【1ペテロ3:13-15】
3:13 そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか。
3:14 しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。
3:15 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。

万物を統べ治める方、全てのものの主はイエスキリストです。
全ての主権はこのイエスキリストにあります。
この事実は世界中のどこにおいてでも、いつでも、変わることはありません。
これは全ての歴史を貫き、世界中を貫いて変わらない事実なのです。
それはどの国に住み、誰が王であっても、誰に主権がある(この国日本においては国民に主権がある)と言われていても、その事実は変わりません。
しかし、この世は主権を人に与えます。
これは空中の権を持つ者の支配下(エペソ2:2)の元に与えられた統治と主権であり、この主権を主張する者はこの空中の権を持つ者の支配下に自らがあることを主張している(マタイ4:9)ことになります。
それがこの世と言われているものです。

【サムエル上2:1-10】
2:1 ハンナは祈って言った、「わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う、あなたの救によってわたしは楽しむからである。
2:2 主のように聖なるものはない、あなたのほかには、だれもない、われわれの神のような岩はない。
2:3 あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。
2:4 勇士の弓は折れ、弱き者は力を帯びる。
2:5 飽き足りた者は食のために雇われ、飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、多くの子をもつ女は孤独となる。
2:6 主は殺し、また生かし、陰府にくだし、また上げられる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くされる。
2:8 貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、王侯と共にすわらせ、栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、その柱の上に、世界をすえられたからである。
2:9 主はその聖徒たちの足を守られる、しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。
2:10 主と争うものは粉々に砕かれるであろう、主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、地のはてまでもさばき、王に力を与え、油そそがれた者の力を強くされるであろう」。

【ダニエル4:34,35】
4:34 こうしてその期間が満ちた後、われネブカデネザルは、目をあげて天を仰ぎ見ると、わたしの理性が自分に帰ったので、わたしはいと高き者をほめ、その永遠に生ける者をさんびし、かつあがめた。その主権は永遠の主権、その国は世々かぎりなく、
4:35 地に住む民はすべて無き者のように思われ、天の衆群にも、地に住む民にも、彼はその意のままに事を行われる。だれも彼の手をおさえて「あなたは何をするのか」と言いうる者はない。

主イエスを真の主権者として私達が認めるとき、この神の支配の中に私達は生きています。つまり、神の国の者としてあなたは生きていることになるのです。
「ただ、心の中でキリストを主とあがめ(1ペテロ3:15)」るとき、それがあなたの中に成るのです。
私達はあらゆるときに、神の国に生きる者として、神から出て神から遣わされた者として、この地において善を行うよう生かされています。
この世は神に敵対します。だからあなたの善に悪をもって報いられることも多々あるでしょう。
それは私達が世の者でないからであり、世の支配にある者は、私達がどのようであっても、神のものであるから敵対するのです。

【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

その時こそ、「ただ、心の中でキリストを主とあがめ(1ペテロ3:15)」ましょう。
そこに主の臨在が満ち始め、そこは神の支配の内に治められ、神の国がその場所に現れます。
あなたが遣わされたその場所はそのようにして神のものとして、神が勝ち取って下さるでしょう。
これは血肉による戦いではありません。
この戦いは王である方、万軍の主である方が戦われる主の戦いなのです。
そして、あなたの主は永遠に全地の主、イエスキリストなのです。
全ての現実は、全ての歴史は、万物は、この主イエスキリストの前に膝をかがめます。
この方に敵対する者は全て粉々に打ち砕かれます。
ただ、主を恐れ。ただ、心の中でキリストを主とあがめましょう。

※今日引用した箇所をまとめておきます。ご参照ください。
【エペソ2:1-2】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
【マタイ4:8-10】
4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。


