聖書箇所: ローマ5:1-11

今世界は大きく変わろうとしています。
人々の、国々の深まる罪の故に、主の裁きを免れ得ないほどに罪が熟しつつある。
このことには、これまで神の民と言われ、神と共にこの地を治める共同の相続人とまで語られてきた私達クリスチャンの責任が少なからず関わってきています。
この人々に、国に、世界に罪が深まる姿を見ながら、そしてこれほどまでにこれまで主の思いを語られていながら、私達がこれまでどのように過ごしてきたのか。
私達の思いは神の思いと一つとなってきたのか。あるいは日々の私達自身の生活の満足のために、神を退け、世に心を向け、世を愛しサタンに心奪われて生きてきたのではないのか。
神は世界の転換期に私達に悔い改めて本来の神の召しにのみ心を傾け、この罪の満ちる悪い時代から多くの人々が救われるよう、主の計画のために全てをささげ従うことを求めておられます。
そのように生きることは確かに主の十字架を負い、御足の跡をたどる歩みであり、そこは患難を通る道であるかも知れません。
しかしこの試練にこそ永遠に変わることのない、信仰、希望、愛を得る、私達自身にキリストの十字架が、その死とよみがえりの現れる道であるのです。
そこに現れる死とよみがえりにこそ人々を救う十字架が現れる。
今主がこの時代だからこそご自身に従う弟子達を求めておられます。
主の御心を受け取り、私達も主に十字架に向かい従い行こうではありませんか。
今の時代に語られる主の御言葉に心沈め共に耳を傾けて参りましょう。

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【詩篇48篇】
コラの子の歌、さんび
48:1 主は大いなる神であって、われらの神の都、その聖なる山で、大いにほめたたえらるべき方である。
48:2 シオンの山は北の端が高くて、うるわしく、全地の喜びであり、大いなる王の都である。
48:3 そのもろもろの殿のうちに神はみずからを高きやぐらとして現された。
48:4 見よ、王らは相会して共に進んできたが、
48:5 彼らは都を見るや驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去った。
48:6 おののきは彼らに臨み、その苦しみは産みの苦しみをする女のようであった。
48:7 あなたは東風を起してタルシシの舟を破られた。
48:8 さきにわれらが聞いたように、今われらは万軍の主の都、われらの神の都でこれを見ることができた。神はとこしえにこの都を堅くされる。[セラ
48:9 神よ、われらはあなたの宮のうちであなたのいつくしみを思いました。
48:10 神よ、あなたの誉は、あなたのみ名のように、地のはてにまで及びます。あなたの右の手は勝利で満ちています。
48:11 あなたのさばきのゆえに、シオンの山を喜ばせ、ユダの娘を楽しませてください。
48:12 シオンのまわりを歩き、あまねくめぐって、そのやぐらを数え、
48:13 その城壁に心をとめ、そのもろもろの殿をしらべよ。これはあなたがたが後の代に語り伝えるためである。
48:14 これこそ神であり、世々かぎりなくわれらの神であって、とこしえにわれらを導かれるであろう。

