聖書箇所: 申命記30:8-10

神の恵みは、乳や蜜の流れる地に水が流れるように、高い所から低い所へと流れていきます。
この変わらぬ法則は、私達の心の内に於いても同様に、神の恵みは高ぶる者にではなく、砕けた魂に、低められた者の上に豊かに溢れます。
それは、十字架の死につけられ砕かれた者にこそ、主のよみがえりが現れ、そのよみがえりの内にこそ、主の圧倒的な御業が現れるのです。
そこにはキリストの無尽蔵の富が、私達の死と引き換えに、よみがえりと共に溢れ出します。
こうして、のろいに満ちた滅び死に向かうべき私達は日々この十字架の死と対峙して生きていますが、その死において私達はキリストご自身が持っておられる全ての神の資産(宝・豊かさ)、資質(神の性質・神性)、永遠の勝利を、よみがえりの内に受け取ることができるのです。
そして、神の言葉(聖書に語られている全てのこと)は、このよみがえりの内に現実のものとして現れます。
聖書に語られた時代と何も変わることのない恵みを、私達は今の時代の中で純粋に信じることができるでしょうか。
今主は、主の御業を成すためにふさわしい神の器として神の都(永遠の教会)の完成を、私達の内に成し遂げようとされています。
だからこそ私達は、偽りではなく神の言葉の中に留まり、永遠の都の中に日々生き続け、むしろ死に満ちたこの地に、よみがえりの内に神の国を現す者となるよう、神の前に望もうではありませんか。


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【詩篇103:13-14】
父がその子供をあわれむように、 主はおのれを恐れる者をあわれまれる。
主はわれらの造られたさまを知り、 われらのちりであることを 覚えていられるからである。

神が私達をどのように思われているのか、これほどにわかりやすく語り掛けてくださっていることに感謝します。
父という思いに、すべての語り尽くせない神の思いが込められていると言えるでしょう。
我が子を思う深い思い。
その生まれる前から私の全てを知り、その全てを見守り愛し尽くされている愛。

【詩篇139:13-17】
あなたはわが内臓をつくり、 わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
わたしはあなたをほめたたえます。 あなたは恐るべく、くすしき方だからです。 あなたのみわざはくすしく、 あなたは最もよくわたしを知っておられます。
わたしが隠れた所で造られ、 地の深い所でつづり合されたとき、 わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
あなたの目は、 まだできあがらないわたしのからだを見られた。 わたしのためにつくられたわがよわいの日の まだ一日もなかったとき、 その日はことごとくあなたの書にしるされた。
神よ、あなたのもろもろのみ思いは、 なんとわたしに尊いことでしょう。 その全体はなんと広大なことでしょう。

親として子を生み出し、慈しみ育む者の思いがそこに表れています。
主の目は私達から片時も離れることなく、私達を見つめ愛されている(あわれまれている)のです。
我が子が生まれた時のことを忘れる親が居るでしょうか。
その喜びを、我が子の幸いを願う思いを、その愛を忘れる親があるでしょうか。
それが、神が私達に常に向けておられる思いです。
あなたにとって神はどのような存在でしょうか?
遠く離れて高いところから眺めているだけの存在でしょうか?
ただただ厳しい存在、あなたの罪を見張り裁こうとして見ているような存在でしょうか?
どこかあやふやで、昔話の中に登場するような、架空の存在に近い、でも存在だけは信じている、そんな存在でしょうか?
いずれにしても、神の存在を誤解することなく知ることが、私達の神との関係を健やかにする、また私達自身の存在を回復する道のりです。
でも、この父との関係を多くのクリスチャンが誤解しています。神の私達への思いを偽られているということが、信仰の歩みを困難なものにしていることがよくあるのです。
もちろん、親との関係また親の子への思いのうちに、父なる神の愛は表れますが、実際の親との関係が(人の罪故に)健全ではないことも今の複雑な世の中に於いてはありますから、そこに於いて神との関係を誤解してしまうこともあるでしょう。
どうにも父なる神の思いを理解できないこともあるかも知れません。
しかし聖書を通して、神はこれほどにあなたへの愛を温かく、やさしく、語り掛けておられるのです。
人の親は完全ではないかも知れない、しかし父なる神は完全な父。完全なる愛、永遠に変わることのない溢れる愛をもって、あなたを愛し続けている。だとすれば、人との愛で傷ついていたとしても、この愛が私達を覆い、私達を救うことができるのです。
全てを包み込む最も安心(平安)な愛。あなたもその愛の中に身をゆだねて、神への信仰(信頼)の歩みを、今日も進めていこうではありませんか。

