リバイバルが来る日には

聖書箇所: 列王記上18:17-46

主は今この国の現状をご覧になりながら、この国を霊的な意味のおいて治めるべきクリスチャンのこれまでの歩みについてを問われています。
それは永遠の神の宮として、主の祭壇たる教会であるのか。
それとも自分達の思いで建て上げた人の造った祭壇たる教会であるのか。
人の思いを反映し、自分のために、自分の栄光を求め、自分の力で建て上げた祭壇を、主はどのような思いで見つめておられるのか。
「貪欲は偶像礼拝にほかならない。【コロサイ3:5】」と語られる主は、これを他の神々を祭る祭壇と何ら変わりのないものとしてご覧になっていることを聖書は厳しくも語っています。
この二つの祭壇が同居するこの国を、どうにか滅びから救い出したい。
まさに神から離れ祝福を退け続けた民に、神の祝福の雨が止められているかのようなこの国の現状は見れば、この国が滅びに向かっていることは一目瞭然でしょう。
この現状に気づかず、自らにのみ目が向けられて続けている姿に、教会の持つその祭壇の性質が現されていると言うことができるでしょう。
主は偶像の祭壇と化した祭壇を打ち壊し、主の祭壇を立て直さなければ、この国に祝福の雨が回復しないことをご存じです。つまりはこの国が滅びるしかなくなってしまうことを。
列王記上18:17-46にはエリヤの時代に行われた、霊的聖別と回復から国の回復に導かれるプロセス、つまりはリバイバルのプロセスがわかりやすく語られています。
そこにはまず主の祭壇を、救われた者達としての原点に立ち返って立て直し、完全なる聖別のためのきよめの水が祭壇に注がれ、そこに主の名が呼ばれるとき、主の火が降るという、教会(達)の信仰の原点からの建て直しが語られています。
すべてをきよめ焼き尽くす火は、聖霊の降る様と重なり、まさに初代教会の誕生の日と同様に、原点に返り、全き献身を現す全焼のいけにえの上に降るのです。
この霊が激しく降るとき、人々はどちらが真の神の祭壇か、真の神の現れをはっきりと確認し、自らの元にある偶像礼拝を自らの手で打ち壊し、神の元に立ち返るのです。
この備えができたとき、主は霊の内に大雨の音を聞かせます。
主は私達に何も語られずご自身の計画を進められることはありません。
そしてその音を聞いたなら、その雨が降らす雲を見るまで、祈り続けなければなりません。
決して止むことなく、主の熱心を帯びて、主がこの地を回復してくださることを願い、リバイバルの雨がこの地に降ることを祈り続けるのです。
この国が救われ日を見るまで。
主の思いをもって立て直された、主の真の祭壇であればこそ、主のこの国を救いたいと願う切望を汲み取り、破れ口に立って祈り続けることができるのです。
主は私達にこの国のリバイバルを託してくださっています。
主のリバイバルが来る日には、すでに私達の有り様が主に問われているのです。
この重要なテーマについて、今回は共に主の厳粛な語りかけに、真剣に耳を傾けていこうではありませんか。

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