十字架のしるしを胸に抱く

聖書箇所: ピリピ2:1-11

主は、主を恐れ主と心を一つとする者を、まるで父が子を愛するように愛すと詩篇130篇の中に語られます。
まるで神と縁のなかった、その選びに於いても、神の相続に於いても、全くかけ離れていた異邦の国の中に生きる私達でさえ、神はご自身を愛する者をそのように愛するというのです。
まさにこの方こそ天地万物の創造者にして、全ての被造物の所有者、愛にあってこの天地万物を保っておられる方なのです。そしてその方が、その壮大にして、崇高、絶対的な愛をもって、私達を愛すると言われるのです。
さらに驚くべきことにその愛こそ、その愛の故にその全てを、その命さえも私達に差し出し与えるほどの愛なのです。愚かで、もっとも弱き者となった神の姿にこそ、神の人知を超えた愛が現れている。それは私達に決して離れることのできない、忘れ去ることのできない、無視することのできない愛として、私達の心の奥底に刻まれている十字架の愛そのものなのです。
私達はこの愛を知っているのです。
この方が私達の内に命として生き続ける限り、私達はこの愛のしるしを、私達の内に持っているのです。
主イエスがこの地に於いて、公にご自身を現し、神の国の福音を語られるようになった時、主はカナで2つのしるしをこの地に現されました。
それはカナの婚礼と瀕死の息子をいやして欲しいと願う男へのよみがえりの奇跡でした。
まさに婚礼と十字架の死と復活を現すこの2つのしるしは神の計画の中心そのものであり、私達が神を信じるために現されたものです。
そしてこの二つの奇跡は愛が基となって現されたものなのです。
神はまさに同じしるしをご自身の愛をもって私達の内に刻み、神を信じるための世へのしるしとして、私達に与えられているのです。
主がご自身の命を与えてまでも私達を愛されたように私達が互いに愛すること、ここにこの十字架の愛によるしるしは現れます。
そのことによって、世は私達がキリストのものであることを知るのです。
それがキリストに贖われた者達のあるべき教会の本来の姿なのです。
主はこれまで、キリスト教会の中に潜む、憎しみ、争い、無関心、のろいと言った、この愛と相反する事柄が、どれほどキリストの御体なる教会を痛めつけてきたのか、どれほど大切なものを失わせてきたのかということを、今私達に教えてくださっています。
神の愛を知る者として、この愛のしるしを内に抱き、主イエスの愛を真に証しする真の教会となることを、今私達に迫られます。
「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ【ピリピ2:5】」
キリストの愛の故に、キリストと心一つとして、十字架に従うように互いに愛すること、今年主はこのように私達に語りかけておられるのです。

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