箇所: 列王記上1:43-48

主が王座に着かれる。この滅びに向かう国の真ん中、彼を愛する者達の中で。
その圧倒的臨在と共に、救いが全地に溢れ、主(シャロームの君)が全地をその命にあって、愛にあって、霊と御言葉によって治められる。
私達に幾度も主が語り掛けて来られた約束の言葉。
神はその約束の御言葉により、全てのことを成し遂げられます。
たとえ、私達の目の前の現実がその言葉と正反対に見えたとしても。人の(肉の)思いはいつも神に敵対しますから、確かに人は神の御言葉とは反対に物事を成し遂げようと、力を注ぎ、自らの力で世界を動かし、歴史を築こうとします。
しかし、全て神の言葉(約束)のみがこの地に成るのです。
ですから、いつ如何なる時もこの神にのみ寄り頼み、常にこの方を賛美する、神への礼拝の内に生き続ける者は幸いです。
主はそのことによってたとえ命の危機にさらされても、主にあり続けようとする者に、その死を超えて、ご自身の栄光をよみがえりと共に、私達の内に現してくださるでしょう。
そして、そのことを通して多くの者達が、神を知らずとも私達の中に復活の主を見て、この方こそ全地を治める全ての者の王であることを知り、その主権の前にひざをかがるでしょう。
そうして全地が神を崇めるようになる。
主がこの地に来られる、その時主をお迎えするために備え、豊かに成熟して主を喜ばせる僕は誰でしょうか。

今主の語り続けて来られた約束の言葉に如何に答えるかを問われている時です。
主の変わらぬ御心に、心から耳をかたむけて参りましょう。


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【1コリント1:2】
コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。

パウロの手紙の冒頭に書き出された挨拶には、この手紙を受け取った者への、「あなたは主にあってこのような者なのですよ」という呼びかけか含まれています。
なぜなら、多くの人達が自分が神にあってどのような者とされたのかということを忘れてしまう、あるいは自覚しないままで歩んでしまうからです。
彼が語り掛けるこの言葉はまさに今の私達に、「あなたはこのような者なのですよ。目を覚ましてしっかりしなさい。」と語り掛けている言葉でもあるのです。
「御名を至る所で呼び求めているすべての人々」とは、「すべて主の名を呼ぶ者は救われる。【ヨエル2:32】」と語られているように、主の名を呼び求め救われた者を表す言葉でもあり、また「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。【ヨハネ16:24】」と主から約束され、今主の名によって祈ることをゆるされ、今も祈り続けている者達を指す言葉でもあります。

【ヨハネ17:11】
わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。

つまりは、そのように神の深い愛によって主の名を主ご自身から与えられたクリスチャンを意味する言葉です。
また、「キリスト・イエスにあってきよめられ」とは、

【エペソ5:25-27】
夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。

とあるように、主は永遠の愛によって私達をご自身と永遠に一つとされるために、私達をきよめたのだということを意味し、

【ヘブル9:14-15】
永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。
それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。

とあるように私達はキリストにあって、その十字架の血によってきよめられ、神の国を受け継ぐ神の民「聖徒として召された」のです。

【ダニエル7:13-14, 18】わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、 見よ、人の子のような者が、 天の雲に乗ってきて、 日の老いたる者のもとに来ると、 その前に導かれた。
彼に主権と光栄と国とを賜い、 諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。 その主権は永遠の主権であって、 なくなることがなく、 その国は滅びることがない。
[中略]
しかしついには、いと高き者の聖徒が国を受け、永遠にその国を保って、世々かぎりなく続く』。

そして、私達は主の永遠の聖徒とされ、主は天地万物全てのものの主権者であり、この方と「わたしたちの主」という個人的に特別な関係の中に私達はあるのです。
同時に「わたしたちの主」とは私達の、主への特別な愛の呼びかけを含む言葉でもあるでしょう。

