神の主権の民となる

聖書箇所: ダニエル4:3

神が永遠に全地(天地万物)を統べ治められる。全ての主権は主にある。
この最も聖書で重要な、最もシンプルな真理を、私達はどう受け止めているでしょうか?
まさしくこの真理こそ「福音」。
人はこの最も重要な事実を、容易に受け入れことはできません。
生まれながらに神に逆らい、神を退けて生きるよう、罪の性質を持って生まれた人には、そのことを受け入れるには主の多大の努力が必要なのです。
神の主権ということを中心に語られているダニエル書においても、神の多大な努力と、それを人がどのように受け入れるか、あるいはその愛を退けるのであればどのような現実が待っているのかということについて、明示されています。
主はご自身を退け自らこそ王であると王座に座る人に、憐れみをもってご自身の主権について語られます。
しかしそれを聞いてなお退ける者に、主はさらに熱意と憐れみをもって、滅びに向かうその人の心を打ち砕くことがあっても、永遠の滅びに至ることがないように、ご自身の御手を置かれるのです。
その心が主の前に芯から砕かれ、悔い崩おれて、主の前に心からひざをかがめるとき、人は主の祝福の元に本来の人としての歩みに戻ることができるのです。
主と共に「地を治めよ」と語られた私達の本来の人としての歩みに。
まさにこの国はこの主権を退け、神を退けて、人の力と知恵の上に、自らの反映を築き上げて来た国。
しかし、主は同様に強い憐れみをもって、この国に臨もうとしておられます。この国が滅びてしまうことがないように。
そして主は御手を置かれようとしている。
この国生き、この世の強い力の中で、世の常識の強い影響に晒されているクリスチャンも、それは例外ではないでしょう。
むしろ、だからこそ今主は私達に「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない【レビ11:45】」と、この世から聖め別かたれるよう語られているのです。
そもそも人はサタンに偽られ、サタンと同様に自ら神のようになれると、「自分」というものに目覚め、自らの満足のために人は生きるようになったのです。
だから、そのようにサタンの偽りに心奪われ、自らの満足のために生きようとする者には、この神の主権の語られている「福音」を受け入れることはできません。
この神の言葉を受け入れるか退けるかは、まさに神を受け入れるかそれとも神を退けるかということに通じているのです。
そしてそれは世の終わりが近づくにつれ、神の言葉が全ての人々を二分するようになるのです。
このことはもちろんクリスチャンも例外ではありません。
今主は私達にこの主の言葉にいかに答えるかを見ておられます。
この言葉に心から砕かれて主を主権者(王)として受け入れるのか、それともこの御言葉ごと退けるのか。
今回は主権者として王として来られる主を、滅びに向かうこの国に生きるクリスチャンとして、いかに心からひざをかがめて迎え入れるかということについて、溢れる主の憐れみの言葉に耳を傾けて参りましょう。


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