み続けるこの国にあって、滅びから一人でも救い出されることがありましょうか。
あなたの人生は今この時神に従うこと無くして、どうしてこの国の滅びから自分一人免れることができるでしょうか。

【エステル4:13,14】
4:13 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。
4:14 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。

だから、愛する兄弟姉妹。共に祈りましょう。あなたが神の御心を受け取り、この国の滅びをとどめる一人となるために。

主のみを愛し

2017年04月23日
聖書箇所: 創世記45:5-11

主イエスはその十字架の死と復活により、世(の全てのもの)に勝利しました。
この事実に立って私達は生きているでしょうか。
主のこの愛をちゃんと受け取っているでしょうか。まただからこそ神を愛する者として生きる歩みを続けているでしょうか。
もしも主にあって生きるのであれば、確かに勝利を得る人生を生きるでしょう。
しかしこの主が勝利したはずの世にあって私達が生きるのであれば、私達の人生は悩みの中に、つまりは敗北の中に生きることとなります。
主を愛し主にあって生きるか。世を愛し世にあって生きるのか。
確かに聖書は終わりの時には、神から離れ、自らを愛し自らの欲望に身を任せ、世に戻ろうと望む者達が、神に救われた者でありながら現れるようになると語っています。
けれども同時に世に生きるということは、その骨折りと悩みの中にあっという間に過ぎ去る虚しい人生を歩むこと意味するとも語っているのです。
ですから私達はこの中に戻りゆく者として生きるのではなく、むしろ神の愛によってこの世から神に聖め別かたれた者として、この世の永遠に滅び行く人々のためにモーセのように、「おのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください【詩篇90:12】」と神にとりなし祈る者となる必要があるのです。
私達が神を愛し、神の御心を自らの心として生きることは確かに主イエスキリストの十字架の御足の跡をたどる、それは痛みを伴う、自らの思いにとっては決して歩みたくない道を歩むかも知れません。
しかし、自らの生きる死ぬことを越えて主を愛することこそ、主の十字架によって全てを死につけ、よみがえりにあって全てを主の元に勝ち取るものとなるでしょう。
主は私達の国を、ご自身の神の都の現れとして回復される時を望んでおられます。
その時、神を心から愛する者は、この地を、この国を、神と共に治める者となるでしょう。
神を愛しそのように命をかけて神に近づく者は誰か?
主は主のみを愛する者を、今もっとも望んでおられます。神の御心をこの国に成すために。
主の愛に答える信仰の歩みとは如何なるものか、今回は主のこの国への御心に答える者となるべく、御声に耳を傾けていきたいと思います。

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聖書箇所:ルカ24:5,6

主が私達の内に住まわれる。この永遠の命として、私達にご自身を与えられた、永遠の恵みの尊さを、もしも私達が本当に知ることができたら、私達のクリスチャンとしての歩みは全く変わるに違いありません。
私達は主から天の御国をこの地に顕すために、この地に遣わされた。言い換えるなら新しい命を天から授かったのです。
まさにこの永遠の命を授けた主イエスは、今天の御座に居られて、私達を通してあらゆる所に来られ、私達を通してこの地を治め、私達を通して神の御国をこの地に顕そうとしておられます。
そのことこそ、主が私達の内に来られた理由。
そしてその全ては十字架の死から始められるのです。
多くの人はこの死について、つまりは自らの命を主にささげる道について、その苦しみの十字架の御足の跡をたどることを恐れて避けようとします。
しかし、死を経なければよみがえりはなく、主に自らの全てをささげることなくしては主の栄光は現れません。
主は私達の内に王として来られます。
この王こそ、十字架に私達の死をつけ、よみがえられて、天より来られ、勝利の主としてこの地に来られる方。
私達の戦いがいかに激しくとも、この王は私達の内に十字架の死と共に来られ、よみがえり勝利の王として来られ、やがて全地を統べ治める方として私達を通して全地を治められるために来られるのです。
私達がこの方の名を呼ぶ時、そこにこの方は来続けるのです。
そして、この方が全てを勝利の内に、よみがえりの内に、飲み込まれます。
どうしてこの世の如何なるものに恐れることがあるでしょうか。
私達は死にすら恐れる必要なく、この勝利に、このよみがえりに入れられた者なのです。
あなたは、まだ自らの生きるための道を、やがて朽ち死にゆく世の中にさまよい求めるでしょうか。まだすでに死んだ自らの力や自らの持ちうるものの中に、探り求めるでしょうか。
しかし、それらはすでに死んだのです。
その死の満ちる墓の中には何もありません。主はよみがえられたのです。
あなたがもしもこの王と共に歩むことを求め、この方があなたの中に来られることを心から呼び求めるなら、この勝利の王はあなたを通して、勝利の内に全地を勝ち取り、統べ治められるでしょう。
あなたはよみがえりの勝利の内に生きていますか?
この恵みを心から受け取るために、主の御言葉に耳を傾けて参りましょう。

