主のまなざし

2017年07月02日
聖書箇所:ルカ12:6,7、詩篇139:16(1-6,13-18)

主のまなざしは全被造物に憐れみ深く、愛溢れて向けられています。
この愛のまなざしの中で、全てのものは保たれ、生きているのです。
特に私達人には特別にそのまなざしが向けられ、まさに主は私達の全てを知り尽くされ、生きる全時間が神の御手の中にあり、私達への愛は、そのまなざしは永遠の始めから始まり、永遠に至るまで続くのです。
さらに、今主のまなざしは、主を信じている私達教会に及んでいます。それは選びの民イスラエルをしても味わうことのなかった神の恵みを、主をその内に宿す者として受け、受けるはずなき恵みを、神の国とともに受け継ぐ者とされました。
主のまなざしは如何なる時も私達から離れることはありません。
如何なる困難の中にある時も、それは終わりの日、罪が究極に満ち神に逆らう者達の迫害の中にあっても、神の裁きが地に満ちようとも、私達から離れることなく、主の御手はそこに変わることなき平安と共に伸べられます。
また、私達が仮に罪の中に、その絶望の中にある時であっても、主のまなざしは憐れみ深く、その罪を犯すはるか前から私達を見つめられ、私達がそこから立ち直る道のりをもみつめて、罪を犯す私達を忍耐と憐れみを持って見守られるのです。
まさに主の愛のまなざしは私達の全人生を、いや永遠に私達を包み、私達がこのまなざしを、愛をもって見つめ返すことを望んでおられるのです。
今私達はこの神のまなざしに真っ直ぐ答え、私達の目をしっかりと主のみに向けていきたいと思います。
主のこの愛の語りかけに、心から耳を傾けて参りましょう。


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世界の中心

2017年06月18日
聖書箇所: コロサイ1:15-17

人は試み苦しみの中で、自らの本質にある罪の根元に突き当たります。つまり全世界は神を中心に造られ、神により日々動かされている、歴史は神が造るものであるのに、それを容易に受け入れない自らに突き当たる。
心のどこかで、その何気ない日常の中で、自らを中心に生きていることを、むしろ無自覚に日々を過ごしている。
まさにこの試みこそ、その中心を的外れた私達の罪を、神が私達の中から取り除こうとする愛に基づくものに他なりません。
今回はこの神が全世界の中心であるということをもう一度丁寧に聖書から見つめていきたいと思っています。
聖書は全世界の中心に、神が、主イエスキリストが居られることを一点の曇りなく語っています。
創造の始めからこの地に居られ、いっさいのものは御子にあって、御子によって、御子のために造られました。そして御子により日々万物は成り立っている。だから全ての被造物の目はこの方に注がれています。
そして、この方も万物の中心で全てのものに目を向け、あわれみ、支え、満たし、保たれているのです。
まさにこの世界の中心は主なのです。
さらに、主は全ての歴史の中心でもあられます。
それは創世の始めから神の言葉として、エデンの園に於いては命の木として、また神の全世界からの選びの民としてのイスラエルを幕屋・神殿の中心にある至聖所に臨在し治められ、今の時代に於いてはこの教会の中心に居られて全世界への神のご計画をこの教会を通して成し遂げようとし、やがて来られる主は千年王国に於いて、その中心で全世界を統べ治められます。
そして、やがて完成する天国、新天新地においては、主ご自身が至聖所となり、やみを完全に退けた光となって、私達の中心で、この天国を治められます。
しかし、ここに神は驚くべき神の御心を成します。全世界の中心であるこの方はあろうことか、自分を中心として神に敵対し罪の中に生きる私達を、その罪から引き離そうとご自身を全世界の中心で十字架に釘づけにし、その全てをいや命をも注ぎ尽くして、私達を贖われたのです。
まさにこの神の心の中心は、そしてそのまなざしの中心は、あり得ないことですが、この私達に向けられていたのです。
そして、主はそのことによって私達を全世界の中心である神の御国、ご自身の御元に引き寄せてくだいました。

