主のみを愛し

聖書箇所: 創世記45:5-11

主イエスはその十字架の死と復活により、世(の全てのもの)に勝利しました。
この事実に立って私達は生きているでしょうか。
主のこの愛をちゃんと受け取っているでしょうか。まただからこそ神を愛する者として生きる歩みを続けているでしょうか。
もしも主にあって生きるのであれば、確かに勝利を得る人生を生きるでしょう。
しかしこの主が勝利したはずの世にあって私達が生きるのであれば、私達の人生は悩みの中に、つまりは敗北の中に生きることとなります。
主を愛し主にあって生きるか。世を愛し世にあって生きるのか。
確かに聖書は終わりの時には、神から離れ、自らを愛し自らの欲望に身を任せ、世に戻ろうと望む者達が、神に救われた者でありながら現れるようになると語っています。
けれども同時に世に生きるということは、その骨折りと悩みの中にあっという間に過ぎ去る虚しい人生を歩むこと意味するとも語っているのです。
ですから私達はこの中に戻りゆく者として生きるのではなく、むしろ神の愛によってこの世から神に聖め別かたれた者として、この世の永遠に滅び行く人々のためにモーセのように、「おのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください【詩篇90:12】」と神にとりなし祈る者となる必要があるのです。
私達が神を愛し、神の御心を自らの心として生きることは確かに主イエスキリストの十字架の御足の跡をたどる、それは痛みを伴う、自らの思いにとっては決して歩みたくない道を歩むかも知れません。
しかし、自らの生きる死ぬことを越えて主を愛することこそ、主の十字架によって全てを死につけ、よみがえりにあって全てを主の元に勝ち取るものとなるでしょう。
主は私達の国を、ご自身の神の都の現れとして回復される時を望んでおられます。
その時、神を心から愛する者は、この地を、この国を、神と共に治める者となるでしょう。
神を愛しそのように命をかけて神に近づく者は誰か?
主は主のみを愛する者を、今もっとも望んでおられます。神の御心をこの国に成すために。
主の愛に答える信仰の歩みとは如何なるものか、今回は主のこの国への御心に答える者となるべく、御声に耳を傾けていきたいと思います。

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