栄光の主の花嫁よ

2016年11月27日
聖書箇所: 箴言31:10-31

主はこの国に来られる時、栄光の主としてこの地に来られます
その時初臨の時に主イエスご自身が、ご自身に対して語られているイザヤ書42章の御言葉を指して「この聖句は〜この日に成就した」と語られたように、私達の元に来られる主はこの聖句を私達の内にことごとく成就します。
それはまさに主の栄光の御業。
そしてこの栄光の主は私達の内に御心を成就しようと、王として私達の心の王座に着座し、全地をご自身の御心のままに統べ治められるのです。
「主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。【詩篇96:13】」
まさに全地はこの主の栄光と圧倒的臨在に鳴りどよめきます。
しかしもしもこの時、自らの栄光を求めて生きている者達は、この栄光の主を退けむしろ自らが主から退けられ、滅びへの道へと自らを追いやることとなるでしょう。
なぜなら私達自身が自らの栄光を求めるなら、それを打ち壊して飲み込み圧倒的に超越して現れる主の栄光は、自分にとって邪魔であり危険以外の何ものでもありません。だからこそ自らの栄光を求める者は、生きて働かれる主を退けようと、自ずと神に敵対してしまうからなのです。
この地に救い主として来られた主でさえ、ヘロデ王は自らの栄光を危ぶみ抹殺しようとし、また同様に自らの変わらぬ平穏な生活を求めてこの地のほとんどの人々も主の誕生を喜ばなかったように。
まさにサタンはこのように、人に自らの栄光を求めさせることにより、神の栄光を汚し、神から栄光を奪い、サタン自身のものとしようと、私達の心を利用するのです。そして私達を神に敵対するサタンの支配の元に置こうとします。
私達は主の栄光が現れようとしている今、自らの栄光を求め続けたが故、主の栄光を汚しすぎたことを心から悔い改めるべき時が来ているのです。
まさにこの国は豊かになり、自らの力と知恵によりそれらを得たと自ら神になったかのように自らの栄光を誇ってきましたが、その愚かさは今や自らが招いたのろいにより、滅びに瀕し、私達を囲み繰り返される災いは決してクリスチャンじゃなくても無視できない現状に至っています。
そしてクリスチャン自身もその世の豊かさの中で、自らの栄光を求めることを当然のこととし、主の御心を求めることを二の次として、主の栄光を汚し、この国の滅びをとどめる破れ口に立つことはなかったのです。
しかし主はここに、ご自身の十字架の贖いを現し、二度も三度もご自身を十字架につけるかの如く、ご自身の命をささげることでこの国を救おうとされています。
私達が神から栄光を奪い汚し続ける罪を、十字架にご自身をささげ贖うという形で、神はご自身の栄光を現し、栄光をご自身の元に取り返されます。それこそが十字架に現される神の栄光なのです。
この愛の中にこそ、神の栄光の本質、主は私達を愛すればこそ、ご自身の栄光を現されるのであり、ご自身の元にのみ栄光を置かれるのです。私達に栄光を渡すなら、それを嫉妬と欲望に汚し、争いと血にまみれ、繰り返される歴史が証明する如く、そしてクリスチャンまた教会でさえ堕落し腐敗して行くのです。
私達は今まで主の栄光のみを求め続けて歩んできたでしょうか。
主は今とてもあわれみ深く、主をお迎えするキリストの花嫁として、私達に主への絶えることのない愛をもって、主が来られる日に備え、神の家を、家族を建て上げる日々を過ごし、私達自身が主の喜びとなり栄光となるようやさしく語りかけておられます。
だから今この主を待ち望む待降節の時に、謹んでこの愛の満ちる主の御言葉に、耳を傾けていこうではありませんか。


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新しい歩み

2016年11月24日
【エペソ4:20-24】
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

ひとたび私達の内に「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになり、私達の心を照して(2コリント4:6)下さった聖霊は今も私達の内に住まい、私達の心を照らしてキリストにある真理のそのままを私達に直接語り続けて下さいます。
なぜなら、この聖霊こそ我が内に住まうキリストであり、この方こそ真理そのものであり(ヨハネ14:6)、この方の内に神にある知恵と知識のいっさいがあって(コロサイ2:3)、むしろそれ以外に私達は真理を知る術がなく、その聖霊によるからこそ、聖書から真理を知ることができ、語られたメッセージに心よりもさらに深く霊の内からアーメンと言うことができるのです。
そのように霊とまこと(真理、御言葉)によって私達は、この内に与えられた新しい命にふさわしい生き方に導かれるのです。

【ローマ6:4】
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

確かに私達は救われた当初、その救いの喜びの内に、これまで私達自身を捕らえる何かから解放され、何か新しくされたことへの希望を自然に感じていたことと思います。
これは私達がその時は何をも知らずとも、キリストにあって新生した感覚を聖霊が知っていたからでした。
この新生こそ、キリストと共に十字架につけられ私自身が死に、そのことにより古き人を脱ぎ捨て、主と共によみがえって、キリストにあって生きる、新しき人を着ることであり、それは私達の生き方そのものを根底から新しくするものです。
なぜなら私達はこの新しい命にあって生きるならば、私達のこれまでの、どのようにしても「情欲に迷って滅び行(エペソ4:22)」ってしまう生き方ではなく、その根底的性質ごと新たにされ、「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着る」生き方をするようになるからです。(義と聖とは神にしかない性質であり、神の性質そのものです。)
つまり、この新しい命、聖霊なる神の性質にあずかって生きる、私達は聖霊により全く新しい者とされるのです。

