【2サムエル24:18】
その日ガデはダビデのところにきて彼に言った、「上って行ってエブスびとアラウナの打ち場で主に祭壇を建てなさい」。
人はいつまで経っても自分の力に頼り、誇ります。
特に、自分に経験が豊かになり、自信がつき、自分の力でいろいろなことができるようになると、そのような人間の本質が見え隠れします。
しかし、これは神の前に何の意味もないことです。
全能なる方、絶大な力を持つ神の前にそれは塵のようなものに過ぎず、私達の力は自分の「髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない」微弱な存在です。
だからこそ、私達が神により頼まずに生きることのできる日など、ただの一日、いや一刻一秒もないでしょう。
しかし、そうであるにも関わらず、その事実を自己過信のうちに忘れ、自らの力を頼り、誇る者は、神により頼む存在どころか、知らずにいても、神を必要とせず、自力で生き、やがて神を退け、神に対抗する存在となるのです。
これは潜在的でありながら、全ての人が持っている罪の根幹に関わる、人間の本質と言うことができます。
「 神のように(創世記3:5)」なる。神無しで「わたしは有る」という存在に、人はなりたいのです。そしてそれが人の最初の罪です。
今日の箇所ではそれに続く聖書の遡る箇所に
【2サムエル24:1】
主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。
とあります。そこから推察されることは、イスラエルの民も同様に自らの力を誇った。そして、また同様にダビデも自らを誇り、その結果として自らの力を誇るため民の人数を数えようとしたのでしょう。
このダビデの強制的な人口調査はその罪のゆえに神を怒らせました。
ダビデは自ら気づき神の前に罪を悔いますが、裁きはイスラエルの民に及びます。ことは「七万人(歴代志24:15)」の人々が死ぬほどの大惨事に至りました。
この時、ダビデが主の前に悔いても、この人の(本質的)罪に対する贖いの命の代価が、まだ支払われていなかったのです。
そこで、今日の箇所にあるように、主は罪の贖いについて語られたのです。
真の悔い改めは十字架の贖いなしに存在することはありません。
自らに高ぶる私達は、肝心なものが何一つ見えず、しかしその目には自らの栄光(神から奪った栄光)しか目に入らず、とてつもないかけ違いをしでかします。
それは信仰経験が長く、豊かになればなるほど、その危険があるのです。
私達はしっかり自分で何でもできる、『できる信仰者』ではなく、神がいなければ『何もできない信仰者』であるべきなのです。
これほど高ぶった私達に、だから自らを最も卑しめられ、侮られ、痛めつけられ、神にも見捨てられ、永遠に裁かれた、最も低き者となり十字架にかけられた、主イエスの命の代価が必要なのです。
私達はこの十字架の前に、心砕かれ、低められ、悔い崩おれて、悔い改めなければ、サタンへと自らを変え、滅びへと自らを進めていく道から逃れることはできないのです。
しかし、この十字架に自らを低める神への謙遜の道が開かれる時、そこにこそ自らが果たすべき自らの使命、神に与えられた召し、自らの生きる道が見えて来るのです。
【1歴代志21:27,28-22:1,2】
21:27 また主がみ使に命じられたので、彼はつるぎをさやにおさめた。
21:28 その時ダビデは主がエブスびとオルナンの打ち場で自分に答えられたのを見たので、その所で犠牲をささげた。
[中略]
22:1 それでダビデは言った、「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである」と。
22:2 ダビデは命じてイスラエルの地にいる他国人を集めさせ、また神の家を建てるのに用いる石を切るために石工を定めた。・・・
ダビデは神の家を建てる悲願を抱えていましたが、それはその子ソロモンに於いて成就することとして、神から約束を与えられていました。
けれども、ダビデの心はこの主の家のために何が自分自身にできるのか。何を主にこの地上でささげることができるのかということでいっぱいだったのでしょう(1歴代志28,29章より)。
だからこそ、この贖いの代価をささげるアラウナ(オルナン)の祭壇を建てたとき、この場所が「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである(22:1)」と、神殿を建てるのに最もふさしい場所であることがわかったのです。
驚くべきことに、父なる神が私達に御子をさえ惜しまずに与え贖いの供え物とされる十字架の型となる出来事、アブラハムがイサクを主にささげようとしたモリヤの山はこの場所であったのです。
【2歴代志3:1】
ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。そこは父ダビデに主が現れられた所、すなわちエブスびとオルナンの打ち場にダビデが備えた所である。
ここに真の贖いの恵みをダビデは受け取ったことがわかると思います。
私達の歩みは十字架の御足の跡をたどることであり、しかしそれは決して自らを誇り自らを喜ばせる道ではありません。しかし、そこに溢れる十字架の愛と恵みを受け取り、主と共にこの地では低められるけれど、天に於いては高きにまで引き上げられる、栄光の道を歩むことなのです。
【ピリピ2:6-11】
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
2:10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
2:11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
今はごくわずか見えても、主は全てをご存じです。自らの高慢を省み、主の十字架の前に、この恐ろしき罪を悔い改め、溢るる神の恵みを今受け取りましょう。
