聖書箇所: サムエル下6:20-23
私達の救いは、私達が普段見過ごしてしまえば当たり前のことのように思えてしまいますが、神の計画から見るのであれば、これはとてつもない奇跡です。
まさに私達は本来の選びの民(イスラエルの民)でない、何一つ神から何かを受けるような地位も身分もないものでした。
神からいただけるようなものなど何一つ存在しない者、今でも実際に神の選びの民であるイスラエルの民には、私達がそのような者として映ることでしょう。
しかし、神の深遠なる計画は私達を、新しく生まれさせ、新しく造られた者として、霊に於いて、神の子とし、選びの民としてくださいました。
それはひとえに私達に何かがあったからではなく、ただ神のあわれみによるもの。
神の選びの民イスラエルが、主の愛の本質を知り、もしも本来の選びの民としての使命である、主イエスを救い主として受け入れることができたのであれば、このようなことは起こることはありませんでした。
しかし、彼らは自らの選びの民としての特権に、愛をもって答えることを忘れ、あたかも義務であるかのように、律法を自らの知恵と力で守ることにのみ没頭し、神の御心を退け、愛をもって救いを携えて地に降られた主イエスを十字架につけてしまいました。
そしてそのことにより、私達、選びの民とはなり得ない異邦人が、神の選びに入れられたのです。
しかしこれこそ、神の憐れみを、憐れまれるはずのない民が神から受けることによって、救い主を退けてしまった選びの民に救い主の愛を知らしめ、再び神に憐れまれるという神の深遠なる計画によるものでした。
異邦人に救いが満ちるまで、私達異邦人の教会は霊に於いての選びの民として、キリストの花嫁の先駆けとしての特権を受けるという、驚くべき恵みを受けているのです。
それは異邦人の時から、イスラエルの救いの時へと時代が移り変わる、つまりは大患難という時代に受ける、携挙という、天に携え挙げられた私達が空中で花婿と出会い、そこで婚姻するというもの。その時私達はこの方の愛と、この方自身の麗しさに、驚嘆するでしょう。
溢れる愛は私達を花婿との新居に向かわせ、主イエスと深い愛の交わり、天の新居である天の神殿での礼拝に入れられるのです。
私達はこのことに喜びを覚えているでしょうか?
このことを心から主への愛をもって、待ち望んでいるでしょうか?
私達に注がれている花婿イエスの愛を、先駆けとして独り占めにする特権を私達は本当に知っているでしょうか?
この花婿は私達と住まう新居を用意するため、天に昇られたのです。
主は私達に対する愛の熱心により、その家を、神の神殿を今天に於いて用意している、この時に私達はどのような心でこの地を過ごすべきでしょうか?
ただ冷めた心で、花婿の思いを退け、自らへの愛に心傾け、地に世に心奪われ、自らは豊かだというでしょうか?
神が私達に与えようとされる圧倒的な相続、キリストの豊かさ、無尽蔵の富を失い生きることが、如何に虚しいことかをこそ、私達は知るべきであるのです。
もしもこの愛すべき方の愛に身を委ね、この地に於いてこの方を深く愛し、この方と今は天と地に於いて隔てられていることに飢え渇き、深く思い焦がれるなら、愛はキリストへと私達を一つとし、天にまで携え挙げる引力として、全てを超えて働くでしょう。私達は地に居ながら、至聖所に入り、天にまで挙げられて主の御座近くに、永遠の安らぎを、キリストと十字架の上で一つとされた完全なる愛の内に得るのです。
その時、私達は自らをキリストを永遠にお入れする神の神殿として、主の造られる新居を地に於いて建て上げていくでしょう。
主の家は天から地から、主イエスと私達の間の愛の交わりの中で建て上げられ備えられていくのです。
ああ、何ともどかしくも、麗しい、心の奥底から愛をもって、花婿が来られるのを待ち望むことの素晴らしさ。
私達はこのように地に於いて、天に生きるように、御国を地に顕現する者として、生きることができるのです。
キリストを愛することの特権をあなたは本当に知っているでしょうか。
それこそが、この地で生きることの価値、意味、豊かさ。
今回はこの私達に与えられている愛の特権について、共に分かち合いたいと思います。
共に主の深い愛の内に身をゆだねて参りましょう。
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私達の救いは、私達が普段見過ごしてしまえば当たり前のことのように思えてしまいますが、神の計画から見るのであれば、これはとてつもない奇跡です。
