聖書箇所: 2テモテ4:1ー5
主がこの地に於いて語られた福音と言われてるものは、今私達が認識している福音と果たして一致しているものでしょうか。
私達がごく当たり前にそうに決まっていると結論づけることは、そう簡単にはできないでしょう。
なぜなら、主イエスが語られた福音こそは、神の国の福音であり、主はこの地の全ての者に、天国とは、神の国ではと、天から来られた主ご自身が見て来られたものを証しされ、語り続けられたものだからです。
それは今私達が、まだ神を知らない人々に語る、十字架の死とよみがえり、罪と裁き、そこからの救いと永遠の命を得ることという、クリスチャンになるための登竜門としての福音だけを意味するものではありません。
主は驚くべき事に全ての人を救わんがため、私達の何ものにもよらず、一方的にご自身の全てを注ぎ、私達はただこの全てを十字架の上で完成された主イエスを信じる信仰によってのみ義されるという、恵みを注がれました。
それは私達を、さらに神の子とし、その想像だにできない神の相続に預からせるためでした。
私達は決して神の子となることなどかなわない者であったのに、そのような相続など決して預かれようはずがない者であったのに、神は私達を神の御子の花嫁とすることにより、つまりは神の一方的な愛によって、このことにかなうものとされたのです。
このことは、主ご自身がこの地に私達を迎えに来られる携挙の時に、主と空中で結婚(婚姻)するということを通して私達に与えられます。
そして私達は主がご用意された新居である天の御国で、永遠の礼拝を全身全霊で主と交わりささげる中で、ハネムーンを送り、やがて大患難の最中の地に、オリーブ山に降り立つ主と共に、私達は栄光の内にこの地に再び臨み、千年の婚宴の喜びの中に、この地は飲み込まれるのです。
こうして私達は、この方に永遠に愛される中に、キリストの花嫁として、神の御子と共に、神の子とされて、神の絶大な相続を受け継ぐのです。
それは神ご自身の全てであり、神の栄光とその豊かさの満ち満ちる想像を絶するほどの麗しき神の御国そのものを受け継ぐのです。
どうして、この地上の朽ち果てるもの、この世の罪に汚れた死ののろいの満ちたものなどのために、この素晴らしきものを退ける必要があるでしょうか。
もしもそうするのであれば、それは誰でもそれを愚かと呼ぶでしょう。
むしろ、この地にある全て朽ち果て消えゆくものを捨て去り、私達に永遠に与えられている朽ちないものだけを求めるのであれば、私達は永遠の命に至り、天の御国のこの永遠の交わりの中に深い安息を得、神の驚くべき愛の中に、この天にあるものの全てが、キリストをよみがえらせた神の力によって、滅ぶべきこの地に、神の栄光として、神の御国の顕現として現れ、この地の全てを飲み込み、全ての死を飲み込み、全ての渇きを満たし、全てが勝利に飲み込まれるのです。
まさにこの地にある私達を責め悩ます全てのものがこの勝利の内に飲み込まれ、神の栄光のみがこの地を覆うのです。
もはやそれは私達の何ものにもよらず、力にも知恵にもよらず、神ご自身の現れとしてこの地に、私達を通して神の栄光が現されるのです。
そして、この聖書に全体に語られる神の永遠の希望、変わることのない良き知らせこそ、福音なのです。
もしも私達がこのことを知り、深く味わい、この中に生きるのであれば、私達はこの福音を、全ての人々に宣べ伝えないではいられないでしょう。
如何でしょうか。
だからこの御国の福音は主を知らない人々ばかりではなく、私達こそがこのことを知らなければならなず、ここに立ち返らなければならないことがわかるのではないでしょうか。
今主はこの福音によって全地に永遠の命を満たそうとしておられます。
だからこそ私達も、この福音を求めて、心から祈ろうではありませんか。
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主がこの地に於いて語られた福音と言われてるものは、今私達が認識している福音と果たして一致しているものでしょうか。
私達がごく当たり前にそうに決まっていると結論づけることは、そう簡単にはできないでしょう。
なぜなら、主イエスが語られた福音こそは、神の国の福音であり、主はこの地の全ての者に、天国とは、神の国ではと、天から来られた主ご自身が見て来られたものを証しされ、語り続けられたものだからです。
それは今私達が、まだ神を知らない人々に語る、十字架の死とよみがえり、罪と裁き、そこからの救いと永遠の命を得ることという、クリスチャンになるための登竜門としての福音だけを意味するものではありません。
主は驚くべき事に全ての人を救わんがため、私達の何ものにもよらず、一方的にご自身の全てを注ぎ、私達はただこの全てを十字架の上で完成された主イエスを信じる信仰によってのみ義されるという、恵みを注がれました。
それは私達を、さらに神の子とし、その想像だにできない神の相続に預からせるためでした。
私達は決して神の子となることなどかなわない者であったのに、そのような相続など決して預かれようはずがない者であったのに、神は私達を神の御子の花嫁とすることにより、つまりは神の一方的な愛によって、このことにかなうものとされたのです。
このことは、主ご自身がこの地に私達を迎えに来られる携挙の時に、主と空中で結婚(婚姻)するということを通して私達に与えられます。
そして私達は主がご用意された新居である天の御国で、永遠の礼拝を全身全霊で主と交わりささげる中で、ハネムーンを送り、やがて大患難の最中の地に、オリーブ山に降り立つ主と共に、私達は栄光の内にこの地に再び臨み、千年の婚宴の喜びの中に、この地は飲み込まれるのです。
こうして私達は、この方に永遠に愛される中に、キリストの花嫁として、神の御子と共に、神の子とされて、神の絶大な相続を受け継ぐのです。
それは神ご自身の全てであり、神の栄光とその豊かさの満ち満ちる想像を絶するほどの麗しき神の御国そのものを受け継ぐのです。
どうして、この地上の朽ち果てるもの、この世の罪に汚れた死ののろいの満ちたものなどのために、この素晴らしきものを退ける必要があるでしょうか。
もしもそうするのであれば、それは誰でもそれを愚かと呼ぶでしょう。
むしろ、この地にある全て朽ち果て消えゆくものを捨て去り、私達に永遠に与えられている朽ちないものだけを求めるのであれば、私達は永遠の命に至り、天の御国のこの永遠の交わりの中に深い安息を得、神の驚くべき愛の中に、この天にあるものの全てが、キリストをよみがえらせた神の力によって、滅ぶべきこの地に、神の栄光として、神の御国の顕現として現れ、この地の全てを飲み込み、全ての死を飲み込み、全ての渇きを満たし、全てが勝利に飲み込まれるのです。
まさにこの地にある私達を責め悩ます全てのものがこの勝利の内に飲み込まれ、神の栄光のみがこの地を覆うのです。
もはやそれは私達の何ものにもよらず、力にも知恵にもよらず、神ご自身の現れとしてこの地に、私達を通して神の栄光が現されるのです。
そして、この聖書に全体に語られる神の永遠の希望、変わることのない良き知らせこそ、福音なのです。
もしも私達がこのことを知り、深く味わい、この中に生きるのであれば、私達はこの福音を、全ての人々に宣べ伝えないではいられないでしょう。
如何でしょうか。
だからこの御国の福音は主を知らない人々ばかりではなく、私達こそがこのことを知らなければならなず、ここに立ち返らなければならないことがわかるのではないでしょうか。
今主はこの福音によって全地に永遠の命を満たそうとしておられます。
だからこそ私達も、この福音を求めて、心から祈ろうではありませんか。
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