【2ペテロ1:3,4】
1:3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。
1:4 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。

私達自身が元の生活に戻ってしまうのであればそれは何も意味を成しません。
これまで自らの思いで生き、自らの力で、自らの知恵と経験と判断で生き、自らに導かれるまま、自らのために生きる生き方を、そのまま続けるのであればせっかく救われ新しい命にあずかったとしても、古き人としての生活があなたを救われる前の生き方へと導くでしょう。
逆に新しき人を着て生きるとは、この新しい命に導かれて、神に全てをゆだねて、神を信じて、神のために生きる生き方であり、それは私達自身の力や生来持ってものでは到底及ばない、神の命の持つ神の性質にふさわしい生き方をすることなのです。
これまでの生き方は、内に生きる命が完全に変わってしまっているので、全く通用しないのですから、思い切った心の変革が必要です。
だから、「心の深みまで新た(エペソ4:23)」にし、その根底から自らを新しくする歩みに立ちましょう。
新しく生まれた者は古い生き方は不必要なのです。その全てを捨て、これまでの私では全く知らない、新しい生き方を聖霊に導かれて生きていきましょう。
また、これまで古き人としての歩みを続けてきたのであれば、これまでの生活を省み、悔い改めて、十字架の元に再び新しき者とされて、今日から新しき人としての歩みを始めてまいりましょう。

【2コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

※今日の引用箇所です。ご参照下さい。
【2コリント4:6】
4:6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
【ヨハネ14:6】
14:6 わたしは道であり、真理であり、命である。
【コロサイ2:3】
2:3 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
【ヨハネ16:13-14】
16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
16:14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

【エペソ4:17-24】
4:17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
4:18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
4:19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
私達は「命(ヨハネ8:12)」を与える「まことの光(ヨハネ1:9)」である方が、「やみの中から光が照りいでよ(2コリント4:6)」と「わたしたちの心を照して(2コリント4:6)」、私達を、キリストを知る者としてくださいました。
神はこの方を信じた私達を「やみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ(使徒行伝26:18)」と「救い出し移して下さ(コロサイ1:13)」いました。
今や私達は「光の子(エペソ5:8)」とされているのです。
これが救いを受けた者、クリスチャンです。
しかし、それを逆戻りするように、「異邦人(エペソ4:17)」、つまりキリスト知らない者、信じない者のように「むなしい(何もない、命もない)心(エペソ4:17)」で生きるのであれば、私達はその光を失い、命を失い、死んだ者のように生きることとなります。
【ルカ11:34-36】
11:34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
11:35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。
私達の目が神から逸れ、「み言葉(詩篇119:105)」を離れる生き方を続けるのであれば、私達はその内なる命の光を覆い隠し、全身は希望なく、命なく、やみに覆われ、恐れに心覆われ虚しく、歩むべき道を掛け違えた歩みを続けていきます。
それは神の祝福から離れた道、神の支配を離れ、悪魔の支配の中を行く道。もと来た道を戻る道。
【エペソ2:1-3】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
さらに、恐ろしいことに、その時には「知力は暗くなり(エペソ4:18)」、内側には神の知恵を失って「無知(エペソ4:18)」となり、「心」は「硬化(エペソ4:18)」して、とうとう「無感覚(エペソ4:19)」になっていまう。
神から離れることを何とも思わず、罪を犯し続けても無感覚となってしまうのです。
こうなると、もはや神へ帰る道を忘れて、いつでも神へ帰れると思っていた道すらわからなくなってしまうのです。
私達の良心に働きかける聖霊を退け続けた結果、罪すらわからなくなっている者に、神に悔い改めて立ち返る道は遠く離れてしまっているのです。
【マルコ3:28,29】
3:28 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。
3:29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。
これは非常に恐ろしいことです。
それは神から離れていることも、悪魔の支配の元で人生の全てが何をしてものろわれたものとなっていても、神に立ち返るための悔い改めの道を見失ってしまっていても、その一切がわからないのです。
もはやその生活が「ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねてい(エペソ4:19)」ても、ごく普通に毎日を過ごしているようにしか思わない。
少しの良心の呵責もすでに神に立ち返らせるには力なく、いつか帰ればいいと神の永遠の裁きが自らに日々一刻一刻近づいていても、それがどれほど恐ろしいことかすらわからなくなっている。
もはやそれは救われる前より悪い状態なのです。
【2ペテロ2:20-22】
2:20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。
2:21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。
2:22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。
あなたの生活は今どうでしょうか。
私はまだ大丈夫と思っていませんか?
少しずつでも神から日々離れていく道を歩いていないでしょうか。
あるいはもう神から離れたあなたを、神がどれほど悲しみご自身の元に引き戻そうと切望されているのかさえも、もはやわからなくなってしまっているでしょうか。
「しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。(エペソ4:20)」と主は今はっきりとそのようなあなたに語りかけています。
【イザヤ55:6-9】
55:6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
55:7 悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。
55:8 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。
55:9 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
神に立ち返れる日は今だけかも知れません。
私達の命は私達自身の力でどうにもできないもの。私達の思いに関わらず、私達は明日の命をもわからない存在なのですから。
だから、「主にお会いすることのできるうちに」主の名を全力で呼び求め、主の元に引き戻してもらいましょう。
主の力は全能、その絶大なる力をもって、そしてご自分の命さえ惜しまずにあなたに与えて下さる神が、あなたを元の光の子としての場所に帰らせて下さいるでしょう。
※今日の聖書の引用箇所を参照できるようまとめました。一緒にご覧下さい。
【ヨハネ8:12】
8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
【ヨハネ1:9-13】
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
【2コリント4:6】
4:6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
【使徒行伝26:18】
26:18 それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。
【コロサイ1:13,14】
1:13 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。
1:14 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。
【エペソ5:8,9】
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさいー
5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものであるー
【詩篇119:105】
119:105 あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

