祝福の道のりを歩む

聖書箇所: 詩篇89:19-37

ダビデはその人生を、生涯神からの祝福のただ中を歩みました。
彼は神から特別に永遠の祝福の約束を受け取る者となりましたが、それは彼が特別に何かを持っているとか、何かができるとか、何か優れているというようなことには因りませんでした。
むしろ彼はエッサイの忘れ去られた末の子であり、羊の番をする小さな者に過ぎませんでした。
私達と条件は何ら変わりないと言っても過言ではないでしょう。
しかしこれほどに彼が祝福を受けたのは、彼が主を求め、主の義(神の統治)を求め、主の栄光をただひたすらに求めたから。
そして、それこそが神の家を建てるという願いに至らせ、その生涯をその目的の為に生きたということこそが、主の祝福を受ける大きな理由となったことに他なりません。
神はこのような生き方を求める者を、どれほどに喜ばれ愛されるのか。彼の姿こそが神の深い喜びの証しと言えるでしょう。
逆に一人(個人個人)の貪欲が、自己満足を求める生き方が、偶像礼拝が、国の滅びに至るまで、決して小さな事には留まらず、大きなことにまで伝染する様子を聖書は語っています。
まさにそれは、「主は与えない。主は自分を殺すのだ」という根強い偽りから始まる、エデンの園で人の心に植えられたサタンの偽りに端を発する罪の歩み。まさにイスラエルの民はあれほどに神の栄光を現されながら、この
偽りを手放すことができず、実に十度も神を試みたと主に言わしめ、主から離れ、滅びへの道を歩んだのです。
しかし、主ご自身の真の思いは、ご自身の命を、そして全てを与え尽くしても、私達を満たしたいという強い思いであり、一度主を受け入れた者達が必ず見た、十字架にご自身をささげた姿、つまり主の愛そのものであるのです。
この愛こそが、根強いこの偽りを、根底から覆すものであり、私達はそれを救いの始めから与えられていたのです。
そうである以上私達は、むしろ主の祝福の中に生きるべく、最初から与えられている主と永遠に共に生きる歩みを願うべきです。
私達の嗣業(相続地)は主そのものであり、私達が生きる全ての必要を全て主から満たされて生きる生き方、祭司・レビ人がそうであったように、万民祭司とされた私達は、この神の宮、神の永遠の都の中から離れることなく、むしろ永遠に主の栄光のみを求めて、永遠の主との交わり、永遠の礼拝に生きる者とされているのです。
それこそが、永遠の救いを今受け取っている者であり、この主のみを求め、神の御国を求め、主の栄光のみを求めて生きる生き方こそ、主を最も喜ばせる生き方となるのです。
それこそが主の祝福の真ん中を歩む歩き方。
この主の栄光の満ち溢れる神の御国、永遠の礼拝を、どれほど私達は日々の生活の中に求めているでしょうか。
生きる道のりの中でどれほど主の栄光を求めて歩んでいるでしょうか。
主の栄光は天にだけ満ちるのではなく、私達の毎日の中にこそ満ち溢れ、現れるのです。
今回はダビデの姿の中から、主の祝福の中に生きる生き方について共に分かち合いたいと思います。


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