まさに私達は本来の選びの民(イスラエルの民)でない、何一つ神から何かを受けるような地位も身分もないものでした。
神からいただけるようなものなど何一つ存在しない者、今でも実際に神の選びの民であるイスラエルの民には、私達がそのような者として映ることでしょう。
しかし、神の深遠なる計画は私達を、新しく生まれさせ、新しく造られた者として、霊に於いて、神の子とし、選びの民としてくださいました。
それはひとえに私達に何かがあったからではなく、ただ神のあわれみによるもの。
神の選びの民イスラエルが、主の愛の本質を知り、もしも本来の選びの民としての使命である、主イエスを救い主として受け入れることができたのであれば、このようなことは起こることはありませんでした。
しかし、彼らは自らの選びの民としての特権に、愛をもって答えることを忘れ、あたかも義務であるかのように、律法を自らの知恵と力で守ることにのみ没頭し、神の御心を退け、愛をもって救いを携えて地に降られた主イエスを十字架につけてしまいました。
そしてそのことにより、私達、選びの民とはなり得ない異邦人が、神の選びに入れられたのです。
しかしこれこそ、神の憐れみを、憐れまれるはずのない民が神から受けることによって、救い主を退けてしまった選びの民に救い主の愛を知らしめ、再び神に憐れまれるという神の深遠なる計画によるものでした。
異邦人に救いが満ちるまで、私達異邦人の教会は霊に於いての選びの民として、キリストの花嫁の先駆けとしての特権を受けるという、驚くべき恵みを受けているのです。
それは異邦人の時から、イスラエルの救いの時へと時代が移り変わる、つまりは大患難という時代に受ける、携挙という、天に携え挙げられた私達が空中で花婿と出会い、そこで婚姻するというもの。その時私達はこの方の愛と、この方自身の麗しさに、驚嘆するでしょう。
溢れる愛は私達を花婿との新居に向かわせ、主イエスと深い愛の交わり、天の新居である天の神殿での礼拝に入れられるのです。
私達はこのことに喜びを覚えているでしょうか?
このことを心から主への愛をもって、待ち望んでいるでしょうか?
私達に注がれている花婿イエスの愛を、先駆けとして独り占めにする特権を私達は本当に知っているでしょうか?
この花婿は私達と住まう新居を用意するため、天に昇られたのです。
主は私達に対する愛の熱心により、その家を、神の神殿を今天に於いて用意している、この時に私達はどのような心でこの地を過ごすべきでしょうか?
ただ冷めた心で、花婿の思いを退け、自らへの愛に心傾け、地に世に心奪われ、自らは豊かだというでしょうか?
神が私達に与えようとされる圧倒的な相続、キリストの豊かさ、無尽蔵の富を失い生きることが、如何に虚しいことかをこそ、私達は知るべきであるのです。
もしもこの愛すべき方の愛に身を委ね、この地に於いてこの方を深く愛し、この方と今は天と地に於いて隔てられていることに飢え渇き、深く思い焦がれるなら、愛はキリストへと私達を一つとし、天にまで携え挙げる引力として、全てを超えて働くでしょう。私達は地に居ながら、至聖所に入り、天にまで挙げられて主の御座近くに、永遠の安らぎを、キリストと十字架の上で一つとされた完全なる愛の内に得るのです。
その時、私達は自らをキリストを永遠にお入れする神の神殿として、主の造られる新居を地に於いて建て上げていくでしょう。
主の家は天から地から、主イエスと私達の間の愛の交わりの中で建て上げられ備えられていくのです。
ああ、何ともどかしくも、麗しい、心の奥底から愛をもって、花婿が来られるのを待ち望むことの素晴らしさ。
私達はこのように地に於いて、天に生きるように、御国を地に顕現する者として、生きることができるのです。
キリストを愛することの特権をあなたは本当に知っているでしょうか。
それこそが、この地で生きることの価値、意味、豊かさ。
今回はこの私達に与えられている愛の特権について、共に分かち合いたいと思います。
共に主の深い愛の内に身をゆだねて参りましょう。
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聖書箇所: 2テモテ4:1ー5
主がこの地に於いて語られた福音と言われてるものは、今私達が認識している福音と果たして一致しているものでしょうか。
私達がごく当たり前にそうに決まっていると結論づけることは、そう簡単にはできないでしょう。
