はじめに神

2018年01月01日
聖書箇所: 創世記1:1

私達は神の御業が現れた時、その人知を超えた神の御業の前に喜び、その全貌がどれほど壮大で深い神の御思いの中にあることを窺い知ることができません。
あまりに小さすぎる人は、その後に現れる現実に打ちのめされ、全てが終わってしまったかのように、思う時もあるかも知れません。
神の業を打ち消さんとするサタンの手の前に、絶望に打ちのめされるかも知れません。
しかし、主の壮大な御業は何一つ揺るぐことはないのです。
そう、始めの神の御業はその後に続く壮大な神のご計画のプロローグに過ぎないのです。
神のこの壮大な計画を知らぬ人間は、人自らの罪にまみれた計画の内に、神の計画を台無しにしてしまいます。
しかし、主はその全てを除いても、ご自身の最初から立てられたご自身の計画を必ず完成される神なのです。
神はそうまでしても、神の民一人一人を通して、ご自身のご計画を成そうと願われているのです。
私達はこのどこまでも憐れみ深い神のご計画がなるために、真に主への従順を知る時を迎えているのかも知れません。
主は今ご自身の始めから持っておられた救いのご計画をこの国に現そうとしておられます。
だからこそ今私達は、その始めから主に従おうではありませんか。
私達の全ての「はじめに神」を置こうではありませんか。


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聖書箇所: ルカ2:22-38

神は今まさに、新しい天新しい地にある永遠の都の神殿を建てるための準備を、私達の内に成しておられます。
この神殿こそ私達自身であり、永遠の神の家の準備はこの地の私達の神との歩みの中に行われているのです。
主はご自身を私達に語りかけられる御言葉の内に現し(啓示され)、この主ご自身を霊の内に鏡に映すように見て、私達をご自身の栄光の似姿に日々造り変えてくださっているのです。
私達に語りかけられる、この神の御言葉は天からのことを語る霊の言葉であり、神の啓示によらなければ何一つ知ることがゆるされません。
しかし、人は人の知恵によって、それに届こうと、人の知恵を積み重ねる宗教としての歩みをこの地に重ねてきました。そして、神の家の準備はむしろ、その偽りの、地に着く肉の知恵によって、阻害されてきました。
神の知恵は聖霊によらなければ何一つ知り得ないこと、人はそのように心から主の御声(啓示)を求めてきませんでした。
あの神の御言葉を預けられたイスラエルの民が、その人の知恵によって、来るべき主を知り得なかったのとちょうど同じように。
今主はこの降誕の時の御言葉の中に、「異邦人を照らす啓示の光」という言葉によって、はっきりと私達にその驚くべき恵みを語り聞かせてくださっています。
そして、この始めの啓示を、小さき年老いた、しかし主を待ち望み聖霊に導かれた者に現されたのです。
神は今この啓示、預言の言葉により、暗き世を照らす先駆けの光として、明けの明星たる主ご自身を、私達の内に現そうと、私達に語りかけてくださっています。
世が暗ければ暗いほど、輝ける先駆けの啓示の光、今まずこの主の御言葉に耳を傾け、再臨の主を迎えに私達も進み行こうではありませんか。