今私達の中心には何があるでしょうか。
自分でしょうか。これほどに愛してくださった主でしょうか。
主は世界の中心、十字架の上で両手を広げ私達を招いておられます。
だから今私達はこの主の御元に、自らの罪をかなぐり捨てて行こうではありませんか。


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最強の勝利の秘訣

2017年06月11日
聖書箇所: サムエル下8:13-18

私達の戦いは目に見える現実世界に居ながら、目に見えない霊的戦いを戦うというものです。
私達はよく目で見るものに心奪われやすいのですが、どのような状況にあっても、自らがどれほど目に見えて劣勢に思えたとしても、その戦いの真実は自らの持つ信仰によって見極めることができるのです。
そして、私達は主の十字架によって立てられた完全なる勝利において、主に買い取られた者であり、さらにはその完全なる勝利をもって、全地を勝ち取るために来られた万軍の主の勝利の凱旋の中に加えられた、主と共にこの地を勝ち取る者達、それがこの霊的戦いに於ける私達の立ち位置なのです。
主はまさにこの戦いを私達の愛する近しい人々から地の果てに至るまで、神を知らない者から、神を知っていても偽りに心奪われ神の民としての本来の生きる道を見失った兄弟姉妹に至るまで、まさに終わりの日の裁きに裁かれること無きよう、今日も主は戦っておられるのです。
そこで今主は聖書を通し、ダビデの姿をもって、その勝利の秘訣を私達に語りかけてくださっています。
まずは主に私達の心の王座に着座していただき、私達神の宮たる教会の、また(毎日の)礼拝の真ん中にお迎えすること。
もし私達がそのように主を中心に生きるところから人生の歩みを始めるのであれば、そこには主の臨在が栄光の内に満ち溢れ、私達は聖霊に満ちる日々を迎えることができるでしょう。
主の臨在あるところには祝福が満ちます。
そして、主の居られる所には愛が満ち、またこの愛を基として生きるところに、主はご自身の満ちみちた豊かさを溢れさせ、全てに欠けることなき満たしの中に私達は置かれるでしょう。
さらにそこには主の公義が満ちる。全地を統べ治める主の公義にあって私達が生きるならば、主は私達を通して全地を治められるでしょう。
互いに主の重荷を負い、この地に於ける役割を負うという中に私達が生きる時、まさに私達は私達自身が受け取るべきこの地に於ける嗣業の地を、信仰によって勝ち取ることができるでしょう。
そして、さらに主が最強の勝利の秘訣として私達に語られておられること。それは私達が日々生涯主の御心を行うために生きることです。主イエスご自身もこの地に人して来られた時、そのように生きられ、神の御心を全うし、実に十字架の死にまで従い完全なる勝利を打ち立てられました。
神の御心とは神の望まれる全ての魂を神の御元に勝ち取ること、変わることなく燃える救いの計画への御思い、またその計画の完成として救われた全ての者がこの終わりの日によみがえり永遠に神と一つとされること。
神との偽り無き愛の交わりは、この主の深い御心を、ご自身の胸の内を愛する者にのみ明かしてくださるように、大切な思いとして、私達に消えることのない炎のような熱情として語りかけてくださるでしょう。
そうです。主にある者こそ、この地の勝利者となるのです。
今回は日々主の戦いの中にある兄弟姉妹に、勝利の秘訣を主ご自身から直接語っていただきたいと思います。
心開き主の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。