なぜなら、主イエスが語られた福音こそは、神の国の福音であり、主はこの地の全ての者に、天国とは、神の国ではと、天から来られた主ご自身が見て来られたものを証しされ、語り続けられたものだからです。
それは今私達が、まだ神を知らない人々に語る、十字架の死とよみがえり、罪と裁き、そこからの救いと永遠の命を得ることという、クリスチャンになるための登竜門としての福音だけを意味するものではありません。
主は驚くべき事に全ての人を救わんがため、私達の何ものにもよらず、一方的にご自身の全てを注ぎ、私達はただこの全てを十字架の上で完成された主イエスを信じる信仰によってのみ義されるという、恵みを注がれました。
それは私達を、さらに神の子とし、その想像だにできない神の相続に預からせるためでした。
私達は決して神の子となることなどかなわない者であったのに、そのような相続など決して預かれようはずがない者であったのに、神は私達を神の御子の花嫁とすることにより、つまりは神の一方的な愛によって、このことにかなうものとされたのです。
このことは、主ご自身がこの地に私達を迎えに来られる携挙の時に、主と空中で結婚(婚姻)するということを通して私達に与えられます。
そして私達は主がご用意された新居である天の御国で、永遠の礼拝を全身全霊で主と交わりささげる中で、ハネムーンを送り、やがて大患難の最中の地に、オリーブ山に降り立つ主と共に、私達は栄光の内にこの地に再び臨み、千年の婚宴の喜びの中に、この地は飲み込まれるのです。
こうして私達は、この方に永遠に愛される中に、キリストの花嫁として、神の御子と共に、神の子とされて、神の絶大な相続を受け継ぐのです。
それは神ご自身の全てであり、神の栄光とその豊かさの満ち満ちる想像を絶するほどの麗しき神の御国そのものを受け継ぐのです。
どうして、この地上の朽ち果てるもの、この世の罪に汚れた死ののろいの満ちたものなどのために、この素晴らしきものを退ける必要があるでしょうか。
もしもそうするのであれば、それは誰でもそれを愚かと呼ぶでしょう。
むしろ、この地にある全て朽ち果て消えゆくものを捨て去り、私達に永遠に与えられている朽ちないものだけを求めるのであれば、私達は永遠の命に至り、天の御国のこの永遠の交わりの中に深い安息を得、神の驚くべき愛の中に、この天にあるものの全てが、キリストをよみがえらせた神の力によって、滅ぶべきこの地に、神の栄光として、神の御国の顕現として現れ、この地の全てを飲み込み、全ての死を飲み込み、全ての渇きを満たし、全てが勝利に飲み込まれるのです。
まさにこの地にある私達を責め悩ます全てのものがこの勝利の内に飲み込まれ、神の栄光のみがこの地を覆うのです。
もはやそれは私達の何ものにもよらず、力にも知恵にもよらず、神ご自身の現れとしてこの地に、私達を通して神の栄光が現されるのです。
そして、この聖書に全体に語られる神の永遠の希望、変わることのない良き知らせこそ、福音なのです。
もしも私達がこのことを知り、深く味わい、この中に生きるのであれば、私達はこの福音を、全ての人々に宣べ伝えないではいられないでしょう。
如何でしょうか。
だからこの御国の福音は主を知らない人々ばかりではなく、私達こそがこのことを知らなければならなず、ここに立ち返らなければならないことがわかるのではないでしょうか。
今主はこの福音によって全地に永遠の命を満たそうとしておられます。
だからこそ私達も、この福音を求めて、心から祈ろうではありませんか。
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主がこの地に於いて語られた福音と言われてるものは、今私達が認識している福音と果たして一致しているものでしょうか。
私達がごく当たり前にそうに決まっていると結論づけることは、そう簡単にはできないでしょう。
なぜなら、主イエスが語られた福音こそは、神の国の福音であり、主はこの地の全ての者に、天国とは、神の国ではと、天から来られた主ご自身が見て来られたものを証しされ、語り続けられたものだからです。
それは今私達が、まだ神を知らない人々に語る、十字架の死とよみがえり、罪と裁き、そこからの救いと永遠の命を得ることという、クリスチャンになるための登竜門としての福音だけを意味するものではありません。
主は驚くべき事に全ての人を救わんがため、私達の何ものにもよらず、一方的にご自身の全てを注ぎ、私達はただこの全てを十字架の上で完成された主イエスを信じる信仰によってのみ義されるという、恵みを注がれました。
それは私達を、さらに神の子とし、その想像だにできない神の相続に預からせるためでした。
