永遠の望みに生きる

聖書箇所: レビ25章

聖書において再臨の日を待ち望むことに視点を置いて信仰生活を送るということは、新約聖書にのみ見ることのできる視点ではありません。
すでにモーセが預かったイスラエルへの律法の中に、本質的再臨信仰を見出すことができます。
ヨベルの年というイスラエルの民への完全な解放の年という概念は、この再臨に際して、私達が完全なる解放を得ることを啓示しているものです。
そこには
?ラッパの音と共に自由がふれ示され完全なる解放が与えられること
?私達の本来の嗣業の地である天国に戻ること
?ヨベルの年(再臨の日)から逆算して生活が営まれていること
?罪と死の奴隷となっていた私達が完全に解放される(からだが贖われ救いが完成する)
ことが語られています。
イスラエルの生活の中に刻まれた風習であり概念であるものは、まさに私達が天から来て天に帰る者が、再臨の時至るまで地上に遣わされ、救いが我が身にそして全地に完成するのを待ち望むことを中心に生きるべきことを表しています。
私達はこの永遠の重い栄光を望み見ながら、やがて万物が主に統べ治められ足もとに従わせられる日を、主と共に万物を治めるキリストの御体とされた者として、待ちに望むものであるのです。
そしてそのように造られたキリストの御体として、キリストご自身がそのうちに満ちみちているのが、本来私達教会であるのです。
主の霊に満たされることなしにこのことを本質的に知り得ることはできないでしょう。
つまり主をお入れする宮として、この地で主ご自身が満ちることなしに、主の宮としての備えをすることはできないでしょう。
天の家の備え(天の主の宮)と地の家の備え(教会)は連動されているのです。
だからこそ、私達はこの地に於いてするべきことはたくさんあるように思えても、本質的にはこの地上の体、命が一つしかないのですから、ただ一つのことしかできないということを思いみるべきです。
「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。【詩篇27:4】」
私達がこのように生きることは聖霊の満たしにつながり、また御国がこの地に顕現するリバイバルに直結していることです。
同時にそのように生きる時、私達は主を満足させる最上のささげ物を、自らの人生全てを通してささげるために生きる生き方をするでしょう。
今回はペンテコステの日を控え、聖霊の満たしと再臨信仰について、私達クリスチャンの本質的信仰生活という側面を重視しながら、共に考え分かち合って行きたいと思います。

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