天の王国の王族

聖書箇所: 列王記下25:27-30、サムエル記下9:9-13

主により贖われ救われた私達の姿を、聖書は驚くべき姿として語ります。
それは、神の王国の王族として、王なる主イエスと、深い交わりの中、全てを主に満たされ、もう罪人の服は脱がされ、主イエスを王族の服として着た姿。
私達はその姿を本当に知っているでしょうか?
そのような者として、この地に本当に生きているでしょうか?
それは主を信じる信仰の目によって初めて見ることをゆるされる姿。
そのため、この世の不信仰の目によっては決して見ることができず、であるからこそ、私達が遣わされる場所、つまりは家庭や、学校や会社、社会の中では、その姿は見えません。
むしろ神の言葉を退けるが故に多く預言達が迫害されたように、私達はその中では神の御言葉の中に生きる者である以上迫害すらされるのです。
でもそこで、主は私達がそのことに恐れ、妥協し世に引き寄せられ、世に帰ってはならないと、むしろ私達が神の王国に生きる者として神の王国の中にしっかりと留まり、世に生きる彼らを神の王国に招く者となるよう語るのです。
このような、世に親しみ、肉の思いの中に生きる生活の中から、神の王国の中に生きるには、全てを置いて神の愛に信頼して神の御手に飛び込むしかありません。
私達が生きるのは命と死、祝福とのろいの狭間に生きているのです。
罪と死からの訣別を与えるのは、主イエスと共に十字架に死ぬ他ないのです。
しかし死ねば、神の御霊は死ぬべき私達をよみがえりの命にあって生かし、むしろこれまでの罪を犯し続けるこの地に属する命から、天から降ったこの霊によって天に属する性質(神の性質)を持つ新しい命に生かしてくださるのです。
そして、御霊に導かれる者は神の相続を受け、神ご自身と共に、神の王国と、天地万物の全てを、相続として受け、神と共にこの天地万物を治める者とされるのです。
もはや涙は拭われ、「死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもな【黙示録21:4】」く、私達を悩ますのろわれたこの地のものは「先のものが、すでに過ぎ去った【黙示録21:4】」と主の言われるままに終わりを迎えるのです。
そして、神の「見よ、わたしはすべてのものを新たにする【黙示録21:5】」と言われる中、私達の命と共に全ては新しくされ、主はその十字架でこの全てを成し遂げられ、「事はすでに成った【黙示録21:6】」と高らかに宣言されるのです。
まさに私達はここに天の王国に入れられ、永遠の礼拝の中にこの王国に生き続ける者とされたのです。
いかがでしょうか。これがクリスチャンの生き方、真の姿です。
ここに語られることは決して絵空事ではなく全てが霊にあって真実です。
すでに私達は神の王国に入れられ、この王国に於いて、全ては成っているのです。
あとは主の愛の御手に飛び込み信仰の目を開いてもらい、この真実の中に生きるのみです。
では主の御言葉に耳を傾け、この驚くべき恵みを共に分かち合いましょう。


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