神の家を建てる者

聖書箇所: 歴代誌上29:10-19

主の眼差しは遣わされた地で神の家を建て上げる者、主の務めの働きのできる者の上に注がれています。
それはただクリスチャンであるとして生きるというだけでなく、自分の人生において神に仕えるということに意識を持つ者であり、それは教会の中だけでなく、自分の今遣わされている家庭や社会の中においても同様に、神に仕える者であり続けるということも含まれています。
私達の存在そのものが神の宮であるからこそ、その宮の据えられている所に神が住まわれ、神の統治が及び神の国が来るからです。
私達はここに於いて、神の計画を成就すべく、神の御心をこの地に私達を通して成していくのです。
しかしこの目的が自らの満足、自らのためのものを求めるのであれば、その姿は神の宮を建て上げるものとは全く逆のもの、強い者が弱い者から搾取し、蹂躙する、神の宮を傷つけ、汚すものとなるのです。
そのような者の所にも主はご自身を、人々を憐れむ者の姿として現し、ご自身の元に立ち返らせようと引き寄せてくださるのです。主こそ真の羊飼い。
しかし、もしもそれすら退け続けるのであれば神は裁きの手をもってその者を砕かれ、何とかしてご自身の元に戻そうとされ、その者が逆らい続ける限りそれはさらに重い御手をが置かれ続けるのです。
人の思いのどこまでも主に逆らう、なんと罪深いものでしょうか。
主が来られことは主を受け入れる者には幸いでありますが、主を退ける者には裁きの日の到来、神はまずご自身の宮に臨まれるからこそ、裁きは神の家から始まるのです。
果たして私達は、まさに滅びんとするこの国を救うために来られる主の前に、主を喜び迎え入れる神の家となるのでしょうか、それとも神を退け神と戦い、自らの身に滅びを招く裁かれる民となるのでしょうか。
真の神の宮たる者は、まさに神の宮にこそ主の栄光が満ち溢れたように、神の栄光をただ一心に求め、主を全身全霊をもってほめたたえるでしょう。
しかしそれとは逆に、自らの栄光を求める者達は自らを誇り、自己礼拝を続け、自らに豊穣を与える都合の良い神を奉って偶像礼拝を続けるでしょう。
もちろん主はそのような自己栄光化と自己礼拝、偶像礼拝を激しく嫌い、退けます。
この根強い問題こそ、現在この国の教会の抱える元凶たる問題ではないでしょうか。
この場所に主の十字架は建てられているのです。この痛みは、この憐れみは、まさに罪に気づかず罪を重ね神から心離れ続ける、今の私達のためにあるのです。
そして主は、主の深い願いを汲み、神の家を建て上げるため、自らの命を、生涯をささげる、神の栄光のみを求める真の礼拝者を求めておられます。
ただ主にのみ、とこしえに栄光がありますように。
今回は神の家を建て上げる真のクリスチャンとしての成熟した生き方について、共に分かち合いたいと思います。


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