聖書箇所: 箴言31:10-31

主がこの国を訪れる。まさに罪が熟し滅びに瀕しているこの地を救うため、再臨の時と同様、主ご自身が栄光をもって臨まれる。
主はリバイバルのご計画をもって、この国に主ご自身が来られるということを私達に語り続けてくださっています。
だから今主は私達に問われます。
私達がどのような心で主を迎えようとしているのかということを。
それは、かつてソロモンが王位に着いた時、ソロモンに敵対するか、ソロモンを王として喜んで迎えるか、そのソロモンと自分との関係で裁きが定められたのと同様に、主をどのように迎えるかということは、私達がこの後迎える結果を大きく異ならせるのです。
また、主の愛する兄弟姉妹に対して、私達がどのようであるのかということも同じように主は見ておられ、自らの欲望のために、互いにのろい、傷つけ、流した血の責任をも、主はこの時私達に問われるでしょう。
私達の戦いは血肉による戦いではありません。
サタンと神の支配という霊における戦いです。主はその戦いを誰かの血を流すのではなく、ご自身の血を流して愛の内に勝ち取ったのです。
また、パウロはその主の思いを持って、伝道の道のりを進んでいきましたが、自らの命をも進んでささげるべくエルサレムに向かった先で、彼は捕らえられ、以降全く異なる方法によって伝道の道を進むようになりました。
それは自らの力には全くよらず、神の力によってのみ進められる世界宣教の道でした。
それまでの命の危険を犯しながらではなく、ローマ兵に捕らえられるというマイナスの状況がむしろローマ兵によって命を守られるという神の守りの内に成し遂げられたのです。
そして裁判の席において、次々に時の権力者達に証しという形で宣教を行い、とうとう彼はカイザルの前にまで至ったのです。
主はご自身のこの霊的戦い、サタンとの支配の戦いをサマリアのリバイバルという形でご自身の勝利を現しました。
しかし主イエスがその時サマリアの女に何をしていたのか誰も弟子達にはわからなかったように、この霊の戦いとそこに注がれている神の救霊の思いは霊の目を開いて見るのでなければ、理解できないのです。
そしてただ一人の魂を真に神の元に獲得したことから、神のこの戦いはサマリア全体へのリバイバルとして、神の圧倒的勝利の内に波のごとく拡大していったのです。
霊の戦いは主ご自身の戦いです。
ダビデがサウルの手から逃れ王となり勝利を得るその戦いは、まさにその詩篇に語られている通り、主ご自身の戦いであり、そのような戦いが天の内に引き上げられ、その御手の内に如何に平安に安らいだ中での天的戦いであるかということを表しています。
主は今まさに私達の元に来られる時、私達が真にキリストの花嫁として、成熟した愛を持ち、夫に誠実に仕え、また神の家族達を支え建て上げ、主がこの地を治めるのを共に支える者として、主を喜ばせる者となって迎えることを望んでおられます。
主をどのような心で迎える者となるか、今回はそのようなテーマで主は語られます。主の御言葉に信仰によって霊の目を開き、心から耳を傾けていきたいと思います。


