聖書箇所: 歴代志下15:7

主がこの地を勝ち取られる時は、まず私達の心から勝ち取ることを始められます。
神以外に心奪われるもの”偶像”を、私達の欲望によって、神との愛の交わりを退け、悪魔との交わりを持つ”姦淫”を、まず私達の心から除き、その心を神のみのものとすること、このように神は私達の心の勝ち取りをまず始められます。
悪魔は、世は、罪は、肉は、私達の戦うべき敵は、この勝ち取られた心を取り返そうと激しく戦いを挑んできたとしても、もしもこのように私達の内から信仰が回復しているなら、私達は主のみに寄り頼み、これらの敵に対して神の大能の力によって圧倒的な勝利を得ることでしょう。
そして、そのことはさらに多くの人々の心を、魂を勝ち取ることへと拡大していく。
実に主の勝利は内側から外側へと、全能の力をもって溢れ、全てのものを飲み込んでいくのです。
クリスチャンの心をまず勝ち取った力は、神の霊の圧倒的な力の中に、その国をも勝ち取り、救いに飲み込んでいきます。
それはまさに聖霊の力によるもの、神の御国の顕現としての奇跡をもって、神のこの勝利を阻もうとする悪魔による人々の迫害の中にあっても、無学のただの人々が、聖霊の内側からほとばしる爆発的な力により証しし、唯一の救いを得させる救い主の名が宣べ伝えられるのです。
神の霊が満ち溢れ、主の臨在が回復した教会(神の宮)には永遠の礼拝が回復します。
永遠に変わることのない、聖書の結論として語られる、永遠の神との交わりとしての礼拝、これが聖日の礼拝の中に、日々の個人個人の神との交わりとしての礼拝の生活の中に、溢れ出てくる。
その時、ソロモンが神殿を完成させた時、主に祈り求めたように、罪深き民のための神へのとりなしの祈りが回復します。主はその祈りを聞く時、ソロモンに約束されたように、民の罪を赦し、この地を癒される。その心は永遠にこの神殿の中にあり、そのまなざしをそこに永遠に向けようと約束してくださるのです。
しかし、もしも私達がこの神の王国の到来を求めず、むしろ自らの王国の中に安住し、それを固持しようとするのであれば、自らを王とする私自身の手によって、真の王たる主イエスキリストの霊は退けられ、むしろその者には悪霊が降り、悪魔との交わりの中、神の王国に属する者(兄弟姉妹)を破壊する迫害者となり、やがては自らを滅ぼす者ととなる、サウルと同じ道を辿る者となるでしょう。
しかし、主の勝利はその迫害の中にあっても止めることはできません。むしろそれすらも新たな機会として、宣教は拡大し、神の御国は圧倒的に神ご自身の霊によって、勝利の内に全地を飲み込んでいくことでしょう。
だから、今主はまず私達からリバイバルすることを始められます。
愛する兄弟姉妹、心の準備はできているでしょうか。
主の勝ち取りはまさに始められようとしています。
主のこの勝利の波に、決して逆らうことなくむしろ賛同し、この地を救う主のリバイバルの御業に、今私達も共にあずかろうではありませんか。


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聖書箇所: 申命記1:6-8

イスラエルの民が荒野で40年の時を経た時、主がもう一度変わることなき主のイスラエルへの最初の約束を語りかけ、新しい地に入りその地を主にあって勝ち取るため、ヨルダン川を渡った時のように、主は私達にもう一度私達への主の約束を語りかけ、この地を、この国を勝ち取ると、新しい地に足を踏み入れよと、今語りかけておられます。
この滅びるべき国を救おうと、そのためにこの地を勝ち取ろうと、この約束は変わることがないと力強く語られているのです。
この新しい地は信仰がなければ決して足を踏み入れることはできません。
かつて、カデシバルネアで、人の不信仰は、人の力では決して勝ち取ることのできそうのない、強敵や難攻不落の要塞がある地に後込みし、神の恵み約束を、災いのように罵り、のろい、退けました。
それがゆえに、その不信仰が取り除かれるまで、40年の月日を主は忍耐し待たれました。そしてここにようやく、アブラハムに与えられた変わることのない約束を成就するために、新しい地に足を踏み出せと語られたのです。
しかし、こうして主にあって勝ち取った地でさえ、やがてイスラエルは不信で満たし、神を退け、逆らって、地を偶像で満たし、姦淫と不信と偽りと、それ故暴虐と悪と罪で地を満たしたがために、この地から散らされ、アッシリヤに、バビロンに捕囚されていくこととなったのです。
だから、信仰がなければこの約束の地を不信仰で汚すから、信仰によらなければこの地に入れないのです。
主は私達にご自身を現し、主を恐れることを、また同時に、どれほど大いなる愛をもって私達を愛しているかを教え、私達に信仰を与えようと言われます。
深遠なる神の計画を知り、その計画に歩むために、人の知恵では決して知ることのない、神の知恵を、神の霊によって与えようと語りかけておられるのです。
だから信仰の父たるアブラハムが、深遠なる神の知恵を知るダビデがそう歩んだように、主と共に歩み、共に戦い、共に交わり、そのことによって、主を求め、主に叫び、主に近づき、主を知る道を歩めと私達を励まされるのです。
そして、この信仰をもって新しい地に入ろうと、もう一度約束が神の力によって成ることを、ここに宣言されているのです。
たとえ、私達の不誠実が一度この約束の成就に至らせなかったとしても、神はご自身の誠実をもって、この約束を必ず成すと、全能なる神が私達のこの国を救おうと言われているのです。
これは大いなる約束、最初から変わることのない私達への主の約束です。
さあ、だから愛する兄弟姉妹、もう一度立ち上がり、主と共に、この地を勝ち取りに行こうではありませんか。


