主を愛する特権

聖書箇所: サムエル下6:20-23

私達の救いは、私達が普段見過ごしてしまえば当たり前のことのように思えてしまいますが、神の計画から見るのであれば、これはとてつもない奇跡です。
まさに私達は本来の選びの民(イスラエルの民)でない、何一つ神から何かを受けるような地位も身分もないものでした。

神からいただけるようなものなど何一つ存在しない者、今でも実際に神の選びの民であるイスラエルの民には、私達がそのような者として映ることでしょう。
しかし、神の深遠なる計画は私達を、新しく生まれさせ、新しく造られた者として、霊に於いて、神の子とし、選びの民としてくださいました。
それはひとえに私達に何かがあったからではなく、ただ神のあわれみによるもの。
神の選びの民イスラエルが、主の愛の本質を知り、もしも本来の選びの民としての使命である、主イエスを救い主として受け入れることができたのであれば、このようなことは起こることはありませんでした。
しかし、彼らは自らの選びの民としての特権に、愛をもって答えることを忘れ、あたかも義務であるかのように、律法を自らの知恵と力で守ることにのみ没頭し、神の御心を退け、愛をもって救いを携えて地に降られた主イエスを十字架につけてしまいました。
そしてそのことにより、私達、選びの民とはなり得ない異邦人が、神の選びに入れられたのです。
しかしこれこそ、神の憐れみを、憐れまれるはずのない民が神から受けることによって、救い主を退けてしまった選びの民に救い主の愛を知らしめ、再び神に憐れまれるという神の深遠なる計画によるものでした。
異邦人に救いが満ちるまで、私達異邦人の教会は霊に於いての選びの民として、キリストの花嫁の先駆けとしての特権を受けるという、驚くべき恵みを受けているのです。
それは異邦人の時から、イスラエルの救いの時へと時代が移り変わる、つまりは大患難という時代に受ける、携挙という、天に携え挙げられた私達が空中で花婿と出会い、そこで婚姻するというもの。その時私達はこの方の愛と、この方自身の麗しさに、驚嘆するでしょう。
溢れる愛は私達を花婿との新居に向かわせ、主イエスと深い愛の交わり、天の新居である天の神殿での礼拝に入れられるのです。
私達はこのことに喜びを覚えているでしょうか?
このことを心から主への愛をもって、待ち望んでいるでしょうか?
私達に注がれている花婿イエスの愛を、先駆けとして独り占めにする特権を私達は本当に知っているでしょうか?
この花婿は私達と住まう新居を用意するため、天に昇られたのです。
主は私達に対する愛の熱心により、その家を、神の神殿を今天に於いて用意している、この時に私達はどのような心でこの地を過ごすべきでしょうか?
ただ冷めた心で、花婿の思いを退け、自らへの愛に心傾け、地に世に心奪われ、自らは豊かだというでしょうか?
神が私達に与えようとされる圧倒的な相続、キリストの豊かさ、無尽蔵の富を失い生きることが、如何に虚しいことかをこそ、私達は知るべきであるのです。
もしもこの愛すべき方の愛に身を委ね、この地に於いてこの方を深く愛し、この方と今は天と地に於いて隔てられていることに飢え渇き、深く思い焦がれるなら、愛はキリストへと私達を一つとし、天にまで携え挙げる引力として、全てを超えて働くでしょう。私達は地に居ながら、至聖所に入り、天にまで挙げられて主の御座近くに、永遠の安らぎを、キリストと十字架の上で一つとされた完全なる愛の内に得るのです。
その時、私達は自らをキリストを永遠にお入れする神の神殿として、主の造られる新居を地に於いて建て上げていくでしょう。
主の家は天から地から、主イエスと私達の間の愛の交わりの中で建て上げられ備えられていくのです。
ああ、何ともどかしくも、麗しい、心の奥底から愛をもって、花婿が来られるのを待ち望むことの素晴らしさ。
私達はこのように地に於いて、天に生きるように、御国を地に顕現する者として、生きることができるのです。
キリストを愛することの特権をあなたは本当に知っているでしょうか。
それこそが、この地で生きることの価値、意味、豊かさ。
今回はこの私達に与えられている愛の特権について、共に分かち合いたいと思います。
共に主の深い愛の内に身をゆだねて参りましょう。

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