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生きた励まし

2016年11月18日
【2テモテ4:5-8】
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
4:6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
4:7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
4:8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
この言葉は、主を一身に見つめ信仰の道を歩んだ先人パウロから、まだ若い牧者テモテに宛てた手紙の言葉です。
信仰者として、伝道者として、いかに歩むべきかを二度の手紙の中に、励まし、勧め、証しし、そしてここで自らの最後を感じて語りかけている言葉です。
それは彼がどのように歩んできたのかを現す言葉でもありました。
【ピリピ3:8-14】
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
パウロのこれまでの歩みは、まさしくキリストを知る歩みであり、自らの生きる日々が十字架の死のさまとひとしくなり、そこから復活に達するための歩みであり(2コリント4:7-11,6:1-10)、主の永遠の計画を一日でも早く来たらせることを願い一身に前へと進む歩み(エペソ1:7-14,ローマ9:1-3,11:11-15)であり、上へ天へと望み見て生きる歩み(コロサイ3:1-4)であり、神の賞与を得るための歩み(1コリント3:11-15,2コリント5:9-10)、そして義の冠を受けるための歩みであったのです。
【1コリント9:24-25】
9:24 あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
9:25 しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
この冠こそ主イエスがパウロのために被られたいばらの冠であり、パウロはキリストの御足の跡をたどり歩み続けた(ガラテヤ4.19,ピリピ2:17,コロサイ1:24,2コリント11:22-30)のです。
そして彼は、神から与えられた彼の召し(使徒8:15-16,23:11,26:15-18,27:24)を全て終えたことを、その召しと約束だけを握りしめ日々歩み続けたからこそわかったのです。
【2コリント4:16-18】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
彼が何を見て、何を求めて、何を望み、何を喜び歩んだのか、その全ての歩みを通して、神はテモテを励ますパウロの言葉をもって、今私達を励ましています。
私達もパウロがその全てをささげ主イエスを見て、求めて、望んで、喜んで、愛して歩んだように共に歩みましょう。
そして、私達がこの地上の歩みをいつか終えて天に帰ることを知るとき、「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。(2テモテ4:8)」と確信と尽きせぬ喜びと主への賛美をもって、天への凱旋へと旅立ちたいと願います。
またこの小さな私達の信仰の歩みをその生きてきた証しを通して、続く信仰者を励ます者となろうではありませんか。

主への負債

2016年11月14日
【ローマ1:14,15】
1:14 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。
1:15 そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。
「果すべき責任がある。」という言葉は、「返さなければならない負債を負っています。(新改訳)」という言葉です。
パウロは主イエスに対してこの思い持っているのです。
私の罪のために払われた、御子の命というとてつもない代価。
この御子の命の計り知れない価値を私達は本当に知っているでしょうか。
私達の罪は、どれほどに小さいものに見えても、その罪というもの自体が神に敵対するサタンの性質、サタンから受け継いだもの(ヨハネ8:44)です。
それゆえに、神の御子の命という途方もない価値を持つ代価でしか贖うことのできないほどの、恐ろしいもの(詩篇49:7-9)なのです。それは永遠の滅びに価するもの。
【エペソ2:1-3,11-13】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
 [中略]
2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
あまりに罪深くおよそ救われるはずのない者。
言葉に尽くせないほどの神の大いなる恵みなどには、とてもとてもあずかるはずのない者。
それが私達です。
私達が主イエスに負っている負債はあまりに大きいのです。
そのことを知る者は、多く主イエスを愛し、その負債を主イエスにこの人生をもって、この命をもって、いかに返すことができるのかということを考えるようになるのです。
【ルカ7:47】
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
あなたはどれほど主に愛されているのかを知っていますか?
この方の愛を知っている者は、この方の渇きを知っているはずです。
救われるべき多くの魂が、死に、滅びに向かうことを悲しみ、断腸の思いで渇いておられるのを。
【ローマ1:16】
1:16 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
だからパウロは続く御言葉にあるように、福音を恥とはせず、誰の前にもその福音を隠すことなく証しし、ローマで鎖につながれたままでも福音を語り続け、やがてその福音に命をささげたのです。
それが主イエスに負債を返そうと、その愛に答えようと、パウロがささげた最高の主へのささげもの。
そのために彼は生まれ、そのために彼は生きたのです。
最高の主へのささげもの、そのために私達は新しく生まれたのです。
あなたはどのように主を愛しますか?
その与えられた新しい命をもって。