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聖書箇所: ピリピ2:1-11

主は、主を恐れ主と心を一つとする者を、まるで父が子を愛するように愛すと詩篇130篇の中に語られます。
まるで神と縁のなかった、その選びに於いても、神の相続に於いても、全くかけ離れていた異邦の国の中に生きる私達でさえ、神はご自身を愛する者をそのように愛するというのです。
まさにこの方こそ天地万物の創造者にして、全ての被造物の所有者、愛にあってこの天地万物を保っておられる方なのです。そしてその方が、その壮大にして、崇高、絶対的な愛をもって、私達を愛すると言われるのです。
さらに驚くべきことにその愛こそ、その愛の故にその全てを、その命さえも私達に差し出し与えるほどの愛なのです。愚かで、もっとも弱き者となった神の姿にこそ、神の人知を超えた愛が現れている。それは私達に決して離れることのできない、忘れ去ることのできない、無視することのできない愛として、私達の心の奥底に刻まれている十字架の愛そのものなのです。
私達はこの愛を知っているのです。
この方が私達の内に命として生き続ける限り、私達はこの愛のしるしを、私達の内に持っているのです。
主イエスがこの地に於いて、公にご自身を現し、神の国の福音を語られるようになった時、主はカナで2つのしるしをこの地に現されました。
それはカナの婚礼と瀕死の息子をいやして欲しいと願う男へのよみがえりの奇跡でした。
まさに婚礼と十字架の死と復活を現すこの2つのしるしは神の計画の中心そのものであり、私達が神を信じるために現されたものです。
そしてこの二つの奇跡は愛が基となって現されたものなのです。
神はまさに同じしるしをご自身の愛をもって私達の内に刻み、神を信じるための世へのしるしとして、私達に与えられているのです。
主がご自身の命を与えてまでも私達を愛されたように私達が互いに愛すること、ここにこの十字架の愛によるしるしは現れます。
そのことによって、世は私達がキリストのものであることを知るのです。
それがキリストに贖われた者達のあるべき教会の本来の姿なのです。
主はこれまで、キリスト教会の中に潜む、憎しみ、争い、無関心、のろいと言った、この愛と相反する事柄が、どれほどキリストの御体なる教会を痛めつけてきたのか、どれほど大切なものを失わせてきたのかということを、今私達に教えてくださっています。
神の愛を知る者として、この愛のしるしを内に抱き、主イエスの愛を真に証しする真の教会となることを、今私達に迫られます。
「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ【ピリピ2:5】」
キリストの愛の故に、キリストと心一つとして、十字架に従うように互いに愛すること、今年主はこのように私達に語りかけておられるのです。

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聖書箇所: サムエル下6章

神の計画を成就するためには、その課程に於いて、人が決して失敗しないという訳ではありません。
聖書に於いてはそのような人の失敗について、むしろ多くの箇所で語られています。
ダビデも、神の箱をエルサレムに運び入れる計画において、大きな失敗を経験しています。
神の箱をエルサレムに運び入れる計画は、ダビデにとっては、神を愛すればこそ思い浮かんだ計画だったと言えるでしょう。
しかし、牛車に乗せた神の箱は途中で牛がつまずいたがために揺らぎ、神の箱を手で押さえたウザは撃たれて死に、この計画は頓挫することになったのです。
そこでダビデは挫折したのです。
神を愛すればこそ、神に従ったはずの歩み。失敗という結果が大きな挫折を生む。ダビデは神に怒りすらしています。
しかし、この失敗にはちゃんと人側の原因がある。
神の箱はレビ人の肩で担われなければならないことは、すでに律法の中に示されているのです。
それを人の過去の経験や知識から、人の方法で行ってしまった。牛車に乗せてしまった。
神はこの中止になった計画を、神の箱が置いておかれたオベデエドムの家を祝福するという形で、ダビデの心を立て直して再開させ、成就させるのです。
ここには深い神の愛と、その愛により信仰を取り戻すダビデの姿を見ることができます。
やがて、この計画の成就は、エルサレムに神の家を建てるという大きな計画にまで発展します。
しかし、ここでダビデは神の家を直接建てることを許されず、その子ソロモンに約束がなされるのです。
多くの人の血を流してきたダビデには、神の家を建てることができなかった。
でも、今度はダビデは神の深い思いを汲み取り、それに従います。
その代わり、彼はその備えのために生涯の全てを注いだと言っても過言ではないでしょう。
だからこそ、神の家を建てるという壮大な計画はソロモンの時代に成就したのです。
このことを見ていく時、神の計画を成就するためには、信仰という大きな要素が必要であるという事がわかります。
信仰がなければ、神を喜ばすことはできません。
見えない約束を見るように歩むことも、またその約束を長い年月待ち望むこともできません。
神の方法に従い歩む続けるため、神の深い思いを知り、それに従うということもできません。
そして、この計画が神の永遠の計画につながり、生涯に渡る歩みであることもわからないでしょう。
しかし、神の私達に任せられる計画は、実は永遠に神の計画の一端であり、私達はその壮大な計画を、永遠を思い、天の御国を思う信仰の内に悟ることができるのです。
それこそが重要なこと。
この永遠の内、天の御国の内に居られる神の御手の内に、私達の祈りが受け入れられた確信こそが、全ての見ていないことを実体化させ成就に至らせる、それが信仰です。
そしてその約束を握り続けて、生涯に渡って待ち望み続けるからこそ成就する、それこそが信仰なのです。
そして、この信仰こそが、神に従う神の民なのか、神に逆らう民であるのかを篩い分ける大きな要素であるからこそ、神の計画を担うための重要な要素となるのです。

