聖書箇所: ルカ 19:11-27
主から、ご自身の命をもって与えられた新しい命をいかに主のために使うのか(主に献げるのか)。
私達は主に救われた後の命を、あまりに自らのために生きることに用いていないでしょうか。またそのことをあまりにごく当たり前こととしてはいないでしょうか。
しかし、主はそのような私達にはっきりと「自分のために宝を積んで神に対して富まない者【ルカ12:21】」と語り、「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。【ルカ14:27】」と、弟子とは全てを捨てて主に従った者であると明示されているのです。
そして、主は同時に「すべての国民を弟子とし【マタイ28:19】」とこの条件が全てのクリスチャンに対するものであると言われるのです。
主はこの弟子となった者に始めて、ご自身の御心の奥深くを現わされます。
まさしく主のために生きたダビデがそうであったように、多くの人が気づくこともなかった、しかし最も重要な主の御心を、その主に献げた愛の故に見つけることができる、行き着くことができる。
主はそうして実にご自身の計画を、ご自身を愛して止まない者達を通して成し遂げて来たのです。
そして、主はそのような者に「よい僕」と語り、「小さい事に忠実であった」とほめてくださり、報いを与えてくださるのです。
それはこの地上に於いてこの地を治め、やがて完成する天に於いても主と共に治める者となるという、驚くべき約束。
この地に於いて朽ちゆくものに心を奪われるのではなく、天に宝を積む者になる。その天の宝こそ、やがて嗣ぐべき天の都の材質であり、そのように私達自身が天の都とされることの備えを、この地で積んで行くことこそ、主に報いを受けるほどに喜ばれる者であると聖書は指し示しているのです。
あなたの目は天に向けられているでしょうか?あなたの心はどこに置かれているでしょうか?
永遠の報いを思って生きていきましょう
。
主の報いは私達の想像を遙かに超える壮大・壮麗なもので
す。
そのために私達もダビデのように主を深く愛そうではありませんか。
今回は主が望まれる信仰者としての生き方について、主の御言葉に耳を傾けて参りましょう。
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主から、ご自身の命をもって与えられた新しい命をいかに主のために使うのか(主に献げるのか)。
私達は主に救われた後の命を、あまりに自らのために生きることに用いていないでしょうか。またそのことをあまりにごく当たり前こととしてはいないでしょうか。
しかし、主はそのような私達にはっきりと「自分のために宝を積んで神に対して富まない者【ルカ12:21】」と語り、「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。【ルカ14:27】」と、弟子とは全てを捨てて主に従った者であると明示されているのです。
そして、主は同時に「すべての国民を弟子とし【マタイ28:19】」とこの条件が全てのクリスチャンに対するものであると言われるのです。
主はこの弟子となった者に始めて、ご自身の御心の奥深くを現わされます。
まさしく主のために生きたダビデがそうであったように、多くの人が気づくこともなかった、しかし最も重要な主の御心を、その主に献げた愛の故に見つけることができる、行き着くことができる。
主はそうして実にご自身の計画を、ご自身を愛して止まない者達を通して成し遂げて来たのです。
そして、主はそのような者に「よい僕」と語り、「小さい事に忠実であった」とほめてくださり、報いを与えてくださるのです。
それはこの地上に於いてこの地を治め、やがて完成する天に於いても主と共に治める者となるという、驚くべき約束。
この地に於いて朽ちゆくものに心を奪われるのではなく、天に宝を積む者になる。その天の宝こそ、やがて嗣ぐべき天の都の材質であり、そのように私達自身が天の都とされることの備えを、この地で積んで行くことこそ、主に報いを受けるほどに喜ばれる者であると聖書は指し示しているのです。
あなたの目は天に向けられているでしょうか?あなたの心はどこに置かれているでしょうか?
永遠の報いを思って生きていきましょう
。
主の報いは私達の想像を遙かに超える壮大・壮麗なもので
す。
そのために私達もダビデのように主を深く愛そうではありませんか。
今回は主が望まれる信仰者としての生き方について、主の御言葉に耳を傾けて参りましょう。
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