【ルカ22:31-34】
22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
22:33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
22:34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
この言葉を語られたのは、弟子達が最後の晩餐の席でありながら、「自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうか(ルカ22:24)」と争論をしていた後のことでした。
彼らはこの世の基準を元に、そのような争論を繰り広げていたのですが、主が語り出されたことは、神の眼差しという、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(マタイ23:12,ルカ14:11)」という全く異なる基準を元に、「しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。(ルカ22:26)」と、この世の常識とは全く正反対のことを話されたのです。
「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである(マタイ20:28)」との言葉の通りに、主イエスは十字架で私達にご自身の命を与えてくださるほどに、ご自身を低くし仕えられました。
この主イエスの御足の跡をたどり、主と共に自分を低くすることにより、人々に仕え、そのことによりむしろこの地を治める者となる。
主イエスはそのような低く小さくあるけれど、壮大な神の御心を弟子達に語られました。(ルカ22:28-30)
それは主の弟子達に対する大きな願いだったのです。
しかし、誰が一番偉いかの争論はこのとき始まったものではなく、すでに幾度も繰り返されていたものでした。その都度神の国の基準について同様に主は語られてきましたが、もしもそこで弟子達が自らの高慢を自覚できたのであれば、このように主が十字架にかかられる前日、主が切に望まれた弟子達との最後の晩餐の時にまで、誰が偉いかなどと話してはいなかってでしょう。
そして弟子達はサタンにふるいをかけられることをゆるされました。
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。(マタイ26:31)」とあるように、数日前には子ろばに乗りエルサレムに入城された主イエスを「ホザナ」と叫び、エルサレム中で主イエスを来たるべき救い主として迎えたのに、この数時間後には、弟子達は捕らえられるイエスを一人置き去りに、逃げて行くのです。
それも主イエスが救い主ではなかったかのように恐れ怯え絶望して。
ペテロも主イエスの預言通り、主イエスを三度も否むことになります。
【マタイの福音書 26:74】
74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
とあるように、ペテロは主イエスをのろってまで、「知らない」と言い、自分の命を守ろうとしたのです。
のろうほどの否定、それは主イエスへの信仰を捨てることと同等の重い意味を持ちます。
しかし、彼こそサタンがふるいにかけることを神に願い許されたことを主が語られたとき、真っ先に主の言葉を命をかけて否定した者だったのです。
「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません(マタイ26:33)」
「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません(マタイ26:35)」
「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です(ルカ22:33)」
彼が「生ける神の子キリスト(マタイ16:16)」の言葉を、これほど力強く否定できたのには、彼自身の主を越えて自分で自分の信仰を誇れる高慢が、隠されているように思われます。
そうです。主イエスは弟子達に、ペテロに、忠告を与えたとき、その本質に、ただの漁師であったり、取税人であったり、取るに足らない者達であった弟子達が、いつの間にか高き者となっていた、この高慢の根強さを十分ご存知であったでしょう。
だからサタンのふるいでさえ、彼らの高慢を打ち砕く道具とされたのです。
なぜなら、弟子達に「わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせる(ルカ22:29,30)」ことが主の願いだったからです。
神の国における十二の部族をさばくほどの高き位を弟子達に与えるためには、彼らの高慢は致命的なものでした。
彼らはこの後、主イエスに続いて最も低められる者とならなければ、彼らにそれほどの高き位を神は与えることができなかったでしょう。
主イエスも従われた「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(マタイ23:12,ルカ14:11)」という神の国の法則の前に。
だから、その全てが完全に打ち砕かれるほど決定的に、弟子達は主につまづかなければなりませんでした。
そして、主の預言の通り、弟子達は主イエスを一人捨て逃げたし、その自らの主張した信仰は完全に打ち砕かれました。
同様にペテロは主をのろい信仰を捨てるほどに主を否定しました。
鶏が鳴いたとき、彼への預言を思い出し、自らが何をしでかしたのか、その深刻な事態に打ち拉がれたのです。
彼もこれまでの主との歩み、その全てが完全に打ち砕かれたのです。
しかし、そのときペテロを見つめた主の目(「主は振りむいてペテロを見つめられた。(ルカ22:61)」)はどれほどあわれみに満ちたやさしいものだったでしょう。
そこに込められている思いこそ、「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。(ルカ22:32)」という深い愛ととりなしだったでしょう。
自らの全てを打ち砕くほどの彼自身の失敗がなければ、彼はこの後誰の痛みも弱さもわからない、指導者になったことでしょう。
しかし、信仰にこれほどのつまづきと痛みを持ったからこそ、主イエスが「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:32)」と願われた通り、兄弟姉妹の弱さが痛いほどわかる者として、彼らを力づける者となった。
彼はこれまでのユダヤ人の指導者のような、高慢な指導者ではなく、小さく弱い兄弟姉妹に、心底仕える者となったことでしょう。
確かに私達の根強い高慢は、私達に決定的なつまづきを引き起こさせてしまうこともあるかも知れません。
しかし、私達のその失敗の最中にさえ、主は「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈っ(ルカ22:32)」て神にとりなしてくださる主であり、あなたが立ち直り、兄弟たちを力づけることを切に願い続けてくださる主なのです。
いや、そのような主であるからこそ、神の目からは失敗ばかりを繰り返す私達をも、兄弟を愛しまた仕え、主の御体たる教会を建て上げるに足る者としてくださるのです。
何たる不思議、何たる愛、何たる奇跡。
だから、私は主のみをほめたたえるのです。
どうか、あなたのつまづきにも、主の驚くべき愛とあわれみが満ちあふれますように。
※昨日のメッセージにも出てきた、今日の聖書箇所の前に語られている部分です。ご参照ください。
【ルカ】
22:24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
22:25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
22:27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。
22:28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
22:29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう