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聖書箇所: エペソ1章

私達は神の御言葉にあって、その真理の土台にあって、自らの永遠の立ち位置を知るべきです。私達はどこに居るべきなのか。そしてどこに向かうべきなのか。
神は私達の永遠の立ち位置を、その永遠の始めから、私達が神の御側に居たと語られます。そして永遠に至るまで私達はそこに居るのだと。
それはすべて神の贖いによるもの、永遠の主の愛によりあずかることができた大いなる恵み。そしてその救われた者がすでに居る場所、まさに神の御側近く、それこそが永遠の神の御国なのです。
そして私達が生まれ、生き、死に至るまでの全ての道のりが、この永遠の神の御国の礼拝において、神をほめたたえる者となるためであると、聖書ははっきりその目的を語っています。
今ここにある礼拝こそは永遠の礼拝、私達はこの地上で一瞬の流れゆく時間の中で永遠の中に入り、神の御座の側、まさに神の御顔を仰ぐ位置において、主をほめたたえ続けるのです。
それは日曜日に集まり共にささげる礼拝にのみとどまるものではなく、そこから溢れて、神を愛し神に近づくことを願い、またこの神への最上のささげものを人生の全ての事柄において、その一瞬一瞬、全てのことを主への最上のささげものとしてささげて生きる。
その毎日が、その人生全てが主への礼拝となる。
もしもそのように生きることを願うのであれば、私達の生き方は今この時からでも大きな変貌を遂げるでしょう。神の栄光の内に、満ちみちた人生を歩める。
神は実にそのために私達の内に、神の御国を継ぐことの保証としての聖霊を与えてくださり、御国の前味をこの地でも味わうことができるようにしてくださったのです。
聖書において、神の幕屋が、また神の神殿が建て上がった時、神の栄光がその内に満ちたように、神はご自身の永遠の宮を完成する、新しい天と新しい地が完成し、その中に私達自身が完成された神の宮として建て上げられた時、この神の栄光はこの宮の中につまり私達の内に満ち溢れます。
主はこの永遠の目的をもって、主の十字架の贖いにより私達を全く新しい神の宮とされました。だから今、まさしく神は私達の内に満ち溢れようと願っておられるのです。
使徒行伝の2章に語られる教会の誕生したその出来事こそ、この地における神の宮である私達教会の内に、主ご自身が満ち溢れた姿。
そして主は、今私達の内に満ち溢れることを切望して居られるのです。
神ご自身が私達の内に満ち溢れる時、私達はこの地上において、全てのことに満ち溢れます。この主の豊かさの内に生き、それゆえに神をほめたたえ続ける人生こそ、クリスチャンの本当の歩みなのです。
だから、主は聖霊に満たされ続けなさいと私達をやさしく招きます。
聖霊に満たされ続けるクリスチャン生活について、今回は主の永遠の目的を見つめながら、この御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

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王の統治の到来

2017年05月28日
聖書箇所: 列王記下11:4-12

主は今私達に、ご自身が語られ続けてきた約束の時が来たと言われます。
主は、それまでご自身を、そして主に従う主の小さな群をご自身の御腕の中に隠し、時が来るのを待たれていた。それは主のご計画を担うにふさわしく精錬され、神の霊的な戦いの中においても屈することなく立ち、王がその全地を勝ち取られる時に、共に勝ち取り、統べ治める者となるための備えの時。
だからこそ、今主はこの隠された計画を、主ご自身が王座に着座されるそのところから始められます。
その計画を主にあって聞くことをゆるされた者は幸いであると語られます。
そして、主の御言葉を退け続け、自らの(サタンの)欲望を満たそうと、偽りの言葉に耳を傾け続けた者達を、退けられる。主の言葉を語り続けた者達を、退け続けた、その責任をこの時代が問われると。
主はサタンに仕える者、大淫婦と化した者達、神に逆らい敵対し戦う者達を打ち砕き、ご自身の回復をこの地に現すと言われます。
その行程はまさに千年王国において主がこの地に来られ、ご自身の統治により全地を、全世界を回復される時と同じもの。
リバイバルはそのように、やがて主がこの地に来られ、全地を治めることを、あらゆる時代、あらゆる地域の人々、国々に知らしめるため、ご自身の臨在と共に、教会を通してやって来ます。
主はそのことを、そしてその統治がいかに麗しいものであるかを、完全なるものであるかを、聖書を通して私達に語られています。
まず王が着座され、主の宮が回復し、国の統治が回復し、全地が全的に神によって回復する。
主は唯一の王、唯一の神となり、大祭司となって、この地をそしてこの国を、ご自身の主権によって、最善の形で、最も正しく治められる。
さらに恐れ多いことに、その時主はこれまで主に誠実に仕え続けた者達を、ご自身と共にこの地を治める者とするというのです。
各々の召し、賜物に応じて、主はこの全地を治めさせると。
あなたはその準備ができているでしょうか?
主の計画が成される時が来た。
今回は主のこの地に対する力強いリバイバルの宣言を、これまで待ち望んで来たその喜びと感謝と共に、全身全霊で受け取ろうではありませんか。

