【マタイ4:18-20】
さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
人生を変える出会いがあります。それは主イエスとの出会いです。
人生を変えるべき一言があります。それは主イエスから召されたときです。
主に出会った者は人生が変わります。
新しい命を与えられ、新しい人生を歩むからであり、それは私達が本来どのような目的で主により造られたのか、その本来の目的に沿った人生を歩むからです。
そこには、こんなはずではなかったと言う、人生を掛け違えるようなことはなく、主に従って行くならば、後悔の必要は決してありません。
そして、主の召しに躊躇する必要もありません。
主は私達の人生の全てを見ておられ、私達のこれまでの歩みを何一つ無駄にすることなく、最善の道のりを備えてくださるからです。
確かに主と共に歩むためには、これまでから全く新しい歩みであるため、すべてを捨てて従って行かなければならないでしょう。
しかし、その歩みは全てに勝る価値のある歩みとなります。
【マタイ19:27-29】
そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。
イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。
おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。
主に従って行くかどうかを決めることは一瞬かも知れません。しかし、そのことはあなた自身の永遠の歩みの価値を大きく決定することになるでしょう。
それはこの地上において、たとえイエスと同じ道を歩むことになったとしても、命よりもはるかに価値のある、神の喜びを一身に受ける恵まれた人生を歩むこととなります。
なぜなら、主に従い歩む道はいずれにしても、主の御足の跡をたどるという、唯一父なる神を満足させる道のりを、主と共に歩むからです。
そして主からの召しを大切に担って歩む歩みは、やがて主の秘めたる胸のうちをうかがい、その御思いを共有しながら歩むという、主と最も親しい交わりを持つ歩みとなるでしょう。
やがて天において主と顔と顔とを合わせてお会いするとき、その主との親しい交わりは何も変わることなく、いや驚くほどの親しさをもって、この地上での主との共なる歩みを、主と語り合えることでしょう。
それはどれほどの喜びであり、どれほど価値のあることでしょうか。
そうです。私達の人生は主にどれほど満足していただけるかであり、その喜びを主と共にどれほど共有できるかであり、そのことにより、主の栄光が私の人生にどれほどに輝きあらわれいでるかであるのです。私達の人生そのものは主への最上のささげものであり、主を喜ばせる最上の麗しい香りを放つものとなることができるのです。
主に従い歩む道のりは、どこまでも深く、底知れない価値を見いだせる道のりなのです。
それは主と出会った瞬間から始まる、主に従い行くかどうかという選択。あなたが主に向かい、まず一歩を踏み出すかどうかから始まるのです。
さあ、恐れずに、共に主に従ってまいりましょう。
さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
人生を変える出会いがあります。それは主イエスとの出会いです。
人生を変えるべき一言があります。それは主イエスから召されたときです。
主に出会った者は人生が変わります。
新しい命を与えられ、新しい人生を歩むからであり、それは私達が本来どのような目的で主により造られたのか、その本来の目的に沿った人生を歩むからです。
そこには、こんなはずではなかったと言う、人生を掛け違えるようなことはなく、主に従って行くならば、後悔の必要は決してありません。
そして、主の召しに躊躇する必要もありません。
主は私達の人生の全てを見ておられ、私達のこれまでの歩みを何一つ無駄にすることなく、最善の道のりを備えてくださるからです。
確かに主と共に歩むためには、これまでから全く新しい歩みであるため、すべてを捨てて従って行かなければならないでしょう。
しかし、その歩みは全てに勝る価値のある歩みとなります。
【マタイ19:27-29】
そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。
イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。
おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。
主に従って行くかどうかを決めることは一瞬かも知れません。しかし、そのことはあなた自身の永遠の歩みの価値を大きく決定することになるでしょう。
それはこの地上において、たとえイエスと同じ道を歩むことになったとしても、命よりもはるかに価値のある、神の喜びを一身に受ける恵まれた人生を歩むこととなります。
なぜなら、主に従い歩む道はいずれにしても、主の御足の跡をたどるという、唯一父なる神を満足させる道のりを、主と共に歩むからです。
そして主からの召しを大切に担って歩む歩みは、やがて主の秘めたる胸のうちをうかがい、その御思いを共有しながら歩むという、主と最も親しい交わりを持つ歩みとなるでしょう。
やがて天において主と顔と顔とを合わせてお会いするとき、その主との親しい交わりは何も変わることなく、いや驚くほどの親しさをもって、この地上での主との共なる歩みを、主と語り合えることでしょう。
それはどれほどの喜びであり、どれほど価値のあることでしょうか。
そうです。私達の人生は主にどれほど満足していただけるかであり、その喜びを主と共にどれほど共有できるかであり、そのことにより、主の栄光が私の人生にどれほどに輝きあらわれいでるかであるのです。私達の人生そのものは主への最上のささげものであり、主を喜ばせる最上の麗しい香りを放つものとなることができるのです。
主に従い歩む道のりは、どこまでも深く、底知れない価値を見いだせる道のりなのです。
それは主と出会った瞬間から始まる、主に従い行くかどうかという選択。あなたが主に向かい、まず一歩を踏み出すかどうかから始まるのです。
さあ、恐れずに、共に主に従ってまいりましょう。
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