栄光の歩み

【ローマ12:11,12】
12:11 熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、
12:12 望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。

この地にあって、教会がまずすべき事は何であるのか。それがここに表されているように思います。
それはいかなる時代においても、いかなる場所においても変わることはありません。
ローマ人への手紙に、この後に多く語られている具体的な教会として聖徒としての歩みに先立ち、パウロが聖徒達に語ったこと。
だから、この地に遣わされた教会として、主イエスに救われたすべての聖徒達は、これを始めとしなければ何の力も得ないでしょう。
すべき事、やりたいこと、主の計画と思わしきこと、私達が教会として、することはたくさんあるように思われます。
でもどこから始めるのかが重要なのです。その行く末が大きく変わってしまうからです。

主の霊にあって立ち、主の霊により、神の熱心を私達はすべての日にまとう必要があります。
主の熱情は私達を常に霊に満たし続けさせ、霊に燃え、その炎が私達自身を燃やし続け、私達の「からだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ(ローマ12:1)」させ続けるでしょう。
こうして私達は主に仕えるという、自らのささげものを主にささげ続けるのです。

私達の望みはこの地上で消えゆくような望みではありません。

【エペソ1:14】
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

私達の望みは神の国をつぐことの望みであり、私達のために「天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ(1ペテロ1:4)」望みなのです。

【ローマ8:24,25】
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

この目に見えない望みを、聖霊は私達に信仰によって見させるものであり、「聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか(エペソ1:18)」を知らしめるものです。
そして、この望みを待ち望ませ、それこそが、神の計画(みこころ)に生きることであり、私達がこの地上に生きる理由、またこの地上で生きるための大きな力ともなるのです。
私達はこの栄光を見て喜びます。

【ヘブル11:13,16】
11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
 [中略]
11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

だから私達はこの地上でいかなることがあっても屈することがありません。
絶望することはありません。
たとえ、この地上で、苦しみや悲しみ、あるいは世から思わぬ迫害を受けることがあったとしても、この永遠の栄光にすべての歩みは繋がっていることを知り、あらゆる状況を越えて、神の霊に満たされ、この世で得ることのできない喜びに満ち、神の力に満ちるのです。
こうして、私達は絶えることなく、満ち溢れて常に祈り続け、満ちた祈りは神の国をこの地に顕現させ、この地に神の栄光が満ちるのです。

【2コリント4:17,18】
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

私達の歩みは永遠です。
私達は永遠の命を得ているのです。
私達は永遠にすべき事をこの地上でし続けながら、今この地の生活でしかできないことをすべきなのです。
永遠の主の栄光を見ながら。
主イエスがそのようにこの地上を歩まれたように。



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