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聖書箇所: イザヤ55:11、エペソ5:5

今、主はまさに私達の真中に、真の勝利者として、王としてのご自身の姿をもって立たれています。
それは再臨の王として、白馬に乗りやがて来られる、主の主、王の王たる姿です。主は天の万軍を率いて、そう、全地を統べ治めるために来られる王は、今まさに私達の真中に居られるのです。
それは私達がこの世(サタン)の支配にあった古き自分を、全て十字架につけ、この勝利の凱旋に、天の万軍の内に、この地を主と共に勝ち取る者として、共に治める者として、天に国籍を持つ聖徒として、全く新しくされた者として歩むために、すでに主は私達の直中に来られているのです。
そして、主は私達にこの地を勝ち取れ。それはあなたの前にある。この地を共に治めようと語りかけておられるのです。
そうです。神の計画はあまりにも壮大です。確かに人の理解を常に超えています。だからと言って、それは神の言葉に逆らう理由とはなりません。
神の永遠に変わることのない言葉を偽りとすることは、神と人との関係を破壊し、また神の計画を偽りとするのですから、そのことは私達自身を神の言葉の前に滅ぼす結果を招くでしょう。
私達は神の大能の御手がそこにあっても、また私達の全ての行く道を満たし得る神がそこにいても、偽りを信じて歩むのであれば、そこは祝福の代わりにのろいの満ちる道を、滅びに向かって歩む他はありません。
残念ながら世は偽りの父たるサタンの支配する世界です。
そこには一つの神の真理はなく、それに聞くのであれば、必ず神に従う者ではなく、神に敵対するものとなります。
「自らの業を神が除こうとする。破壊しようとする。」と叫び、神の教会の麗しい交わりをも破壊しようとする者ともなるでしょう。
またその全く反対に、「主の語られた言葉は全て真実である。全て成就する変わらない御言葉である。」と告白し歩める人は何と幸いでしょう。
その人は必ず成るこの事実を目撃する者、その栄光を見て、神をたたえる者となるからです。
ですから、私達は偽りの父(サタン)が私達の心の内に撒く偽りの言葉に心を向け、それを真実としてはならないのです。
神は最初から私達をそのように天と地を繋ぐ者として、天にある神の御国を、この地に顕現する者として私達を召し集められた。それが主の教会なのです。
神はまさしくこの事実を、天地万物を創造された「言葉」をもって私達に語りかけています。
その言葉を受け入れる者は「光よあれ」と言われたように、その人のうちに神の命の光が解き放たれます。その光に闇は決して勝つことはできません。
だから今神の言葉を受け入れ、偽りの闇から目を覚まして欲しいのです。
神の言葉は必ず成ります。
たとえ神の道を選んだからこそ、多くのものが失われたように、破壊されてしまったように、あなたが嘆いていても、神はご自身の計画を成す時、その御業の内に、私達の失われた全てを元に戻します。
自分の思いが、全ての計画が、自らが大切に握り続けていたものが、神の栄光を現すため全て砕かれたのだとしても、主は栄光の計画の内に、全てを幾倍にも報いてくださる主なのです。
だから恐れないで。心配しないで。
神の計画が成る。主ご自身がそれを成される。この栄光の神の言葉に、安心して私達をゆだね、献げて行こうではありませんか。

