聖書箇所: 2コリント3:16-18
神の国への入り口は、最初から、救いを受けたその時から私達に与えられています。
それは十字架の上に主と共に死を迎えたその時から。
神の国は朽ちないものの国であり、朽ちるものはそれを継ぐことはできませんから、朽ちるものが神の国に入ることはできません。
ですから、主は私達が死を迎えこの地を去る時は、この地に生まれた時と同様に、何も持って行くことができないように、この地においても、心の内に何かを持って神の国に入ることができないことを、明確に語っています。
つまり全ての弟子達は全てを捨てて神に従っていくように。それこそが私達の日々負う十字架であることを。
しかし、それに続いて得るものは私達の想像を遙かに超えた神の国です。
まさに私達は死を味わうことなく永遠の御国に今入れられている者であり、やがて私達は一瞬にしてラッパの音と共に栄光の体によみがえり、神の御元に引き寄せられます。
そこにあるのは主イエスとの婚礼の時であり、また全世界に婚宴の時が訪れる時、私達はキリストの花嫁としてキリストの傍らの座で、主と共に全地を治めるものとなるのです。
主はこの御言葉を信じ受け入れて歩む者こそ、永遠の命を持って神の国に入る者であり、また私達の内に生きる聖霊は、神の国を今前味として味わわせ、御国に入らしめるよう、私達を今日も導くのです。
主はこの全てが主イエスの十字架の上で私達に注がれた、始めの愛の中に与えられていることを、私達に教えておられます。
その愛を受けた者は、主を愛するより他にないと、主のために生きる道を歩んで行きます。
その愛は日毎に強く成熟するもの、決して一日で成るものではありませんが、やがては死をも恐れぬ強い愛となって、その愛が熟す時私達を神の御元へと引き上げるのです。
まさに主はこのように私達に、最初から、そしてあらゆる必要を備え、私達を神の国に導き入れようと、心から切望されているのです。
まさにそれこそ、主の求められる信仰の歩み。
今回は主のご用意された神の国への入り方について、共に分かち合いたいと思います。
祈りを持って、この神の霊の御言葉に耳を傾けて参りましょう。
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神の国への入り口は、最初から、救いを受けたその時から私達に与えられています。
それは十字架の上に主と共に死を迎えたその時から。
神の国は朽ちないものの国であり、朽ちるものはそれを継ぐことはできませんから、朽ちるものが神の国に入ることはできません。
ですから、主は私達が死を迎えこの地を去る時は、この地に生まれた時と同様に、何も持って行くことができないように、この地においても、心の内に何かを持って神の国に入ることができないことを、明確に語っています。
つまり全ての弟子達は全てを捨てて神に従っていくように。それこそが私達の日々負う十字架であることを。
しかし、それに続いて得るものは私達の想像を遙かに超えた神の国です。
まさに私達は死を味わうことなく永遠の御国に今入れられている者であり、やがて私達は一瞬にしてラッパの音と共に栄光の体によみがえり、神の御元に引き寄せられます。
そこにあるのは主イエスとの婚礼の時であり、また全世界に婚宴の時が訪れる時、私達はキリストの花嫁としてキリストの傍らの座で、主と共に全地を治めるものとなるのです。
主はこの御言葉を信じ受け入れて歩む者こそ、永遠の命を持って神の国に入る者であり、また私達の内に生きる聖霊は、神の国を今前味として味わわせ、御国に入らしめるよう、私達を今日も導くのです。
主はこの全てが主イエスの十字架の上で私達に注がれた、始めの愛の中に与えられていることを、私達に教えておられます。
その愛を受けた者は、主を愛するより他にないと、主のために生きる道を歩んで行きます。
その愛は日毎に強く成熟するもの、決して一日で成るものではありませんが、やがては死をも恐れぬ強い愛となって、その愛が熟す時私達を神の御元へと引き上げるのです。
まさに主はこのように私達に、最初から、そしてあらゆる必要を備え、私達を神の国に導き入れようと、心から切望されているのです。
まさにそれこそ、主の求められる信仰の歩み。
今回は主のご用意された神の国への入り方について、共に分かち合いたいと思います。
祈りを持って、この神の霊の御言葉に耳を傾けて参りましょう。
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