私達は決して神の子となることなどかなわない者であったのに、そのような相続など決して預かれようはずがない者であったのに、神は私達を神の御子の花嫁とすることにより、つまりは神の一方的な愛によって、このことにかなうものとされたのです。
このことは、主ご自身がこの地に私達を迎えに来られる携挙の時に、主と空中で結婚(婚姻)するということを通して私達に与えられます。
そして私達は主がご用意された新居である天の御国で、永遠の礼拝を全身全霊で主と交わりささげる中で、ハネムーンを送り、やがて大患難の最中の地に、オリーブ山に降り立つ主と共に、私達は栄光の内にこの地に再び臨み、千年の婚宴の喜びの中に、この地は飲み込まれるのです。
こうして私達は、この方に永遠に愛される中に、キリストの花嫁として、神の御子と共に、神の子とされて、神の絶大な相続を受け継ぐのです。
それは神ご自身の全てであり、神の栄光とその豊かさの満ち満ちる想像を絶するほどの麗しき神の御国そのものを受け継ぐのです。
どうして、この地上の朽ち果てるもの、この世の罪に汚れた死ののろいの満ちたものなどのために、この素晴らしきものを退ける必要があるでしょうか。
もしもそうするのであれば、それは誰でもそれを愚かと呼ぶでしょう。
むしろ、この地にある全て朽ち果て消えゆくものを捨て去り、私達に永遠に与えられている朽ちないものだけを求めるのであれば、私達は永遠の命に至り、天の御国のこの永遠の交わりの中に深い安息を得、神の驚くべき愛の中に、この天にあるものの全てが、キリストをよみがえらせた神の力によって、滅ぶべきこの地に、神の栄光として、神の御国の顕現として現れ、この地の全てを飲み込み、全ての死を飲み込み、全ての渇きを満たし、全てが勝利に飲み込まれるのです。
まさにこの地にある私達を責め悩ます全てのものがこの勝利の内に飲み込まれ、神の栄光のみがこの地を覆うのです。
もはやそれは私達の何ものにもよらず、力にも知恵にもよらず、神ご自身の現れとしてこの地に、私達を通して神の栄光が現されるのです。
そして、この聖書に全体に語られる神の永遠の希望、変わることのない良き知らせこそ、福音なのです。
もしも私達がこのことを知り、深く味わい、この中に生きるのであれば、私達はこの福音を、全ての人々に宣べ伝えないではいられないでしょう。
如何でしょうか。
だからこの御国の福音は主を知らない人々ばかりではなく、私達こそがこのことを知らなければならなず、ここに立ち返らなければならないことがわかるのではないでしょうか。
今主はこの福音によって全地に永遠の命を満たそうとしておられます。
だからこそ私達も、この福音を求めて、心から祈ろうではありませんか。
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聖書箇所: ゼカリヤ8:1ー8
主は今リバイバルが如何にして、この地にやって来るのかということについて、聖句を通してリアルに教え示してくださいます。
まさに主がこの地に来られる再臨の預言を通して、この地に主が来られ全地を統べ治めることを、罪の満ち滅びに向かうこの地に、主ご自身が如何にご自身の主権によって、ご自身の霊によって、ご自身の力によって、成し遂げられるかについて、語られています。
それは主の宮の回復、永遠の礼拝の回復、永遠の都の回復、そして多くの人々がこの都に集められ、主の統治の内に入れられ、救いを得、永遠の命に至る姿。
これこそ、礼拝の真の姿であり、永遠の教会がこの地に顕現した姿です。
今主はこの真の主の宮、真の礼拝を、この地に求めており、またそれを求める聖徒達をこの地に求めておられるのです。
そして、これは永遠の神との交わりの完成としての神の国の顕現であり、またこれは人の知恵や力によっては決してここに至ることはできません。
まさにこのことは、永遠の神の国、天の交わりであるため、天のことは地上の人の知恵では見ることはかないません。
これを私達に知らせるのは、神の知恵と啓示によるものであり、主の霊によらなければ決して至らないのです。
これこそ、この地の全てのことを無価値と言わしめるキリストを知る知恵、永遠の宝のために、この地の財産を失おうともなお余りある、これを知ることこそが本当の価値ある人生を歩むこと、そしてこれこそが信仰であるのです。
私達がもしも神を渇き求め、神と永遠に共に住まう、永遠の交わりに飢え渇き、それが欲しいと神に心から願い求めるなら、主はご自身の御手の内、永遠の御国の内に私達を引き寄せてくださるでしょう。