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偽りとの訣別

2017年05月14日
聖書箇所: エゼキエル21:6,7

主はご自身と心を一つとする者を見て、ご自身の御力を現し、御業を成し遂げます。
主イエスがこの地を歩まれた時、まさにそのようにご自身の思いを退け、父なる神の望まれることを行い、そして語られ、決してご自身から成したことは何一つありませんでした。
だからこそ、主イエスのこの地での歩みは神の栄光の現れに満ちていたのです。
これがまさに人の子の歩み、主が示された私達のこの地に於ける、神の似姿に造られた人としての歩むべき姿なのです。
逆に言うのであればここに、自らの思いに従うことを私達の歩みとするところに、偽りは始まります。
それははるかエデンの園でサタンに入れられた偽りであり、自らの中にある偽りによって、私達はその思いの内に悪魔の欲望通りを行い、神に敵対し、真理を退け、偽りに立つ者となるのです。
私達の内には神を喜ばすことはなく、真理もなく、神に敵対する思いしか存在しないのです。
これは私達を決して喜ばす言葉ではありません。
そしてこの世の賢さ、麗しさ、良さを何一つ持っていません。
しかし、この世にある自らを喜ばせ自らのために良いと思われる全てのものは、これを手に取り、自らのものしようとする時、それらは私達をサタンの奴隷とするためのものとなることを聖書はっきりと語っているのです。
その偽りに心奪われる時、真理からそして神から私達の心は離れ、心はサタンの虜とされているのです。
しかし、真理は語っています。主はそのような私達をキリストの十字架の勝利の内に、サタンの支配から移して、キリストの支配の下に置き、さらには主の統治の到来、勝利の凱旋の内に私達を加え、サタンの支配を打ち砕かれたのだと。
私達はすでに、主を頭とするキリストの御体として、全地をまた万物を主と共に統べ治める者とされていたのだと。
まさにこの統治の内に神の御国は私達の内に来たり、またそこに永遠の礼拝が到来する神の教会がその中心に存在するのです。
まさに主は私達をそのような者として、この地に置いてくださいました。
だからこそ、私達はいつまでもサタンの偽りを私達の内に残しておいてはならないのです。
サタンに騙されてはならないのです。
さあ、私達は罪に生きるサタンの偽りから遠く離れ去り、神に近づき神のものとして生きる、真のクリスチャン(キリストのもの)としての歩みを、共に歩んでいこうではありませんか。

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聖書箇所: 1ヨハネ1:3,4

神はそのご自身との永遠の交わりを、ご自身の命によって買い取られた者達、つまり教会(神の宮)の中に永遠に共有するという、人智をはるかに超えた恵みを与えてくださいました。
永遠にささげ続けられる礼拝の中へ、永遠の礼拝者としての人生の中へ。
もしも私達が、この神とのそして兄弟姉妹との交わりを共有することがなければ、目に見えない神を見続け、人のはるかに理解を超えた神の御心を真剣に求め、またその召しを担い続けて歩むことはできないでしょう。
絶えることのない互いのとりなしの祈り、分かち合われる信仰の証し、受け継がれる信仰、導かれる信仰者としての歩み方。
もしも私達が一人のみで立とうとするなら、どれほど強く優れ賢い信仰者であったとしても、その歩みの中に道を踏み外し、罪の誘惑に妥協をゆるし、偽りに心奪われ続けても知ることもなく、やがては何もできないままその生涯を終えることとなるでしょう。
孤独では何もできない。
なぜなら、神はご自身の教会の中に、この永遠の交わりを据えたからなのです。
神はこの永遠の教会という共同体をさまざまな時代のさまざま場所に顕現させ、この永遠の命の交わりが全地を覆い、命にあって全地が治められることを願われました。
である以上、神はこの永遠から永遠に存在する共同体である教会が、罪により汚され、あるいはその罪のパン種に喩えられる勢いをもって罪に満たされてしまうことを、どれほど悲しまれ、またどれほど忌み嫌われることでしょうか。
この交わりは、世との姦淫により著しく破壊されます。
サタンの支配下である世に、サタンの性質(罪の性質・肉)をもって生きることを、世は日常の常識的生き方として認識しますが、神の教会が同様に世に戻る生き方を望むなら、その行き着く先は自らを大淫婦との姦淫に導き、キリストの花嫁を大淫婦の姿へと変容させるものとなるのです。
主は人の目に隠れたダビデの姦淫をも見つめ、その罪を鋭く指摘されました。
今私達はこの神から与えられたかけがえのない永遠の交わりに生きるために、ひとかけらをも妥協することなく、神の光の中に照らし出される自らの罪を悔い改めようではありませんか。
やがて本当に神と顔と顔とを合わせて永遠に交わり続けるその日のために。

