王の統治の到来

2017年05月28日
聖書箇所: 列王記下11:4-12

主は今私達に、ご自身が語られ続けてきた約束の時が来たと言われます。
主は、それまでご自身を、そして主に従う主の小さな群をご自身の御腕の中に隠し、時が来るのを待たれていた。それは主のご計画を担うにふさわしく精錬され、神の霊的な戦いの中においても屈することなく立ち、王がその全地を勝ち取られる時に、共に勝ち取り、統べ治める者となるための備えの時。
だからこそ、今主はこの隠された計画を、主ご自身が王座に着座されるそのところから始められます。
その計画を主にあって聞くことをゆるされた者は幸いであると語られます。
そして、主の御言葉を退け続け、自らの(サタンの)欲望を満たそうと、偽りの言葉に耳を傾け続けた者達を、退けられる。主の言葉を語り続けた者達を、退け続けた、その責任をこの時代が問われると。
主はサタンに仕える者、大淫婦と化した者達、神に逆らい敵対し戦う者達を打ち砕き、ご自身の回復をこの地に現すと言われます。
その行程はまさに千年王国において主がこの地に来られ、ご自身の統治により全地を、全世界を回復される時と同じもの。
リバイバルはそのように、やがて主がこの地に来られ、全地を治めることを、あらゆる時代、あらゆる地域の人々、国々に知らしめるため、ご自身の臨在と共に、教会を通してやって来ます。
主はそのことを、そしてその統治がいかに麗しいものであるかを、完全なるものであるかを、聖書を通して私達に語られています。
まず王が着座され、主の宮が回復し、国の統治が回復し、全地が全的に神によって回復する。
主は唯一の王、唯一の神となり、大祭司となって、この地をそしてこの国を、ご自身の主権によって、最善の形で、最も正しく治められる。
さらに恐れ多いことに、その時主はこれまで主に誠実に仕え続けた者達を、ご自身と共にこの地を治める者とするというのです。
各々の召し、賜物に応じて、主はこの全地を治めさせると。
あなたはその準備ができているでしょうか?
主の計画が成される時が来た。
今回は主のこの地に対する力強いリバイバルの宣言を、これまで待ち望んで来たその喜びと感謝と共に、全身全霊で受け取ろうではありませんか。

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聖書箇所: イザヤ55:11、エペソ5:5

今、主はまさに私達の真中に、真の勝利者として、王としてのご自身の姿をもって立たれています。
それは再臨の王として、白馬に乗りやがて来られる、主の主、王の王たる姿です。主は天の万軍を率いて、そう、全地を統べ治めるために来られる王は、今まさに私達の真中に居られるのです。
それは私達がこの世(サタン)の支配にあった古き自分を、全て十字架につけ、この勝利の凱旋に、天の万軍の内に、この地を主と共に勝ち取る者として、共に治める者として、天に国籍を持つ聖徒として、全く新しくされた者として歩むために、すでに主は私達の直中に来られているのです。
そして、主は私達にこの地を勝ち取れ。それはあなたの前にある。この地を共に治めようと語りかけておられるのです。
そうです。神の計画はあまりにも壮大です。確かに人の理解を常に超えています。だからと言って、それは神の言葉に逆らう理由とはなりません。
神の永遠に変わることのない言葉を偽りとすることは、神と人との関係を破壊し、また神の計画を偽りとするのですから、そのことは私達自身を神の言葉の前に滅ぼす結果を招くでしょう。
私達は神の大能の御手がそこにあっても、また私達の全ての行く道を満たし得る神がそこにいても、偽りを信じて歩むのであれば、そこは祝福の代わりにのろいの満ちる道を、滅びに向かって歩む他はありません。
残念ながら世は偽りの父たるサタンの支配する世界です。
そこには一つの神の真理はなく、それに聞くのであれば、必ず神に従う者ではなく、神に敵対するものとなります。
「自らの業を神が除こうとする。破壊しようとする。」と叫び、神の教会の麗しい交わりをも破壊しようとする者ともなるでしょう。
またその全く反対に、「主の語られた言葉は全て真実である。全て成就する変わらない御言葉である。」と告白し歩める人は何と幸いでしょう。
その人は必ず成るこの事実を目撃する者、その栄光を見て、神をたたえる者となるからです。
ですから、私達は偽りの父(サタン)が私達の心の内に撒く偽りの言葉に心を向け、それを真実としてはならないのです。
神は最初から私達をそのように天と地を繋ぐ者として、天にある神の御国を、この地に顕現する者として私達を召し集められた。それが主の教会なのです。
神はまさしくこの事実を、天地万物を創造された「言葉」をもって私達に語りかけています。
その言葉を受け入れる者は「光よあれ」と言われたように、その人のうちに神の命の光が解き放たれます。その光に闇は決して勝つことはできません。
だから今神の言葉を受け入れ、偽りの闇から目を覚まして欲しいのです。
神の言葉は必ず成ります。
たとえ神の道を選んだからこそ、多くのものが失われたように、破壊されてしまったように、あなたが嘆いていても、神はご自身の計画を成す時、その御業の内に、私達の失われた全てを元に戻します。
自分の思いが、全ての計画が、自らが大切に握り続けていたものが、神の栄光を現すため全て砕かれたのだとしても、主は栄光の計画の内に、全てを幾倍にも報いてくださる主なのです。
だから恐れないで。心配しないで。
神の計画が成る。主ご自身がそれを成される。この栄光の神の言葉に、安心して私達をゆだね、献げて行こうではありませんか。