そして、驚くべき事に、この神ご自身は、そしてこの永遠の神の国は、聖霊を通してすでに私達の内に与えられているのです。
だからこそ、今主はこのことを求め続けよ、捜し続けよ、叩き続けよと、私達を励まします。
我がために、そして愛する大切な人々のために、罪の中に救われるべきこの地の人々のために、神の豊かさをその恵みを求め続け、神の知恵を真理を捜し続け、神の御国の門を叩き続けるなら、神が必ず、与え、見出し、その戸は開かれるのです。
この地のリバイバルのために、そしてまず私達が神によってリバイバルするために、
さあ愛する兄弟姉妹、共に心から祈り求め続けようではありませんか。
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主は今リバイバルが如何にして、この地にやって来るのかということについて、聖句を通してリアルに教え示してくださいます。
まさに主がこの地に来られる再臨の預言を通して、この地に主が来られ全地を統べ治めることを、罪の満ち滅びに向かうこの地に、主ご自身が如何にご自身の主権によって、ご自身の霊によって、ご自身の力によって、成し遂げられるかについて、語られています。
それは主の宮の回復、永遠の礼拝の回復、永遠の都の回復、そして多くの人々がこの都に集められ、主の統治の内に入れられ、救いを得、永遠の命に至る姿。
これこそ、礼拝の真の姿であり、永遠の教会がこの地に顕現した姿です。
今主はこの真の主の宮、真の礼拝を、この地に求めており、またそれを求める聖徒達をこの地に求めておられるのです。
そして、これは永遠の神との交わりの完成としての神の国の顕現であり、またこれは人の知恵や力によっては決してここに至ることはできません。
まさにこのことは、永遠の神の国、天の交わりであるため、天のことは地上の人の知恵では見ることはかないません。
これを私達に知らせるのは、神の知恵と啓示によるものであり、主の霊によらなければ決して至らないのです。
これこそ、この地の全てのことを無価値と言わしめるキリストを知る知恵、永遠の宝のために、この地の財産を失おうともなお余りある、これを知ることこそが本当の価値ある人生を歩むこと、そしてこれこそが信仰であるのです。
私達がもしも神を渇き求め、神と永遠に共に住まう、永遠の交わりに飢え渇き、それが欲しいと神に心から願い求めるなら、主はご自身の御手の内、永遠の御国の内に私達を引き寄せてくださるでしょう。
そして、驚くべき事に、この神ご自身は、そしてこの永遠の神の国は、聖霊を通してすでに私達の内に与えられているのです。
だからこそ、今主はこのことを求め続けよ、捜し続けよ、叩き続けよと、私達を励まします。
我がために、そして愛する大切な人々のために、罪の中に救われるべきこの地の人々のために、神の豊かさをその恵みを求め続け、神の知恵を真理を捜し続け、神の御国の門を叩き続けるなら、神が必ず、与え、見出し、その戸は開かれるのです。
この地のリバイバルのために、そしてまず私達が神によってリバイバルするために、
さあ愛する兄弟姉妹、共に心から祈り求め続けようではありませんか。
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聖書箇所: 列王記下9:21-26
主イエスはご自身が神のロゴス(言葉)なる方です。この方が私達の中に幕屋を張られたことはまさに人には想像し得ない奇跡です。
だからこそ、主はいにしえからの預言の言葉基づきこの地に来られました。
主イエスの誕生の系図の中には、同時に人々の重ねた罪の姿も刻まれていますが、だからこそ神の御言葉は人の何ものにも揺るがされることなく変わることなく、ご自身の計画を成就するものであることを力強く証しします。
だからこそ、むしろ私達は偽りに自らの心を渡してはなりません。
私達の偽りの言葉の全ては神が知られており、やがて主の御前に私達はその言葉の申し開きをしなければならないからです。
その偽りの言葉が私達の口から上るその以前にすでに主は私達の心の奥底までも測り知り、悪しき思いを退け、神の御言葉を信ずる主への麗しい思いは永遠の思いとして記憶し喜ばれるのです。
私達はここに立って、一度(ひとたび)私達に語られた主からの召しの言葉に、つまりは主のご計画の一端を担うべく語りかけられた言葉と、そのために選びを受けた光栄を心に刻んで、主に従い歩み、永遠の御国へ続く道のりを大切に歩み行く必要があるのです。
