今日のかて 幼な子のような眼差し

【マタイ21:16-17】
イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

神が私達の前にご自身の姿を現された時、私達は本当にこの方を神として受け入れることができるでしょうか?
これは実際にイスラエルの地で起こった現実のことです。
この聖書の箇所で語られているのは主イエスがまさに聖書に預言されたままの姿でご自身をエルサレムに現された時のことです。
そしてその時、神を最初に受け入れるはずであった、神の選びの民であるイスラエルは、その神を受け入れることできませんでした。
なぜならかみの言葉を預かっているはずの選民は、その言葉を人の知恵で理解しようと、人の知恵で神を退けてしまったのです。
人の知恵はいくら積み重ねたとしても、人に賢者のように認められたとしても、神の知恵に至ることはないのです。

【1コリント2:6-10】
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
しかし、聖書に書いてあるとおり、 「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、 人の心に思い浮びもしなかったことを、 神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」 のである。
そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。

当時イスラエルにはたくさんの律法学者がおり、あらゆる聖書の解釈が人の力によってなされていました。
ですがいざ主ご自身を目の当たりにした時、彼らの聖書解釈がその目を覆い、実際に目の前に居る神を見えなくしてしまったのです。

【ヨハネ7:45-52】
さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。
下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。
パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。
役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。
律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。
彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、
「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。
彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。

むしろ誇り得る知恵も何もない、子供のように素直に、目の前に居られる主の栄光の姿のみを見て、喜び受け入れる者に、主イエスは救いであられるのです。そして、その方を救い主として受け入れる者のみ、神を心からほめたたえることができる。

私達は今生きて居られる方、私達の中に生きて働かれる神の栄光の姿に、目を向けているでしょうか?人の知恵により積み重ねた信仰を誇り、この今生きて働かれる救い主を、私達の心の中で退けてはいないでしょうか?

どうか主が何ものにも頼らず、真っ直ぐに主のみを素直に信じる眼差しを、私達に与えてくださいますように。




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