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聖書箇所: ヨハネ16:33

主に近づきたいと願う者にとって、神に最も近い場所とは、私達が望む場所とは少し違うかもしれません。
それは命を懸けて主に近づく場所であり、またこの地に於いては、誰も見向きもしないような、見捨てられたような低い場所かもしれません。
まさに主が十字架にかかられた場所。
しかし、それは同時に私達を、罪から、世から、サタンから、そして自分自身から解き放つ場所であり、主が私たちを通してご自身の栄光を現すために私達を導く場所であるのです。
確かに私達にはその神の御思いを理解できないかも知れません。はるかに人の理解を超えた道のりを、主の御言葉のみを信じて、その約束のみを握りしめて、見えない道を見えるように、細い主の御声を聞こえるように歩むことかも知れません。
しかし、それこそが信仰によってのみ歩むことのできる主と共に歩む道なのです。
あるいは私達の罪深き生まれながらの性質は、罪を握りしめ、それを主が除き去るときには、私達は苦しみ悲しみの叫びを上げるかも知れませんが、その後には死を経るからこそ現れるよみがえりの内に、私達は主の真の平安の中に生きる者となり、そこにこそ栄光に輝く神の御国が顕現するのです。
まさにそこで私達は主の十字架を経験し、主の愛をさらに深く知ります。さらにはそのことによって主を愛する愛を成熟させ、この愛によって働く信仰をもって、この地に於いて主の最も親しき者として、主と共にこの地を、この生涯を歩んで行くのです。
主は主を選んで苦しむ者を軽しめられません。
その苦しみを何一つ捨て置かず、この苦しみの中で主は親しく臨み、全てに勝利された完全なる勝利者として、栄光と共に私達にご自身を現されるでしょう。
今回はまさに私達に語られる力強くもやさしき慰めの主の御言葉に、心から感謝して耳を傾けていきたいと思います。

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主のみを愛し

2017年04月23日
聖書箇所: 創世記45:5-11

主イエスはその十字架の死と復活により、世(の全てのもの)に勝利しました。
この事実に立って私達は生きているでしょうか。
主のこの愛をちゃんと受け取っているでしょうか。まただからこそ神を愛する者として生きる歩みを続けているでしょうか。
もしも主にあって生きるのであれば、確かに勝利を得る人生を生きるでしょう。
しかしこの主が勝利したはずの世にあって私達が生きるのであれば、私達の人生は悩みの中に、つまりは敗北の中に生きることとなります。
主を愛し主にあって生きるか。世を愛し世にあって生きるのか。
確かに聖書は終わりの時には、神から離れ、自らを愛し自らの欲望に身を任せ、世に戻ろうと望む者達が、神に救われた者でありながら現れるようになると語っています。
けれども同時に世に生きるということは、その骨折りと悩みの中にあっという間に過ぎ去る虚しい人生を歩むこと意味するとも語っているのです。
ですから私達はこの中に戻りゆく者として生きるのではなく、むしろ神の愛によってこの世から神に聖め別かたれた者として、この世の永遠に滅び行く人々のためにモーセのように、「おのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください【詩篇90:12】」と神にとりなし祈る者となる必要があるのです。
私達が神を愛し、神の御心を自らの心として生きることは確かに主イエスキリストの十字架の御足の跡をたどる、それは痛みを伴う、自らの思いにとっては決して歩みたくない道を歩むかも知れません。
しかし、自らの生きる死ぬことを越えて主を愛することこそ、主の十字架によって全てを死につけ、よみがえりにあって全てを主の元に勝ち取るものとなるでしょう。
主は私達の国を、ご自身の神の都の現れとして回復される時を望んでおられます。
その時、神を心から愛する者は、この地を、この国を、神と共に治める者となるでしょう。
神を愛しそのように命をかけて神に近づく者は誰か?
主は主のみを愛する者を、今もっとも望んでおられます。神の御心をこの国に成すために。
主の愛に答える信仰の歩みとは如何なるものか、今回は主のこの国への御心に答える者となるべく、御声に耳を傾けていきたいと思います。