今私達に語られている大きな神の計画は、私達の失敗などでとどまるものではありません。
神はご自身の愛と誠実をもって、ご自身の計画を私達の内に成就されます。
今そのために、主が私達に語りかけられる溢れる愛に耳を傾け、この神の計画を成就するために必要な天来の信仰が私達に与えられるように、共に祈ろうではありませんか。


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よみがえりに歩む

2017年01月01日
聖書箇所: ピリピ2:5

主は私達にこれまで多くのことを約束してくださいました。
しかし、その全ては人の力で成し遂げることの不可能なことです。
でもそのことは、神の御業の現れ方に非常にかなっています。
なぜなら、人の力に一切よらない事であるからこそ、栄光が神のみにより現される。神のみがその栄光を賛美されるということとなるからです。
むしろ人の力が使われ、人の手によるのであれば、その罪にまみれた手によりそれはどうしても汚された業となり、また人自らによる業としてどうしても栄光を自らのものとしてしまします。
さらに言えば、この人の力、人の業が神の御業を妨げるものとなるのです。
ですから、主はご自身の約束を神の御業として現されるために、私達を、主の栄光を現すにふさわしい器とするため、試練の内に砕き、あるいはその中で人の力が尽きるのを待たれることがあるのです。
聖書の内にはそのような扱いを受けた人々の姿が随所に語られていますが、ヨセフもその一人でしょう。
彼はまさに主の約束を夢とその解き明かしの内に受け取りましたが、それが自身の身に成就するにはその夢を語られた父ヤコブと十一人の兄弟と共に、試練の中を潜らなければならなかったのです。
その中で、ヨセフの人生にはイエスキリストの十字架の死と復活が現されていました。
まさに人の力の尽きた時、死んだも同様となったその時、人はキリストの死の内に入れられ、一つとなり、だからこそキリストの復活と勝利を見るように、ヨセフも自らの姿の内に、主の御言葉の成就するのを見ました。
これは私達も同様のことが言えます。
主が私達に約束された言葉は、一度主の訓練の内に、キリストの十字架の死と復活の経験を私達自身が体験する中で、やがて成就する。多くの人はこのキリストの死と一つになることを嫌うのですが、そこには本当の主の御業は現せません。
だからこそ主はご自身の御足の跡を、主を愛し、主と共に歩むことを選ぶ者に辿らせるのです。
主を選ぶ者を、主はご自身の選びの民として選ばれる。
祝福を願いその手を離さなかったヤコブの歩みがあったからこそ、この主のご計画はイスラエルの子孫に現されたのです。主イエスの十字架の死と復活と一つにされながら。
だからこそ、私達は主が私達に約束してくださった最初の言葉、福音の中に語り尽くされている主の莫大な祝福を、忘れることなく握りしめ、主の約束が我が身になるために待ち望み生きる必要があるのです。
そして、もしも私達がキリストと共に死に等しくされるのであれば、私達はキリストの復活とも等しくされ、また天に上げられた主と共に、神の御座の前に座する者とされるのです。
この時、全地は主の栄光が私達を通して、現実の世界に現されるのを目の当たりにし、感嘆と賛美と共にその救いが欲しいと主の民に連なる者が次々と起こされていくでしょう。
まさに主の御言葉がここに次々に成就し、真理(キリスト)に従うのではあれば何でもできるという驚くべき主の御業を目にすることとなるでしょう。
主は今このように、主の思いと同じ一つの思いとなって、十字架の死を共有する者に、よみがえりの御業を現そうと語り、溢れるよみがえりと栄光の御業の中に、私達にリバイバルを約束してくださっています。
これは全世界に対する主の勝利の約束です。
今年主の私達に約束してくださるよみがえりの約束の御言葉に、心から主と心一つにし、耳を傾けていこうではありませんか。


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