罪の故に立て

聖書箇所: ヨエル1:13ー16

主は私達の罪のために、贖いの供え物として十字架にかかってくださいました。
その贖いを受け取った者は、自らの罪にとどまり続けるのではなく、今度はその贖いの愛を胸に、誰かの罪をとりなす者として、主の前に立つようになります。
まさに私達は万民祭司と言われますが、このことにおいても、それは変わりなく、祭司の罪祭の規定同様、この罪のとりなしにより主に生かされ、さらに主の贖いの愛をより深く知る者とされるのです。
この地(国)はまさに王なる主イエスキリストを知らず、まるで士師記の時代の荒んだイスラエルの民の様相と同じく、「おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなっ【士師記21:25】」て、好き勝手に、罪を重ねて生きています。
しかしそのゆえに滅びようとするこの地を主は断腸の思いで惜しまれます。
だからこそ、まず主は神の家を取り扱われる。
その心が神から離れ、あるいはいつの間にか信仰の中に(自らの肉に従うがゆえに生み出された)偶像が紛れ込んで置かれているような、教会の現状を、神が喜ぼうはずはありません。
主はこのような教会を、神の律法を預かる民とされながら、その直後に金の子牛を造り出し、それを神という名で呼んで、好き勝手に祭りを作り出し、神を怒らせ滅ぼされようとしたイスラエルの民と同様に見ています。
そして、その時神への徹底した聖別をもって神の憐れみを請い滅びを免れた時のように、今神の家の徹底した聖別を強く求めておられるのです。
主はこの地に臨まれる日は近いと再臨の約束と同時に私達に、リバイバルの約束をもって語り続けてくださっています。
しかし、主が臨まれる日に私達が神を喜ばせる者として、主を心より愛し主をお迎えする日を待ち望んで備えているか、それとも自らの欲望を妨げる神を、退けようと逆らい、神と戦う者となるかとでは、その日の迎え方は大きく異なるでしょう。
まさに私達の裁きや報いと言われているものは、単純に神に対してどのようであるかという基準に基づきます。
主は今、この国の時が満ちたことを示し、ご自身がこの国に臨まれるに当たり、ご自身の神の宮をご自身の命によって建て直そうとされています。
主は天にある神の宮を、ご自身の教会の中に顕現させることを願い、私達を御座の前にまで引き上げ、天の御国に生きる豊かな神との交わりの内に入れてくださいます。
そのように神の宮が建て上げられる時、宮の再建によりエルサレム(都)が建て直されたように都が、つまりは私達の生活する場所が続いて建て直されます。
そしてそれこそがエルサレム再建によってイスラエルの国が建て直されたように、この国全体を建て直すことと繋がるのです。

主は私達からご自身のリバイバルを始められ、この国を救おうと願われています。
さあ、今のこの国のこの時代に生きるクリスチャンとして、時代が変わろうとしているこの重要な時に語られている主の思いに、共に主に心伏して耳を傾けていこうではありませんか。


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