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聖書箇所:ルカ24:5,6

主が私達の内に住まわれる。この永遠の命として、私達にご自身を与えられた、永遠の恵みの尊さを、もしも私達が本当に知ることができたら、私達のクリスチャンとしての歩みは全く変わるに違いありません。
私達は主から天の御国をこの地に顕すために、この地に遣わされた。言い換えるなら新しい命を天から授かったのです。
まさにこの永遠の命を授けた主イエスは、今天の御座に居られて、私達を通してあらゆる所に来られ、私達を通してこの地を治め、私達を通して神の御国をこの地に顕そうとしておられます。
そのことこそ、主が私達の内に来られた理由。
そしてその全ては十字架の死から始められるのです。
多くの人はこの死について、つまりは自らの命を主にささげる道について、その苦しみの十字架の御足の跡をたどることを恐れて避けようとします。
しかし、死を経なければよみがえりはなく、主に自らの全てをささげることなくしては主の栄光は現れません。
主は私達の内に王として来られます。
この王こそ、十字架に私達の死をつけ、よみがえられて、天より来られ、勝利の主としてこの地に来られる方。
私達の戦いがいかに激しくとも、この王は私達の内に十字架の死と共に来られ、よみがえり勝利の王として来られ、やがて全地を統べ治める方として私達を通して全地を治められるために来られるのです。
私達がこの方の名を呼ぶ時、そこにこの方は来続けるのです。
そして、この方が全てを勝利の内に、よみがえりの内に、飲み込まれます。
どうしてこの世の如何なるものに恐れることがあるでしょうか。
私達は死にすら恐れる必要なく、この勝利に、このよみがえりに入れられた者なのです。
あなたは、まだ自らの生きるための道を、やがて朽ち死にゆく世の中にさまよい求めるでしょうか。まだすでに死んだ自らの力や自らの持ちうるものの中に、探り求めるでしょうか。
しかし、それらはすでに死んだのです。
その死の満ちる墓の中には何もありません。主はよみがえられたのです。
あなたがもしもこの王と共に歩むことを求め、この方があなたの中に来られることを心から呼び求めるなら、この勝利の王はあなたを通して、勝利の内に全地を勝ち取り、統べ治められるでしょう。
あなたはよみがえりの勝利の内に生きていますか?
この恵みを心から受け取るために、主の御言葉に耳を傾けて参りましょう。

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聖書箇所: 使徒行伝17:1-15

パウロの伝道は、決して人の知恵や知識から来る表層的な言葉によるものではありませんでした。
そこにはまさに生ける神の現れとして福音が語られ、この神の現れを阻止せんと、サタンも迫害をもって迫ってくる。神とサタンの支配と権威をめぐる壮絶な戦いがそこに繰り広げられました。
やがてそれは、神の圧倒的勝利という、爆発的な神の霊の勢いを、敵ですら認めざるを得ないという、人知を超えた形で現されたのです。
パウロのこの戦いは、福音を語られ、受け入れ、新しく生まれた教会にも及びました。
しかしこの戦いが激しければ激しいほど、彼らは意気消沈するのではなく、むしろ生きる神の現れを望み、祈り叫び続け、彼らはその度に、やがて来るべき神の来臨を、自分達の中に現れる神の勝利という中で、見続けたのです。
そこには、神の確かな臨在と、神の国の内にある神との永遠の交わり、その祈りと、賛美と、礼拝が現され、神を知らぬ者達でさえ、その中に浸され出たくないと願うほどに、そこに神は生きて居られたのです。
今私達はこの生きた神が内に住まう永遠の神殿とされています。
そして、この神殿は滅ぶべき罪の深まるこの地に建てられているのです。
私達、神殿の中心には、神の心と目そのものが向けられ、主イエスご自身がその中でとりなしておられるのです。滅ぶべきこの国が、この地が救われることを。
そして、この私達こそ、この来るべき方主イエスを、この地に来てくださいと、この地を救ってくださいと、呼ぶことのゆるされた特権を持つ者なのです。
あなたが呼べば、主はこの地に来臨され続けます。そしてそのことが、主の再臨を、つまりは神の永遠のご計画を一日も早め進める祈りとなるのです。
生きた神が来たる真の教会の姿について、主の熱望を私達も主から聞こうではありませんか。