主の日に備えよ

2016年11月13日
聖書箇所: ヨエル1:4-12,2:1,2

主は今この国に迫る多くの災害や異常気象、戦争への不安、経済危機への不安などを指し、このことが決して聖書の語る言葉と矛盾していないことを語られています。
つまりはこの国の時が満ちている、罪が熟して、滅びへの道へ向かう、自らの罪ゆえののろいを自ら刈り取る時期に向かっていることを、終末の預言と重ねて私達に示しています。
その時にこそ、神の思いを内に持ち、神のご計画のために召し集められた教会がどのようであるのかということを、主は見ておられるのです。
主は私達が、罪から贖いによって解放され逃れることのできる逃れの町としての役割を担っている、それこそが教会の大きな働きであると語られます。
罪の贖いを担う大祭司に仕える祭司として私達は如何に他人の罪に対して向き合って生きているでしょうか。
また私達こそ罪深く、弱く、小さく、寄りどころなく、そのような所から主のものとされたからこそ、主の目が同様に小さき者、弱き者、虐げられている者、寄る辺なき者に今もまさに向けられており、私達もそのような人々に心注ぐべき者であることを、御言葉は表しています。
そして、自らの生活に目を向け続け、神を退けて、どのように主に礼拝をささげられるのか。むしろ自らのために自らの都合の良い神をつくり出し、その偶像を神と呼んで祭る礼拝を、厳しく退けると警告されています。
またそのように、神を退け自らつくり出した偶像にひざをかがめ続けるなら、つまりは主を退け続けるのであれば、主がそこから去りうることを、だからこそ、罪はさらに満ち、結果としてののろいを、災いを自らの身に招いていることを厳しく指摘しています。
このまま時代が進むのであれば、やがて時代はかつての歴史と同じように、迫害の手の中、信仰すら貫くことが難しい時が来るかも知れません。
そのときこそ、燃えさかる炎の中に投げ入れられることを恐れず、主のみを信じ、「たといそうでなくても」と信仰のゆえに命を落とそうとも、本当の主権者、全地を統べ治む唯一の王は主イエスであると、この方にのみひざをかがめる、ダニエルの3人の友人達のような、信仰が私達には必要となるでしょう。
そんな信仰を主はどれほど喜ばれることでしょうか。
主はその信仰に決して答えない方ではありません。むしろそれこそがこれからの厳しい時代にも信仰者として生き続ける大きな力となることでしょう。
だからこそ、今主はこの時を、主が臨まれる「主の日」と重ねて、この日に備えて、ラッパを吹き鳴らせ、警報を吹き鳴らせと、神の警告を語り続けるよう迫られています。
主がこの地に臨まれる時は、終わりの日に再び臨まれる時と同様、刺し通された者としての姿で来られます。
我が為に十字架にかかられた姿のみが、今の私達が如何に神から離れ、神の思いから心離れているか、その罪の心を、姿を、照らし出すのです。
「この方を見よ。自らを嘆き、心から悔い改めよ。」
これからの時代のクリスチャンに主が語られる、厳しくも真実なる神の言葉に、心から伏し耳を傾けていこうではありませんか。


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【創世記18:17-33】
18:17 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。
18:18 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。
18:19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。
18:20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、
18:21 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
18:22 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
18:24 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
18:25 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
18:26 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
18:27 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
18:28 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
18:29 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
18:30 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
18:31 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
18:32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
18:33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。

主を知らない民が、知らないがゆえに、いや知らないと言えども主を退け主の思いに逆らい、罪を重ね続け、その重なる罪のあまりの大きさ(酷さ)のため、滅びに至ろうとしているのを見た時、私達は何をすべきでしょうか。
そこに自らの家族が居るとするならば、どうでしょうか。
これがアブラハムがこの時置かれていた状況です。
そして今私達の置かれている状況はどうなのでしょうか。