主の言葉はあまりにも深淵で、そのご計画は人の想像をはるかに超えて壮大です。
1年や2年で成就することばかりではなく、何世代も超えて主の御言葉は成就し、それは完全なる形で成就します。
全てのことは一つの主の御言葉によって貫かれ何一つ矛盾することはありません。
つまりは、主が一度言葉を発せられるとそれは永遠にある神の御国において完成したものであり、その時天においては完全で不変な形でそれは存在しているのです。永遠の内に定められた神の言葉は決して虚しく返ることなく、必ずこの地上に成就するのです。
しかしこのことに人は一切関与できないのではありません。
恐るべきことに、祈りにおいて私達は、永遠の神の御手を動かすことをゆるされているのです。
そして、主はこのように私達に永遠の神のご計画に参画することがゆるされているのです。
召された神の言葉を私達がそのようなものとして、しっかりと握り主に従い歩み続けるなら、それは必ず成るのです。
いや、主は永遠の神の御国の中で「事は成就した(黙示録21:6)」と完成を宣言され、その契約の血は十字架の上で「完了した(ヨハネ19:30)」と宣言し、全ての神の約束は永遠の内に成就しているのです。
私達はこの神の御言葉と同等の言葉を、神の形にかたどられて造られた者として、授けられているのです。
ですから、私達は自分の考え、世の常識、サタンの誘惑などの、全ての偽りの言葉を退け、神の御言葉を握り、神の御言葉に生きる者となろうではありませんか。
今回は永遠に変わることなき神の言葉について、今一度深く主に語りかけていただきたいと思います。
https://archive.org/details/Message170205:別窓>メッセージダウンロード
主イエスはご自身が神のロゴス(言葉)なる方です。この方が私達の中に幕屋を張られたことはまさに人には想像し得ない奇跡です。
だからこそ、主はいにしえからの預言の言葉基づきこの地に来られました。
主イエスの誕生の系図の中には、同時に人々の重ねた罪の姿も刻まれていますが、だからこそ神の御言葉は人の何ものにも揺るがされることなく変わることなく、ご自身の計画を成就するものであることを力強く証しします。
だからこそ、むしろ私達は偽りに自らの心を渡してはなりません。
私達の偽りの言葉の全ては神が知られており、やがて主の御前に私達はその言葉の申し開きをしなければならないからです。
その偽りの言葉が私達の口から上るその以前にすでに主は私達の心の奥底までも測り知り、悪しき思いを退け、神の御言葉を信ずる主への麗しい思いは永遠の思いとして記憶し喜ばれるのです。
私達はここに立って、一度(ひとたび)私達に語られた主からの召しの言葉に、つまりは主のご計画の一端を担うべく語りかけられた言葉と、そのために選びを受けた光栄を心に刻んで、主に従い歩み、永遠の御国へ続く道のりを大切に歩み行く必要があるのです。
主の言葉はあまりにも深淵で、そのご計画は人の想像をはるかに超えて壮大です。
1年や2年で成就することばかりではなく、何世代も超えて主の御言葉は成就し、それは完全なる形で成就します。
全てのことは一つの主の御言葉によって貫かれ何一つ矛盾することはありません。
つまりは、主が一度言葉を発せられるとそれは永遠にある神の御国において完成したものであり、その時天においては完全で不変な形でそれは存在しているのです。永遠の内に定められた神の言葉は決して虚しく返ることなく、必ずこの地上に成就するのです。
しかしこのことに人は一切関与できないのではありません。
恐るべきことに、祈りにおいて私達は、永遠の神の御手を動かすことをゆるされているのです。
そして、主はこのように私達に永遠の神のご計画に参画することがゆるされているのです。
召された神の言葉を私達がそのようなものとして、しっかりと握り主に従い歩み続けるなら、それは必ず成るのです。
いや、主は永遠の神の御国の中で「事は成就した(黙示録21:6)」と完成を宣言され、その契約の血は十字架の上で「完了した(ヨハネ19:30)」と宣言し、全ての神の約束は永遠の内に成就しているのです。
私達はこの神の御言葉と同等の言葉を、神の形にかたどられて造られた者として、授けられているのです。
ですから、私達は自分の考え、世の常識、サタンの誘惑などの、全ての偽りの言葉を退け、神の御言葉を握り、神の御言葉に生きる者となろうではありませんか。
今回は永遠に変わることなき神の言葉について、今一度深く主に語りかけていただきたいと思います。