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偽りとの訣別

2017年05月14日
聖書箇所: エゼキエル21:6,7

主はご自身と心を一つとする者を見て、ご自身の御力を現し、御業を成し遂げます。
主イエスがこの地を歩まれた時、まさにそのようにご自身の思いを退け、父なる神の望まれることを行い、そして語られ、決してご自身から成したことは何一つありませんでした。
だからこそ、主イエスのこの地での歩みは神の栄光の現れに満ちていたのです。
これがまさに人の子の歩み、主が示された私達のこの地に於ける、神の似姿に造られた人としての歩むべき姿なのです。
逆に言うのであればここに、自らの思いに従うことを私達の歩みとするところに、偽りは始まります。
それははるかエデンの園でサタンに入れられた偽りであり、自らの中にある偽りによって、私達はその思いの内に悪魔の欲望通りを行い、神に敵対し、真理を退け、偽りに立つ者となるのです。
私達の内には神を喜ばすことはなく、真理もなく、神に敵対する思いしか存在しないのです。
これは私達を決して喜ばす言葉ではありません。
そしてこの世の賢さ、麗しさ、良さを何一つ持っていません。
しかし、この世にある自らを喜ばせ自らのために良いと思われる全てのものは、これを手に取り、自らのものしようとする時、それらは私達をサタンの奴隷とするためのものとなることを聖書はっきりと語っているのです。
その偽りに心奪われる時、真理からそして神から私達の心は離れ、心はサタンの虜とされているのです。
しかし、真理は語っています。主はそのような私達をキリストの十字架の勝利の内に、サタンの支配から移して、キリストの支配の下に置き、さらには主の統治の到来、勝利の凱旋の内に私達を加え、サタンの支配を打ち砕かれたのだと。
私達はすでに、主を頭とするキリストの御体として、全地をまた万物を主と共に統べ治める者とされていたのだと。
まさにこの統治の内に神の御国は私達の内に来たり、またそこに永遠の礼拝が到来する神の教会がその中心に存在するのです。
まさに主は私達をそのような者として、この地に置いてくださいました。
だからこそ、私達はいつまでもサタンの偽りを私達の内に残しておいてはならないのです。
サタンに騙されてはならないのです。
さあ、私達は罪に生きるサタンの偽りから遠く離れ去り、神に近づき神のものとして生きる、真のクリスチャン(キリストのもの)としての歩みを、共に歩んでいこうではありませんか。

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聖書箇所: 1ヨハネ1:3,4

神はそのご自身との永遠の交わりを、ご自身の命によって買い取られた者達、つまり教会(神の宮)の中に永遠に共有するという、人智をはるかに超えた恵みを与えてくださいました。
永遠にささげ続けられる礼拝の中へ、永遠の礼拝者としての人生の中へ。
もしも私達が、この神とのそして兄弟姉妹との交わりを共有することがなければ、目に見えない神を見続け、人のはるかに理解を超えた神の御心を真剣に求め、またその召しを担い続けて歩むことはできないでしょう。
絶えることのない互いのとりなしの祈り、分かち合われる信仰の証し、受け継がれる信仰、導かれる信仰者としての歩み方。
もしも私達が一人のみで立とうとするなら、どれほど強く優れ賢い信仰者であったとしても、その歩みの中に道を踏み外し、罪の誘惑に妥協をゆるし、偽りに心奪われ続けても知ることもなく、やがては何もできないままその生涯を終えることとなるでしょう。
孤独では何もできない。
なぜなら、神はご自身の教会の中に、この永遠の交わりを据えたからなのです。
神はこの永遠の教会という共同体をさまざまな時代のさまざま場所に顕現させ、この永遠の命の交わりが全地を覆い、命にあって全地が治められることを願われました。
である以上、神はこの永遠から永遠に存在する共同体である教会が、罪により汚され、あるいはその罪のパン種に喩えられる勢いをもって罪に満たされてしまうことを、どれほど悲しまれ、またどれほど忌み嫌われることでしょうか。
この交わりは、世との姦淫により著しく破壊されます。
サタンの支配下である世に、サタンの性質(罪の性質・肉)をもって生きることを、世は日常の常識的生き方として認識しますが、神の教会が同様に世に戻る生き方を望むなら、その行き着く先は自らを大淫婦との姦淫に導き、キリストの花嫁を大淫婦の姿へと変容させるものとなるのです。
主は人の目に隠れたダビデの姦淫をも見つめ、その罪を鋭く指摘されました。
今私達はこの神から与えられたかけがえのない永遠の交わりに生きるために、ひとかけらをも妥協することなく、神の光の中に照らし出される自らの罪を悔い改めようではありませんか。
やがて本当に神と顔と顔とを合わせて永遠に交わり続けるその日のために。

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