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聖書箇所: マタイ2:1-21

主のご降誕の時には必ず語られるインマヌエルの預言イザヤ7:14ですが、実はこの言葉が語られた時、その言葉はそのまま受け入れられたのではなく、むしろ拒絶をされました。
預言者イザヤは当時のユダの王アハブにこの言葉を語ったのですが、そもそも当時ユダが脅かされていたイスラエルとスリヤの王の謀略に対する救いを約束した主の言葉、それを信ずることができるよう、しるしを求めよと主はアハブに迫られた、それがこの箇所です。
しかしアハブはこの主に頼ることはしないと主を拒絶するのです。
そして、語られた預言を自らの力で実現すべくこの2国に対抗するためアッスリヤを金で雇うのです。
そして、むしろこのスリヤの王が崇める神を自らも崇めれば力が得られるだろうと、神の祭壇を捨てスリアの神の祭壇をそこに築き、神を怒らせました。
このことは決して他人事とは言えません。なぜならこのイスラエルの姿は今の時代の日本の状況に酷似しているということができるからです。
近隣国の脅威から守られるために、列強国の力を借りようと同盟関係に右往左往する。
しかし、この平和を守るためシャロームの君である神にのみ頼るということをしない。それは神を知らない者だけではなく、神を信じるクリスチャンがむしろ自らの生活にのみ関心を持ち、主に平和を求めることをしない。
主は今私達をそしてこの国をどのような思いで見つめておられるでしょうか。
このインマヌエルの預言と神への拒絶は、この救い主の誕生においても現実のものとなります。
ユダヤ人の王として生まれる救い主の
誕生を、当時のイスラエルの王ヘロデは危惧し、殺害を企てます。
また救い主の誕生を迎え入れるため選ばれた選びの民であるイスラエルの民も同様に救い主の誕生を、自らの変わらぬ生活を脅かすものとして拒絶し喜ばないのです。
主イエスはこの拒絶の中で誕生しました。
しかし、この誕生を何よりも心待ちにし、喜び、迎え入れたのは、小さく弱い神を頼りとするしか生きることのできないような者達でした。
また同様にはるかいにしえの預言を信じ、ただ救い主を求めて、はるか遠くから旅した博士達。彼らは私達に先駆け異邦人でありながら救い主の降誕を迎えることを許される恵みにあずかりました。
さあ、今私達はどのような面持ちでこの救い主をお迎えするでしょうか。
主はこの救いの必要な罪の熟したこの国に、ご自身が臨まれ救われると幾度も語りかけておられます。
ですからこの時、私達が自らの生活に追われ、世を求めて生きる者達であるなら、この主の訪れは迷惑以外の何ものでもなく、主のご降誕は形だけの喜びの時となるでしょう。
今主は本当に心から主をお迎えする者達を求めておられます。
それは心から救い主を求めるがゆえ、最上のささげ物をささげることのできた博士達のように。
決して人の知恵では辿り着くことのできない、神のご計画された救い主だけにふさわしいささげ物、そしてそこにささげられた最上の礼拝。
今私達が心から主が来られることを求め望むなら、私達は主への最上のささげ物、礼拝をもって、主をお迎えすることができるでしょう。
今回は主のご降誕を心から喜び、まさにこの国に救いを携えて来ると語られる主の御言葉に、心から耳を傾けて参りましょう。


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箇所: イザヤ9:1-7

主はご自身の計画を、人の目にふさわしく見える大きくかしこく優れた者にではなく、私達のような小さな者を選び、そこ(教会)を通して成すことを望まれました。
それは、主の計画であるからです。ただ主の熱心によってのみ成し遂げられる業であるからです。
人の手で作り上げられている世は、神に敵対するもので溢れています。であるからこそそこは罪に満ち、であるからこそ主はただご自身にのみ寄り頼む他は何もできない小さな者達を通して真の解放の業を成し遂げる。それはリバイバルの時。
罪が満ちる世の真の希望、光、命、救いとなり得るのは、人の業ではなく、唯一救い主イエスキリストによる業に他ならないのです。
主によってこの地を勝ち取る小さな者達、その業はギデオンの時代から、主イエスの降誕預言へ、そして今の私達に強く熱く語りかけてくださっています。
主の召しを担うべく建てられた小さな者達に語られる主の私達へのあわれみに満ちた大きな計画に、勇気を持って耳をかたむけていこうではありませんか。


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聖書箇所: 申命記6:1-9

私達が神、主を唯一の主とする時、この方に従い、この方を愛し、この方の御心と心一つして歩む時、驚くべきことに、私達を通して神の統治はこの地に現れます。
私達の心の王座に着かれた全地の真の王は、この世の支配を全て超えて、神のご自身の支配を私を通して現され、それは現実の世界にも決定的な主の現れとして、御業の内にその栄光の内に、私達の生活の中に現れるのです。
神は私達をそのような神の王国の民として、ご自身の御言葉により、そして自ら十字架に身をささげることにより、世から分離してくださいました。
この十字架の死の向こうにあるよみがえり、新しく生まれた者しか入ることのできない神の国に、主はご自身の身を裂いて私達を入らせてくださったのです。
それは主の私達に約束された新しい地、そこにある魂を勝ち取るために他なりません。
今この死をも恐れず、主を愛し、主に近づき、主と共に御足の跡を歩む弟子達を、主は求めておられます。
そして私達こそ、そのために主によって新しい命を与えられたクリスチャン、主の弟子達なのです。
今主の思いに耳を傾け、主に愛され主を愛する真の弟子として、この地に遣わされたクリスチャンの真の歩みを共に歩もうではありませんか。


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