主の日に備えよ

聖書箇所: ヨエル1:4-12,2:1,2

主は今この国に迫る多くの災害や異常気象、戦争への不安、経済危機への不安などを指し、このことが決して聖書の語る言葉と矛盾していないことを語られています。
つまりはこの国の時が満ちている、罪が熟して、滅びへの道へ向かう、自らの罪ゆえののろいを自ら刈り取る時期に向かっていることを、終末の預言と重ねて私達に示しています。
その時にこそ、神の思いを内に持ち、神のご計画のために召し集められた教会がどのようであるのかということを、主は見ておられるのです。
主は私達が、罪から贖いによって解放され逃れることのできる逃れの町としての役割を担っている、それこそが教会の大きな働きであると語られます。
罪の贖いを担う大祭司に仕える祭司として私達は如何に他人の罪に対して向き合って生きているでしょうか。
また私達こそ罪深く、弱く、小さく、寄りどころなく、そのような所から主のものとされたからこそ、主の目が同様に小さき者、弱き者、虐げられている者、寄る辺なき者に今もまさに向けられており、私達もそのような人々に心注ぐべき者であることを、御言葉は表しています。
そして、自らの生活に目を向け続け、神を退けて、どのように主に礼拝をささげられるのか。むしろ自らのために自らの都合の良い神をつくり出し、その偶像を神と呼んで祭る礼拝を、厳しく退けると警告されています。
またそのように、神を退け自らつくり出した偶像にひざをかがめ続けるなら、つまりは主を退け続けるのであれば、主がそこから去りうることを、だからこそ、罪はさらに満ち、結果としてののろいを、災いを自らの身に招いていることを厳しく指摘しています。
このまま時代が進むのであれば、やがて時代はかつての歴史と同じように、迫害の手の中、信仰すら貫くことが難しい時が来るかも知れません。
そのときこそ、燃えさかる炎の中に投げ入れられることを恐れず、主のみを信じ、「たといそうでなくても」と信仰のゆえに命を落とそうとも、本当の主権者、全地を統べ治む唯一の王は主イエスであると、この方にのみひざをかがめる、ダニエルの3人の友人達のような、信仰が私達には必要となるでしょう。
そんな信仰を主はどれほど喜ばれることでしょうか。
主はその信仰に決して答えない方ではありません。むしろそれこそがこれからの厳しい時代にも信仰者として生き続ける大きな力となることでしょう。
だからこそ、今主はこの時を、主が臨まれる「主の日」と重ねて、この日に備えて、ラッパを吹き鳴らせ、警報を吹き鳴らせと、神の警告を語り続けるよう迫られています。
主がこの地に臨まれる時は、終わりの日に再び臨まれる時と同様、刺し通された者としての姿で来られます。
我が為に十字架にかかられた姿のみが、今の私達が如何に神から離れ、神の思いから心離れているか、その罪の心を、姿を、照らし出すのです。
「この方を見よ。自らを嘆き、心から悔い改めよ。」
これからの時代のクリスチャンに主が語られる、厳しくも真実なる神の言葉に、心から伏し耳を傾けていこうではありませんか。


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