【ユダ7節】
1:7ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。

この国の罪深き状況はすでにソドムとゴモラと同様であり、さらにそれ以上の罪を重ねようとさえしている姿を見て、神はこの国をこのままで放置されることはないでしょう。
刻一刻と自らの選択で滅びに向かう国に、私達も住まいまた家族や大切な人々がそこに生きている。

【マタイ】
26:52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。

だからこそ、主はこの国の滅びの日が遠くないことをあなたに教えられていないでしょうか?
アブラハムは祝福を受ける者として、また主の正義と公道が彼を通して現されるために、主に立てられた者であり(創世記18:17-19)、私達も救われてアブラハムの祝福にあずかる者となった以上、同様に主の正義と公道が私達を通して現されることを主は願っているでしょう。
つまり、アブラハムと同様に私達はこの国を主から与えられており、この国を主の正義と公道によって治める者としての責任を負っているのです。
だからこそ、主はご自身の計画を私達に隠されることはない。

【アモス3:7,8】
3:7 まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
3:8 ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。

だから、今なおさら主の前に、この国の滅びのために、私達はこのアブラハムのようにとりなす必要があるのです。
この国が神に立ち返るように。
アブラハムは何度も何度も主に食い下がり、とりなしを止めることなく、五十人の正しい人から始まり、たった十人の義人さえ居れば、主の裁きがとどめられるようにまで、引き下がることなく、あきらめることなく、とりなしました。
それは主の前に、なりふり構わない必死のとりなしであったと言えるでしょう。
おそらくは、ロトの家族だけで六人はいたのですから、ただあと四人の義人が居れば、ソドムとゴモラの土地は滅ぼされないで済むと、アブラハムはそこまでとりなした。
しかし、結果はその十人にさえ到底至らず、この裁きを免れ生き残ることができたのはロトとその二人の娘のたった三人でした。
ですから、主にとりなしを祈る時、自らのことのように主にとりなし、最後の一歩に至るまで予断をゆるさず、自らの命さえ投げ出して、とりなす必要があるのです。

【出エジプト】
32:32 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば--。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。

いや、このとりなしはそもそもは神ご自身の心なのです。だから主イエスご自身が命を十字架にささげ、究極のとりなしをなされた。
神は私達が滅びることを願ってなどいないのです。
むしろ罪から立ち返り、救われることを切望しておられるのです。

【エゼキエル】
33:11 あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。

主はこの滅びへの破れ口に立ちとりなす者を待っておられるのです。
そうです。主はご自身と心一つにして、自らのことをかえりみず、その命をささげとりなしの祈りを祈るのを。あなたの祈りを待っているのです。

【歴代志16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご 自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

あなたとあなたの大切な人々の住むこの国が、神の前に立ち返り滅びを免れるように共に祈ってまいりましょう。

御言葉に生きる

2016年11月07日
【詩篇119:111,112】
119:111 あなたのあかしはとこしえにわが嗣業です。まことに、そのあかしはわが心の喜びです。
119:112 わたしはあなたの定めを終りまで、とこしえに守ろうと心を傾けます。
詩篇119篇は御言葉について、ヘブル語のアルファベット順に並ぶ詩篇の集まりで、一つ一つの詩篇はそのアルファベットを最初の一文字とした、とても美しいヘブル文学の形式で語られています。
その中にある、「さとし」「戒め」「おきて」「定め」「知恵」「約束」「あかし」などの一言一言が御言葉を表す言葉であり、御言葉のあらゆる側面を知ることのできる詩篇です。
御言葉は主イエスそのものであり、私達の内に住まわれる聖霊(キリストの御霊)が御言葉を照らし出すとき、私達は主イエスご自身と交わるように親しく御言葉を知ることができる。
それが御言葉であり、この詩篇の中で作者があらゆる人生の場面において、この御言葉をいかに愛し、いかに深く交わり、いかにその人生を支えられ、導かれ、御言葉を生涯守って生きることがいかに幸いか、喜びなのかを、生き生きとした御言葉との交わりを通して語っているのです。
まさしく、それが生ける御言葉なる主イエスとの交わり。
【ヨハネ10:2-5】
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
聖書を読んでも最初はわからないことも多いでしょう。しかし、この御言葉との交わりをあきらめずに主が語りかけられることのみ、今心に響きわかることのみに静かに耳を傾けて行くのであれば、その意味はやがて理解することができます。
まさしく、羊は羊飼いの「声を知っているので」必ず少しずつでも聖書から主が語られる声を私達は聞くことができ、それに導かれて生涯を歩むことができる。「彼について行く」ことができるのです。
そのようにして私達は、律法主義的ではなく愛の関係において、この御言葉を守ることができるのです。
【イザヤ29:13】
29:13 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。
もしも、私達に主イエスとの交わりを抜きに聖書を守ることだけを、または聖書を、そのために知ることだけを目的とする、宗教的な生き方だけを信仰と言うのであれば、それは主から心離れ、形だけのものとなるでしょう。
主から心離れて御言葉を知ることはできませんから、人からの知識や学び、メッセージなどを通してしか主を知ることができない。
それでは、それが主イエスからの声なのか、別の者の声なのかを知る術はないでしょう。
聖書の御言葉のみが偽ることのない真理ですから、この声を聞かずして、羊飼いの声を聞き分けているということはできないのです。
ましてや聖書を読まずに信仰生活を送ろうとすることなど、なおさら同様のことが言えます。
【2テモテ4:3,4】
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
終わりの日に向けパウロがテモテに書いた警告は、今主の御言葉との直接的な深い交わりを避けて歩む者達に、強く語られています。
つまりその警告は、まことの羊飼いではない者の声を聞き分け、滅びに惑わす道から立ち戻り、私達のために命をも捨てる真の羊飼いの声のみを聞き、導かれて歩むよう勧めているのです。
【ヨハネ10:10,11】
10:10 わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
さあ、今日も聖書を開け、あなたに語りかける主の愛をしっかり受け取りましょう。
この御言葉があなたの生涯を支え、最良の歩みへと導くのですから。