どうでしょうか。
いかにあなたが主との特別な愛の関係の中にあり、その神の愛によって特権とも言うべきものを与えられた、いかに特別な者とされているのかということがわかったでしょうか。
これがあなた、クリスチャンです。
まずクリスチャンとしてのアイデンティティを神にあって、聖書に語られる神の言葉にあって持つこと。あなたがどのような者であるのかということをあなた自身がしっかり認識すること。そこから始めることが偽りの中に閉じ込めようとする悪の支配する世の中で、信仰者として生きていくためには重要なことなのではないでしょうか。
この国で信仰を保つことは大変なことだと言われます。
ですが、「しかし、わたしたちの国籍は天にある。【ピリピ3:20】」とあるように、もしもあなた自身が何があっても決して揺るがぬ、神の国に国籍を持つ(神の国を継ぐ)者であることを知識の上だけでなく本当に知ることができるならば、あなた自身が揺るがされることはなくなるでしょう。
神の目に映る本当のアイデンティティにあなた自身が立てますように。

唇を心をきよめよ

2017年09月10日
聖書箇所: マタイ15:16-20

私達は案外と私達自身の日常的に交わされる会話やその心の奥底の本当の思い、「言葉」の中に潜む罪汚れについてそれほど意識をしていないかも知れません。
ある種無意識に、違う言い方ならば無自覚、無責任に言葉を放っている、心に野放しにしている。
しかし、主はこの言葉こそ「全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる【ヤコブ3:6】」ものであると、私達の想像以上にこの罪がはなはだしく危険なものであることを警告しています。
しかし私達はこの言葉によって救われました。
救いを得させる力のある福音の言葉を聞き、信じ、受け入れ、信仰の告白をもって、その心の言葉と口の言葉を全く一つに、救い主を信じて救われたのです。
神の御言葉である方、主イエスキリストは、その言葉によって私達をきよめ、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるため【エペソ5:27】」に、私達を救ってくださったのです。
私達は主の十字架の上で語られた言葉によって、ゆるされ、きよめられ、救われたはずなのです。
だから私達の唇は主を賛美するためにあるのであって、人をのろうためにあるものではない、私達自身を汚すためのものではないのです。
だからこそ、主はこの主の御言葉の中にとどまり、神の愛にとどまり続けるよう語られます。
この御言葉にとどまるとは、古い戒めであり、新しい戒めでもある、神へのまた隣人への愛、互いにキリストが十字架にかかってくださったように愛し合うこと。
闇の業に加わらず、まことの光(命の言葉)の内に生きるようにと主は言われるのです。
聖霊を悲しませてはいけません。
悪魔に機会を与えてはいけません。
だから今、汚れた言葉を私達の唇から、そして心から一切捨て去りましょう。
御言葉の中にある、永遠の愛の交わりの中に、私達は生きていこうではありませんか。

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聖書箇所: エゼキエル3:4-11

今主はこの地(国)をご覧になり、滅び行くその姿を嘆かれ、この地を治めるべくこの地に立てたご自身の聖徒達のこれまでの歩み、また今現在のその姿を見て、警告を語られています。
それはこの地を任せられたはずの者達が、本来の見るべきものから心を逸らし、この地に宝を積み、神に富むことなく、この地で自らが豊かになることに心奪われていると。神の民に対してつまりは私達自身に、神の目から見えるあなたがたの本当の姿を見よと語られています。
その姿は確かに神殿にその身はあるけれど、その実は偶像に顔を向け自らを豊かにせんと他の神々にひざをかがめるエゼキエルに見せられたイスラエルの民の姿そのもの【エゼキエル8-10章】。
しかし主は本当は私達を天にまで引き上げ、主の御座近くの特別な場所からこの地に、この御国の豊かさに生きる者達に「神の国(御国)の福音」を与え、この福音によって罪が熟したこの地を救うため、神の思いをもって遣わそうと計画されていたのです。
だからこそ、私達には神の御国の麗しさを主は語り続けて来られた。ご自身の御もとに全ての者達を引き寄せ、全ての者達を救うために。
しかし今私達は自らの思いの内に、「
このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。【黙示録3:16,17】」
と言われる存在にまで、自らを引き下げてしまったことを、主は私達に見せようとされているのです。
ですが主は、時(罪)は熟した、この地を裁くためにご自身が臨まれこの地に王座を置かれる時が来たと言われます。
だから目を覚ませと、私達の姿を直視し、悔い改めてもう一度主にあって立つようにと、迫られているのです。
今回は主の厳しくも私達への愛の故に、私達に与えられた本来の主の僕としてのあるべき歩みに帰れと語られる主の叱咤激励に、心から誠実に向き合い御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