神を喜び、主を賛美する者は、やがてその喜びに満ちた賛美の内に、ある所にたどり着くでしょう。
その賛美の中心地、賛美が永遠にとどまることなく、その中心には主ご自身が居られる場所。
永遠の都、聖なる都、新エルサレム。
そして、この都の内にいる者は地上のエルサレムが山に囲まれた堅固な要塞であるように、主の永遠の統治の内に、主ご自身が「火の城壁(ゼカリヤ2:5)」となり私達を囲み、ご自身の栄光でその内を満たされるでしょう。
主こそ我らのやぐら(詩篇18:2)となり、私達をあらゆる危険から常に守られるのです。
これに挑もうとする如何なる者もこれに太刀打ちできません。
その心は都を見るや主の恐れと、都に現された主の力と栄光を見て恐れ、急ぎ逃げ去るのです。
そして私達はこの絶対的な安全な場所、何ものにも揺るがされることのない主の宮のうちに、主のいつくしみを思い、絶え間なくその唇は賛美が溢れ出る。
この賛美は地の果てにまで溢れ出て多くの聖徒達も同様に祈りの内にこの都で賛美をささげ、それが全地を覆っているのがわかるでしょう。
まさに主の永遠の都は今ここにあり、永遠の神の国においては、やがて来るべき神の都は霊に満ちる祈りの内に現れ、圧倒的勝利の内に完成している(ヨハネ19:30,黙示録21:6)のです。
その勝利はこの地を飲み込むほどのもの。私達を取り囲んでいた困難も悩みも問題も全てはこの中に飲み込まれ主の勝利の内に全てが最善の形で完了してしまう。
私達の賛美とは、祈りとは、礼拝とは、そのようなものです。
つまりは私達は、主にひたすらに心を向け、神を信じ、この方の良くしてくださった事を何一つ忘れず、数え、ほめたたえ、また今私達が直面するあらゆることにおいても、主に願い求めるのなら必ず主が報いてくださる(ヘブル11:6)ことを信じ、主をほめたたえるなら、この宮の内に、都の内に私達の賛美は、祈りは、引き上げられる。
そして、天にある礼拝(黙示録4,5章)の内に自分も入れられていることを知るでしょう。
それは神の子羊の御前、永遠の勝利者であられる方の前に集うものであり、この場所から全地の裁きが下ることを知るでしょう。
ここにすべての勝利の源たる方が居られ、神の義により正しく裁きがなされている。
私達は、この王なる方の花嫁とされているのです。
私達を取り囲むあらゆることを超え、死を超えて、この主の御前に主だけを求めて、主への賛美の内に出るとき、主は金の勺をもって、あなたの願いを、あなたの名を呼び聞き入れてくださるでしょう。
「何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう(エステル5:3)」と。
だから、私達は主をほめたたえ得ないと思われるような状況に於いても、主をほめたたえ、主の御前に出るのです。
この方はあなたを愛し、私達が何ものを頼りとせず、主だけを愛し、この主だけが素晴らしき方と近づくのを、けっして無にされる方ではありません。
あなたを愛して止まないゆえに、勝利と恵みに満たして余りあるものとされるでしょう。
だから私達はなおさらに主をほめたたえ、「主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめる(詩篇27:4)」ことを永遠の望みとするでしょう(詩篇48:12,13)。

だから主を喜ぶことは私達の力なのです(ネヘミヤ8:10)。
「なえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにし(ヘブル12:12)」、しっかり立って、
今日も、主の素晴らしさを仰ぎ、賛美しましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ゼカリヤ2:4,5】
2:4 言った、「走って行って、あの若い人に言いなさい、『エルサレムはその中に、人と家畜が多くなるので、城壁のない村里のように、人の住む所となるでしょう。
2:5 主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる』と」。

【詩篇18:1-3】
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

【ヨハネ19:30】
19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

【黙示録21:6,7】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

【ヘブル11:6】
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

【詩篇27:4】
27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。

【ネヘミヤ8:10】
8:10 憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。

【ヘブル12:11,12】
12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
12:12 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。

永遠の祭司

2017年08月20日
聖書箇所: レビ記29章

神はまさに私達と永遠に共に住まうことを望まれ、この地に於いてすでに主から片時も離れない者として、私達が永遠に祭司として生きることをご自身の血の契約により定められました。
つまり、天の幕屋に居られる大祭司なる主イエスキリストと共に、永遠にこの幕屋の中に、永遠の神の礼拝に仕える者としてくださった。
永遠にすべきことを今この地からし続ける生き方、多くの人々が見失いがちなクリスチャンとして最も大切な生き方がここにあります。
もしもその中に生きるなら、永遠の安息と祝福の溢れる、この地の生活をも満たして余りあるものを得るでしょう。
また、この永遠の御国の中に、私達はキリストご自身を永遠に汚れなき祭司の衣として着、天の王国の王族として、愛する主との麗しい永遠の交わりの中に、今生きる者として、永遠にとどまり続けるのです。
今回は永遠の命を与えられたクリスチャンの本来の生き方について、主の永遠の愛の招きに心開きつつ、耳を傾けて参りたいと思います。

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【マタイ21:16-17】
イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