22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
22:33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
22:34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
この言葉を語られたのは、弟子達が最後の晩餐の席でありながら、「自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうか(ルカ22:24)」と争論をしていた後のことでした。
彼らはこの世の基準を元に、そのような争論を繰り広げていたのですが、主が語り出されたことは、神の眼差しという、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(マタイ23:12,ルカ14:11)」という全く異なる基準を元に、「しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。(ルカ22:26)」と、この世の常識とは全く正反対のことを話されたのです。
「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである(マタイ20:28)」との言葉の通りに、主イエスは十字架で私達にご自身の命を与えてくださるほどに、ご自身を低くし仕えられました。
この主イエスの御足の跡をたどり、主と共に自分を低くすることにより、人々に仕え、そのことによりむしろこの地を治める者となる。
主イエスはそのような低く小さくあるけれど、壮大な神の御心を弟子達に語られました。(ルカ22:28-30)
それは主の弟子達に対する大きな願いだったのです。
しかし、誰が一番偉いかの争論はこのとき始まったものではなく、すでに幾度も繰り返されていたものでした。その都度神の国の基準について同様に主は語られてきましたが、もしもそこで弟子達が自らの高慢を自覚できたのであれば、このように主が十字架にかかられる前日、主が切に望まれた弟子達との最後の晩餐の時にまで、誰が偉いかなどと話してはいなかってでしょう。
そして弟子達はサタンにふるいをかけられることをゆるされました。
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。(マタイ26:31)」とあるように、数日前には子ろばに乗りエルサレムに入城された主イエスを「ホザナ」と叫び、エルサレム中で主イエスを来たるべき救い主として迎えたのに、この数時間後には、弟子達は捕らえられるイエスを一人置き去りに、逃げて行くのです。
それも主イエスが救い主ではなかったかのように恐れ怯え絶望して。
ペテロも主イエスの預言通り、主イエスを三度も否むことになります。
【マタイの福音書 26:74】
74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
とあるように、ペテロは主イエスをのろってまで、「知らない」と言い、自分の命を守ろうとしたのです。
のろうほどの否定、それは主イエスへの信仰を捨てることと同等の重い意味を持ちます。
しかし、彼こそサタンがふるいにかけることを神に願い許されたことを主が語られたとき、真っ先に主の言葉を命をかけて否定した者だったのです。
「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません(マタイ26:33)」
「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません(マタイ26:35)」
「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です(ルカ22:33)」
彼が「生ける神の子キリスト(マタイ16:16)」の言葉を、これほど力強く否定できたのには、彼自身の主を越えて自分で自分の信仰を誇れる高慢が、隠されているように思われます。
そうです。主イエスは弟子達に、ペテロに、忠告を与えたとき、その本質に、ただの漁師であったり、取税人であったり、取るに足らない者達であった弟子達が、いつの間にか高き者となっていた、この高慢の根強さを十分ご存知であったでしょう。
だからサタンのふるいでさえ、彼らの高慢を打ち砕く道具とされたのです。
なぜなら、弟子達に「わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせる(ルカ22:29,30)」ことが主の願いだったからです。
神の国における十二の部族をさばくほどの高き位を弟子達に与えるためには、彼らの高慢は致命的なものでした。
彼らはこの後、主イエスに続いて最も低められる者とならなければ、彼らにそれほどの高き位を神は与えることができなかったでしょう。
主イエスも従われた「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(マタイ23:12,ルカ14:11)」という神の国の法則の前に。
だから、その全てが完全に打ち砕かれるほど決定的に、弟子達は主につまづかなければなりませんでした。
そして、主の預言の通り、弟子達は主イエスを一人捨て逃げたし、その自らの主張した信仰は完全に打ち砕かれました。
同様にペテロは主をのろい信仰を捨てるほどに主を否定しました。
鶏が鳴いたとき、彼への預言を思い出し、自らが何をしでかしたのか、その深刻な事態に打ち拉がれたのです。
彼もこれまでの主との歩み、その全てが完全に打ち砕かれたのです。
しかし、そのときペテロを見つめた主の目(「主は振りむいてペテロを見つめられた。(ルカ22:61)」)はどれほどあわれみに満ちたやさしいものだったでしょう。
そこに込められている思いこそ、「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。(ルカ22:32)」という深い愛ととりなしだったでしょう。
自らの全てを打ち砕くほどの彼自身の失敗がなければ、彼はこの後誰の痛みも弱さもわからない、指導者になったことでしょう。
しかし、信仰にこれほどのつまづきと痛みを持ったからこそ、主イエスが「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:32)」と願われた通り、兄弟姉妹の弱さが痛いほどわかる者として、彼らを力づける者となった。
彼はこれまでのユダヤ人の指導者のような、高慢な指導者ではなく、小さく弱い兄弟姉妹に、心底仕える者となったことでしょう。
確かに私達の根強い高慢は、私達に決定的なつまづきを引き起こさせてしまうこともあるかも知れません。
しかし、私達のその失敗の最中にさえ、主は「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈っ(ルカ22:32)」て神にとりなしてくださる主であり、あなたが立ち直り、兄弟たちを力づけることを切に願い続けてくださる主なのです。
いや、そのような主であるからこそ、神の目からは失敗ばかりを繰り返す私達をも、兄弟を愛しまた仕え、主の御体たる教会を建て上げるに足る者としてくださるのです。
何たる不思議、何たる愛、何たる奇跡。
だから、私は主のみをほめたたえるのです。
どうか、あなたのつまづきにも、主の驚くべき愛とあわれみが満ちあふれますように。
※昨日のメッセージにも出てきた、今日の聖書箇所の前に語られている部分です。ご参照ください。
【ルカ】
22:24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
22:25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
22:27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。
22:28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
22:29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう
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