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聖書箇所: 使徒行伝17:1-15

パウロの伝道は、決して人の知恵や知識から来る表層的な言葉によるものではありませんでした。
そこにはまさに生ける神の現れとして福音が語られ、この神の現れを阻止せんと、サタンも迫害をもって迫ってくる。神とサタンの支配と権威をめぐる壮絶な戦いがそこに繰り広げられました。
やがてそれは、神の圧倒的勝利という、爆発的な神の霊の勢いを、敵ですら認めざるを得ないという、人知を超えた形で現されたのです。
パウロのこの戦いは、福音を語られ、受け入れ、新しく生まれた教会にも及びました。
しかしこの戦いが激しければ激しいほど、彼らは意気消沈するのではなく、むしろ生きる神の現れを望み、祈り叫び続け、彼らはその度に、やがて来るべき神の来臨を、自分達の中に現れる神の勝利という中で、見続けたのです。
そこには、神の確かな臨在と、神の国の内にある神との永遠の交わり、その祈りと、賛美と、礼拝が現され、神を知らぬ者達でさえ、その中に浸され出たくないと願うほどに、そこに神は生きて居られたのです。
今私達はこの生きた神が内に住まう永遠の神殿とされています。
そして、この神殿は滅ぶべき罪の深まるこの地に建てられているのです。
私達、神殿の中心には、神の心と目そのものが向けられ、主イエスご自身がその中でとりなしておられるのです。滅ぶべきこの国が、この地が救われることを。
そして、この私達こそ、この来るべき方主イエスを、この地に来てくださいと、この地を救ってくださいと、呼ぶことのゆるされた特権を持つ者なのです。
あなたが呼べば、主はこの地に来臨され続けます。そしてそのことが、主の再臨を、つまりは神の永遠のご計画を一日も早め進める祈りとなるのです。
生きた神が来たる真の教会の姿について、主の熱望を私達も主から聞こうではありませんか。

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新しく生きる

2017年04月02日
聖書箇所: ヨブ27:1-6、ヨブ33:19-28

人はどれほど正しい人であっても、その根底は罪にのろわれ、自らによっては義とされることのない者です。
だから、主はご自身の御子を私達にその贖いとして与え、一方的に恵みを注いでくださいました。
そうです。私達には一切よらない、私達には一切できない、これはまさに神からの一方的な恵みなのです。
そしてこの恵みは、私達を死から新しい命へとよみがえらせ、この新しい命の故に私達を全く新しい者へと造り変えてくださいました。
その姿は私達の理解をはるかに超え、驚くべき神の栄光に包まれた姿。
その真実の姿を、どうして人は想像し得ましょうか。
しかし、主はご自身のよみがえりの命により与えられたことの真の価値を今私達に教えようとされています。
まさに主の復活を祝う復活祭を控えたこの時に、私達に与えられた十字架の死とよみがえりの驚くべき恵みについて、今一度共に分かち合いたいと思います。

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