神が私達の前にご自身の姿を現された時、私達は本当にこの方を神として受け入れることができるでしょうか?
これは実際にイスラエルの地で起こった現実のことです。
この聖書の箇所で語られているのは主イエスがまさに聖書に預言されたままの姿でご自身をエルサレムに現された時のことです。
そしてその時、神を最初に受け入れるはずであった、神の選びの民であるイスラエルは、その神を受け入れることできませんでした。
なぜならかみの言葉を預かっているはずの選民は、その言葉を人の知恵で理解しようと、人の知恵で神を退けてしまったのです。
人の知恵はいくら積み重ねたとしても、人に賢者のように認められたとしても、神の知恵に至ることはないのです。

【1コリント2:6-10】
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
しかし、聖書に書いてあるとおり、 「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、 人の心に思い浮びもしなかったことを、 神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」 のである。
そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。

当時イスラエルにはたくさんの律法学者がおり、あらゆる聖書の解釈が人の力によってなされていました。
ですがいざ主ご自身を目の当たりにした時、彼らの聖書解釈がその目を覆い、実際に目の前に居る神を見えなくしてしまったのです。

【ヨハネ7:45-52】
さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。
下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。
パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。
役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。
律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。
彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、
「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。
彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。

むしろ誇り得る知恵も何もない、子供のように素直に、目の前に居られる主の栄光の姿のみを見て、喜び受け入れる者に、主イエスは救いであられるのです。そして、その方を救い主として受け入れる者のみ、神を心からほめたたえることができる。

私達は今生きて居られる方、私達の中に生きて働かれる神の栄光の姿に、目を向けているでしょうか?人の知恵により積み重ねた信仰を誇り、この今生きて働かれる救い主を、私達の心の中で退けてはいないでしょうか?

どうか主が何ものにも頼らず、真っ直ぐに主のみを素直に信じる眼差しを、私達に与えてくださいますように。

主が共に住まう

2017年08月13日
聖書箇所: 歴代志下26:4-23

主が共に住まう。このことは聖書を貫く人と神との関係の中心です。
聖書の歴史、イスラエルの歴史はそれを中心に進んできたと言うことができるでしょう。(祭壇、幕屋、神殿、教会、)
そして、そのことを完成することこそが神の御心の中心。やがて完成する新しい天と新しい地の姿、それこそが神と人が永遠に共に住まう、神の計画の結論、聖書の結論なのです。
全世界は、またすべての歴史はそれに向かって歩みを進め、人の人生もそこに向かって進んでいくのです。
だからこそ、神の臨在の中に生きることがどれ程重要なことか、私達はもう一度聖書の言葉から認識し直し、そこにしっかりと立つ必要があるでしょう。
今回は「主が共に住まう」と題して、この聖書の中心的主題について、心から主の御言葉に耳を傾けて行きたいと思います。

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主に身を献げる

2017年08月06日
聖書箇所: マタイ25:28-30

全てを捨てて主に身を献げて生きる。これが聖書に登場する主イエスの弟子達の姿です。
そして、この基準を主イエスの弟子としての標準とし、全世界の国民を弟子としなさいと主は語っておられ、それが主の願いであり、言い方を変えるのであればこれこそがクリスチャンの基準であると聖書は語っています。
この神を中心に、神の御心のために、神のご計画に従って生きること。今私達はこの基準をどのような思いで受け止めるでしょうか。
しかし神がこのことを語られるのには大きな理由があります。この神が全世界の中心であり、この方が天地万物の主権者である。これが聖書の中心の真理であり、信仰の中心であるからです。
しかし、世は私達を中心に世界が作られ、私達を中心に世界が動いているかのように、語ります。
そして、その影響を多くのクリスチャンが受けているのです。
けれど、主の祝福の中心もこの真理の中にある。それが真実です。
神に身を献げ生きる中に注がれる特別な祝福、守り、現れる神の栄光。
むしろそこから心離す者が失う、本来クリスチャンが受け取るべき特権たる天来の恵み、それが如何に大きな損失であるのか。
私達が受け継ぐと言われる天の御国の恵みは、すでに今私達が過ごすこの毎日の中に始まっているのです。
今私達の心はどこに向かって生きているでしょうか?
今回は主の弟子として主に身を献げ生きることの大切さと特別な幸いについて、主の愛の御言葉の内に、その祝福を受け取っていきたいと思います。

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