罪の故に立て

2016年11月06日
聖書箇所: ヨエル1:13ー16

主は私達の罪のために、贖いの供え物として十字架にかかってくださいました。
その贖いを受け取った者は、自らの罪にとどまり続けるのではなく、今度はその贖いの愛を胸に、誰かの罪をとりなす者として、主の前に立つようになります。
まさに私達は万民祭司と言われますが、このことにおいても、それは変わりなく、祭司の罪祭の規定同様、この罪のとりなしにより主に生かされ、さらに主の贖いの愛をより深く知る者とされるのです。
この地(国)はまさに王なる主イエスキリストを知らず、まるで士師記の時代の荒んだイスラエルの民の様相と同じく、「おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなっ【士師記21:25】」て、好き勝手に、罪を重ねて生きています。
しかしそのゆえに滅びようとするこの地を主は断腸の思いで惜しまれます。
だからこそ、まず主は神の家を取り扱われる。
その心が神から離れ、あるいはいつの間にか信仰の中に(自らの肉に従うがゆえに生み出された)偶像が紛れ込んで置かれているような、教会の現状を、神が喜ぼうはずはありません。
主はこのような教会を、神の律法を預かる民とされながら、その直後に金の子牛を造り出し、それを神という名で呼んで、好き勝手に祭りを作り出し、神を怒らせ滅ぼされようとしたイスラエルの民と同様に見ています。
そして、その時神への徹底した聖別をもって神の憐れみを請い滅びを免れた時のように、今神の家の徹底した聖別を強く求めておられるのです。
主はこの地に臨まれる日は近いと再臨の約束と同時に私達に、リバイバルの約束をもって語り続けてくださっています。
しかし、主が臨まれる日に私達が神を喜ばせる者として、主を心より愛し主をお迎えする日を待ち望んで備えているか、それとも自らの欲望を妨げる神を、退けようと逆らい、神と戦う者となるかとでは、その日の迎え方は大きく異なるでしょう。
まさに私達の裁きや報いと言われているものは、単純に神に対してどのようであるかという基準に基づきます。
主は今、この国の時が満ちたことを示し、ご自身がこの国に臨まれるに当たり、ご自身の神の宮をご自身の命によって建て直そうとされています。
主は天にある神の宮を、ご自身の教会の中に顕現させることを願い、私達を御座の前にまで引き上げ、天の御国に生きる豊かな神との交わりの内に入れてくださいます。
そのように神の宮が建て上げられる時、宮の再建によりエルサレム(都)が建て直されたように都が、つまりは私達の生活する場所が続いて建て直されます。
そしてそれこそがエルサレム再建によってイスラエルの国が建て直されたように、この国全体を建て直すことと繋がるのです。

主は私達からご自身のリバイバルを始められ、この国を救おうと願われています。
さあ、今のこの国のこの時代に生きるクリスチャンとして、時代が変わろうとしているこの重要な時に語られている主の思いに、共に主に心伏して耳を傾けていこうではありませんか。


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