その日ガデはダビデのところにきて彼に言った、「上って行ってエブスびとアラウナの打ち場で主に祭壇を建てなさい」。
人はいつまで経っても自分の力に頼り、誇ります。
特に、自分に経験が豊かになり、自信がつき、自分の力でいろいろなことができるようになると、そのような人間の本質が見え隠れします。
しかし、これは神の前に何の意味もないことです。
全能なる方、絶大な力を持つ神の前にそれは塵のようなものに過ぎず、私達の力は自分の「髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない」微弱な存在です。
だからこそ、私達が神により頼まずに生きることのできる日など、ただの一日、いや一刻一秒もないでしょう。
しかし、そうであるにも関わらず、その事実を自己過信のうちに忘れ、自らの力を頼り、誇る者は、神により頼む存在どころか、知らずにいても、神を必要とせず、自力で生き、やがて神を退け、神に対抗する存在となるのです。
これは潜在的でありながら、全ての人が持っている罪の根幹に関わる、人間の本質と言うことができます。
「 神のように(創世記3:5)」なる。神無しで「わたしは有る」という存在に、人はなりたいのです。そしてそれが人の最初の罪です。
今日の箇所ではそれに続く聖書の遡る箇所に
【2サムエル24:1】
主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。
とあります。そこから推察されることは、イスラエルの民も同様に自らの力を誇った。そして、また同様にダビデも自らを誇り、その結果として自らの力を誇るため民の人数を数えようとしたのでしょう。
このダビデの強制的な人口調査はその罪のゆえに神を怒らせました。
ダビデは自ら気づき神の前に罪を悔いますが、裁きはイスラエルの民に及びます。ことは「七万人(歴代志24:15)」の人々が死ぬほどの大惨事に至りました。
この時、ダビデが主の前に悔いても、この人の(本質的)罪に対する贖いの命の代価が、まだ支払われていなかったのです。
そこで、今日の箇所にあるように、主は罪の贖いについて語られたのです。
真の悔い改めは十字架の贖いなしに存在することはありません。
自らに高ぶる私達は、肝心なものが何一つ見えず、しかしその目には自らの栄光(神から奪った栄光)しか目に入らず、とてつもないかけ違いをしでかします。
それは信仰経験が長く、豊かになればなるほど、その危険があるのです。
私達はしっかり自分で何でもできる、『できる信仰者』ではなく、神がいなければ『何もできない信仰者』であるべきなのです。
これほど高ぶった私達に、だから自らを最も卑しめられ、侮られ、痛めつけられ、神にも見捨てられ、永遠に裁かれた、最も低き者となり十字架にかけられた、主イエスの命の代価が必要なのです。
私達はこの十字架の前に、心砕かれ、低められ、悔い崩おれて、悔い改めなければ、サタンへと自らを変え、滅びへと自らを進めていく道から逃れることはできないのです。
しかし、この十字架に自らを低める神への謙遜の道が開かれる時、そこにこそ自らが果たすべき自らの使命、神に与えられた召し、自らの生きる道が見えて来るのです。
【1歴代志21:27,28-22:1,2】
21:27 また主がみ使に命じられたので、彼はつるぎをさやにおさめた。
21:28 その時ダビデは主がエブスびとオルナンの打ち場で自分に答えられたのを見たので、その所で犠牲をささげた。
[中略]
22:1 それでダビデは言った、「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである」と。
22:2 ダビデは命じてイスラエルの地にいる他国人を集めさせ、また神の家を建てるのに用いる石を切るために石工を定めた。・・・
ダビデは神の家を建てる悲願を抱えていましたが、それはその子ソロモンに於いて成就することとして、神から約束を与えられていました。
けれども、ダビデの心はこの主の家のために何が自分自身にできるのか。何を主にこの地上でささげることができるのかということでいっぱいだったのでしょう(1歴代志28,29章より)。
だからこそ、この贖いの代価をささげるアラウナ(オルナン)の祭壇を建てたとき、この場所が「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである(22:1)」と、神殿を建てるのに最もふさしい場所であることがわかったのです。
驚くべきことに、父なる神が私達に御子をさえ惜しまずに与え贖いの供え物とされる十字架の型となる出来事、アブラハムがイサクを主にささげようとしたモリヤの山はこの場所であったのです。
【2歴代志3:1】
ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。そこは父ダビデに主が現れられた所、すなわちエブスびとオルナンの打ち場にダビデが備えた所である。
ここに真の贖いの恵みをダビデは受け取ったことがわかると思います。
私達の歩みは十字架の御足の跡をたどることであり、しかしそれは決して自らを誇り自らを喜ばせる道ではありません。しかし、そこに溢れる十字架の愛と恵みを受け取り、主と共にこの地では低められるけれど、天に於いては高きにまで引き上げられる、栄光の道を歩むことなのです。
【ピリピ2:6-11】
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
2:10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
2:11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
今はごくわずか見えても、主は全てをご存じです。自らの高慢を省み、主の十字架の前に、この恐ろしき罪を悔い改め、溢るる神の恵みを今受け取りましょう。
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