祈りの手を動かせ

2017年03月26日
聖書箇所: ヨナ2:7-9

私達は祈るということを、クリスチャンとしてのごく当たり前のことと考えているでしょうか。
まさに祈りはこの上ない永遠の恵みであり、またこの地を超えた、天における神との交わりの中に引き上げられ、入れられる、永遠の奥深さに私達を導くものです。
そしてこの交わりの中で私達は本来の自らの姿、主にある役割(召し)と言ったものを知り、また受け継ぐべき相続地を天に於いて受ける故に、地に於いても与えられ、この祈りにより勝ち取り、主と共にその地を治めるものであることを知るのです。
この神の子としての、そしてキリストの花嫁としての、神の国の王族としての、私達の特権をもって、いかに滅ぶべき地を主の元に勝ち取るのか。とりなすのか。
私の祈りが主の手を動かし、全地を揺るがし、全地を治める。
私達は本当にこの祈りの永遠の豊かさ、奥深さ、ダイナミックさを知っているでしょうか。
今回は主が私達に求めておられる生きた神との永遠の交わりとしての祈りについて、共に分かち合いたいと思います。

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福音を携えて

2017年03月19日
聖書箇所: 申命記10:1ー5

神は私達に神ご自身を証しする力を与えてくださいました。
それはこの地の如何なる知識によっても与えることのできない天来の神の御言葉そのものです。
まさに神の福音は私達のうちに、天から降られた聖霊によって、啓示され、神ご自身を現し、証しする言葉として、私達に与えられたもの。
この生きた神の言葉を内にいただき、イエスの血による贖いをうけ、この地を行き巡り、神ご自身の臨在を現す者、まさに神の契約の箱は、現在に於いて私達自身が担っているのです。
この聖霊が降り、神との和解を受けた今、私達は神の契約の箱を現す者となったと言えるのです。
しかし、これは私達には想像を超えた、驚くべき神の奇跡であるということができます。
もしも、本当に現代の社会にこの契約の箱が出現したら、世界はこれを中心に戦争を起こしかねません。
なぜなら、この箱にこそ、神の臨在があり、この天地万物を造られた全地を治める神の言葉が内にあるのですから、これを手に入れる者は、全世界を支配し、全地を手に入れることができる。
このことを知るかつての歴史の権力者は、この契約の箱を血眼で探しました。
全世界を支配するために。
同様の理由で聖書の中にも、あのヨルダン川をせき止めてイスラエルの民を渡らせた力の箱を手に入れようと、イスラエルを責め、シロの都の陥落と共に、神の箱を奪った民が居ましたが、神の箱の存在自体がこの異教の民を、神の義により、その臨在の聖の極みにより、裁きを下す元凶となりました。
何と驚くべきことに、私達は主イエスの愛を受け入れ、主の贖いによって一方的に救いを受けた者であり、自らの何ものにも因らず、しかし神の契約の箱であるのです。
全地を裁き、全世界を支配する爆発的な力を私達は与えられている者、そしてその存在そのものが神を証しし、全世界の民を神の御元に勝ち取る神の福音(御言葉)を内に持つ者なのです。
私達がもしもこの存在意義に真に気づくなら、全世界が、そして歴史が動くでしょう。
まさにこの地は、この国は、神を退け続け、自らの罪が熟して、滅びに向かうのみの未来が待っています。
そこに神は神の箱たる者を召して遣わした、それが私達です。
そのことを私達はどれほど自覚しているでしょうか?
神の、この地をご自身の元に勝ち取らんとする熱心を退けて、心冷め自らの安泰な生活だけに留まろうとする者。
あるいはむしろこの神の言葉に逆らい、自らの思いと欲求に、世に戻ろうと神に反逆する生き方をする者。
神はそのように神を退ける者に対しても、クリスチャンであったとしても寛容であるとは決して語っていません。
一つの神の真実は私達の全ての偽りを払拭します。
偽りの中、自らの存在をものろうほどに、苦難に閉じこめられ、自らの存在を見失い、神を見出すことを失っていないでしょうか。
私達は主イエスの十字架により新しく生まれ、天における証しを地において証しするイエスの証しを持つ者です。
このイエスの証しと小羊の血こそ、サタンの支配に完全に勝利する力、この力により私達教会はあらゆる時代、あらゆる地において、神の完全なる勝利を勝ち取るのです。
私達の存在に全地も、御使い達も、サタンも、震えおののくのです。
ですから、このイエスの証しを携えて、私達はこの地で何をすべきかもう一度神の前に考えるべきです。
この地の滅びを、命を捧げて止めようとされた、主イエスの熱心の前に、私達も主に答えようではありませんか。

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主の命による支配

2017年03月12日
聖書箇所: ローマ5:17

主の恵みはまさに一方的に主から注がれるものであり、である以上それを受け取るために私達に越えることの難しいハードルを強いることはありません。
もしもそれを難しいものとするものがあるとするのであれば、それは主の恵みを阻む私達自身であるということができるでしょう。
自らの力で生きることに慣れ親しむ、生まれついて肉の性質の中に生まれ生きている私達自身においては、神の恵みを妨げているのは、まさに自らの力で生きる故に神の御手に身をゆだねることのできない私自身である。私自身の肉こそが神への妨げであると言えるわけです。
しかし、神は私達に、ご自身の御座の元より流れる、私達を永遠に生かす命の川に飛び込むよう、溢れる恵みを注がれます。
この命の川こそ、聖書の始め創世記から、聖書の結論黙示録に至るまで、そして現在において主イエスが語られた内に住まう聖霊の恵みとして語るもの。
聖書を貫く永遠の命の流れは、「この川の流れる所では、すべてのものが生きている【エゼキエル47:9】」と語られもの、全地に向かい流れて行き、滅びるべき者をも生かし、大いなる川々となって神の国の中心を流れる川が全地を生かすため教会を通して、全地に溢れ出るのです。
そしてさらにはこの溢れる命によって、主は私達を通して全地を力強く支配される。
全ては十字架の元から始まり、王なる主はこの愛を基に、私達教会を通して命にあって全地を統べ治められるのです。
主はこのことを人の知恵や力ではなく、主の永遠に変わらぬ御言葉によって約束され、今も私達に、この命の川の流れるリバイバルの日が来たるべき時はすでに満ちていると力強く語られます。
まさに主の御手に飛び込むこと、そこに恵みの泉は溢れます。
主は私達にこの命の川の流れに全てを明け渡して飛び込むよう、招かれています。
今回はこのように永遠の命の元に私達を招かれる、主の約束の御言葉に、心より感謝して耳を傾けていきたいと思います。

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