今日のかて 主の義により生かされる

【ヨブ記 19:25】
わたしは知る、 わたしをあがなう者は生きておられる、 後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

人は苦しみの中で、自らの命を贖う価を自らの中にすら見出せないこと知り、救い主の存在が必要なことに行き当たります。

【詩篇49:7-8】
まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。 そのいのちの価を神に払うことはできない。
とこしえに生きながらえて、墓を見ないために そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、 それを満足に払うことができないからである。

いや、それを知ることができる人はむしろ幸いな人と言えるでしょう。
なぜなら、多くの人がそのような苦しみに遭っても自らの命は自らの力で何とかできると、彼を救わんとする神の御手すら退け、たとえ相手が神であろうとも自らの命を強奪するかのように戦い取ろうとし、神に逆らい生きる人の方がむしろこの世には多いからです。

【ヨハネの黙示録9:20-21】 これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。

という意味で言うならば、ヨブは確かに神が誇るほどの義人(正しい人)であったということができるでしょう。

【ヨブ記 1:1, 8】
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

しかし、主はそのような義人でさえ、人の力(自らの力)をもってしても、自らを正しいものとすることはできないことを、最初からご存知でした。だからこそヨブはその部分をこの苦しみの中で、自らに於いては罪人でしかない姿として現したのです。
主が全ての根源です。この義も神の中から得なければ、そこに義は存在しないのです。
神こそが義(正しい)であり、義の根源であるからです。この義により、全てのものは保たれ、全てのものは存在できるのです。そして私自身にはこの義は存在しないのです。
全てを主から得て生かされなければ存在できない。それは全て主に造られた被造物の定めなのです。それは主に命があるからです。

【ヨハネによる福音書1:1-4】
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。

多くのクリスチャンは正しく生きたいと願うようになります。そして、自分の力で正しく生きようと苦しみます。
しかし、自らの中にその正しさ(義)が存在しないことを自らの罪により知ることとなるのです。

【ローマ人への手紙7:15-24】
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。
すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、
わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

さあ、あなたはどうでしょうか。ヨブが何に苦しんでいたのか、分かってきたでしょうか。
同時に神が今何からあなたを救おうとしているのかわかったでしょうか。

【コリント人への第二の手紙5:21】
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

私達は主によって義とされなければなりません。あくまで私に義は存在しないのです。
この方の十字架にしか、私達が義とされる道は存在しないのです。
だから、ヨブは苦しみの中で救い主を見たのです。
あなたも自らの罪の中で苦しんではいないでしょうか。
神を愛し、聖なる者として生きたいと願うからこそ、どのように生きればいいのかと迷っていないでしょうか。
この罪人を解放できるのは、十字架の死にのみよります。
あなたを贖う救い主の十字架の御姿にのみ希望を求め、あなた自身をこの十字架の主にゆだねていこうではありませんか。ただ神の義がこの身になることを願って。

【ヨブ記33:23-30】
もしそこに彼のためにひとりの天使があり、 千のうちのひとりであって、仲保となり、 人にその正しい道を示すならば、
神は彼をあわれんで言われる、 『彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、 わたしはすでにあがないしろを得た。
彼の肉を幼な子の肉よりもみずみずしくならせ、 彼を若い時の元気に帰らせよ』と。
その時、彼が神に祈るならば、神は彼を顧み、 喜びをもって、み前にいたらせ、 その救を人に告げ知らせられる。
彼は人々の前に歌って言う、 『わたしは罪を犯し、正しい事を曲げた。 しかしわたしに報復がなかった。
彼はわたしの魂をあがなって、 墓に下らせられなかった。 わたしの命は光を見ることができる』と。
見よ、神はこれらすべての事を ふたたび、みたび人に行い、
その魂を墓から引き返し、 彼に命の光を見させられる。

※この箇所は後の日に私達に与えられる主イエスキリストを預言する御言葉です。



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2017年08月27日

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