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【ヨブ記 19:25】
わたしは知る、 わたしをあがなう者は生きておられる、 後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

人は苦しみの中で、自らの命を贖う価を自らの中にすら見出せないこと知り、救い主の存在が必要なことに行き当たります。

【詩篇49:7-8】
まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。 そのいのちの価を神に払うことはできない。
とこしえに生きながらえて、墓を見ないために そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、 それを満足に払うことができないからである。

いや、それを知ることができる人はむしろ幸いな人と言えるでしょう。
なぜなら、多くの人がそのような苦しみに遭っても自らの命は自らの力で何とかできると、彼を救わんとする神の御手すら退け、たとえ相手が神であろうとも自らの命を強奪するかのように戦い取ろうとし、神に逆らい生きる人の方がむしろこの世には多いからです。

【ヨハネの黙示録9:20-21】 これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。

という意味で言うならば、ヨブは確かに神が誇るほどの義人(正しい人)であったということができるでしょう。

【ヨブ記 1:1, 8】
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

しかし、主はそのような義人でさえ、人の力(自らの力)をもってしても、自らを正しいものとすることはできないことを、最初からご存知でした。だからこそヨブはその部分をこの苦しみの中で、自らに於いては罪人でしかない姿として現したのです。
主が全ての根源です。この義も神の中から得なければ、そこに義は存在しないのです。
神こそが義(正しい)であり、義の根源であるからです。この義により、全てのものは保たれ、全てのものは存在できるのです。そして私自身にはこの義は存在しないのです。
全てを主から得て生かされなければ存在できない。それは全て主に造られた被造物の定めなのです。それは主に命があるからです。

【ヨハネによる福音書1:1-4】
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。

多くのクリスチャンは正しく生きたいと願うようになります。そして、自分の力で正しく生きようと苦しみます。
しかし、自らの中にその正しさ(義)が存在しないことを自らの罪により知ることとなるのです。

【ローマ人への手紙7:15-24】
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。
すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、
わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

さあ、あなたはどうでしょうか。ヨブが何に苦しんでいたのか、分かってきたでしょうか。
同時に神が今何からあなたを救おうとしているのかわかったでしょうか。

【コリント人への第二の手紙5:21】
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

私達は主によって義とされなければなりません。あくまで私に義は存在しないのです。
この方の十字架にしか、私達が義とされる道は存在しないのです。
だから、ヨブは苦しみの中で救い主を見たのです。
あなたも自らの罪の中で苦しんではいないでしょうか。
神を愛し、聖なる者として生きたいと願うからこそ、どのように生きればいいのかと迷っていないでしょうか。
この罪人を解放できるのは、十字架の死にのみよります。
あなたを贖う救い主の十字架の御姿にのみ希望を求め、あなた自身をこの十字架の主にゆだねていこうではありませんか。ただ神の義がこの身になることを願って。

【ヨブ記33:23-30】
もしそこに彼のためにひとりの天使があり、 千のうちのひとりであって、仲保となり、 人にその正しい道を示すならば、
神は彼をあわれんで言われる、 『彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、 わたしはすでにあがないしろを得た。
彼の肉を幼な子の肉よりもみずみずしくならせ、 彼を若い時の元気に帰らせよ』と。
その時、彼が神に祈るならば、神は彼を顧み、 喜びをもって、み前にいたらせ、 その救を人に告げ知らせられる。
彼は人々の前に歌って言う、 『わたしは罪を犯し、正しい事を曲げた。 しかしわたしに報復がなかった。
彼はわたしの魂をあがなって、 墓に下らせられなかった。 わたしの命は光を見ることができる』と。
見よ、神はこれらすべての事を ふたたび、みたび人に行い、
その魂を墓から引き返し、 彼に命の光を見させられる。

※この箇所は後の日に私達に与えられる主イエスキリストを預言する御言葉です。