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新しく生きる

2017年04月02日
聖書箇所: ヨブ27:1-6、ヨブ33:19-28

人はどれほど正しい人であっても、その根底は罪にのろわれ、自らによっては義とされることのない者です。
だから、主はご自身の御子を私達にその贖いとして与え、一方的に恵みを注いでくださいました。
そうです。私達には一切よらない、私達には一切できない、これはまさに神からの一方的な恵みなのです。
そしてこの恵みは、私達を死から新しい命へとよみがえらせ、この新しい命の故に私達を全く新しい者へと造り変えてくださいました。
その姿は私達の理解をはるかに超え、驚くべき神の栄光に包まれた姿。
その真実の姿を、どうして人は想像し得ましょうか。
しかし、主はご自身のよみがえりの命により与えられたことの真の価値を今私達に教えようとされています。
まさに主の復活を祝う復活祭を控えたこの時に、私達に与えられた十字架の死とよみがえりの驚くべき恵みについて、今一度共に分かち合いたいと思います。

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祈りの手を動かせ

2017年03月26日
聖書箇所: ヨナ2:7-9

私達は祈るということを、クリスチャンとしてのごく当たり前のことと考えているでしょうか。
まさに祈りはこの上ない永遠の恵みであり、またこの地を超えた、天における神との交わりの中に引き上げられ、入れられる、永遠の奥深さに私達を導くものです。
そしてこの交わりの中で私達は本来の自らの姿、主にある役割(召し)と言ったものを知り、また受け継ぐべき相続地を天に於いて受ける故に、地に於いても与えられ、この祈りにより勝ち取り、主と共にその地を治めるものであることを知るのです。
この神の子としての、そしてキリストの花嫁としての、神の国の王族としての、私達の特権をもって、いかに滅ぶべき地を主の元に勝ち取るのか。とりなすのか。
私の祈りが主の手を動かし、全地を揺るがし、全地を治める。
私達は本当にこの祈りの永遠の豊かさ、奥深さ、ダイナミックさを知っているでしょうか。
今回は主が私達に求めておられる生きた神との永遠の交わりとしての祈りについて、共に分かち合いたいと思います。

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福音を携えて

2017年03月19日
聖書箇所: 申命記10:1ー5

神は私達に神ご自身を証しする力を与えてくださいました。
それはこの地の如何なる知識によっても与えることのできない天来の神の御言葉そのものです。
まさに神の福音は私達のうちに、天から降られた聖霊によって、啓示され、神ご自身を現し、証しする言葉として、私達に与えられたもの。
この生きた神の言葉を内にいただき、イエスの血による贖いをうけ、この地を行き巡り、神ご自身の臨在を現す者、まさに神の契約の箱は、現在に於いて私達自身が担っているのです。
この聖霊が降り、神との和解を受けた今、私達は神の契約の箱を現す者となったと言えるのです。
しかし、これは私達には想像を超えた、驚くべき神の奇跡であるということができます。
もしも、本当に現代の社会にこの契約の箱が出現したら、世界はこれを中心に戦争を起こしかねません。
なぜなら、この箱にこそ、神の臨在があり、この天地万物を造られた全地を治める神の言葉が内にあるのですから、これを手に入れる者は、全世界を支配し、全地を手に入れることができる。
このことを知るかつての歴史の権力者は、この契約の箱を血眼で探しました。
全世界を支配するために。
同様の理由で聖書の中にも、あのヨルダン川をせき止めてイスラエルの民を渡らせた力の箱を手に入れようと、イスラエルを責め、シロの都の陥落と共に、神の箱を奪った民が居ましたが、神の箱の存在自体がこの異教の民を、神の義により、その臨在の聖の極みにより、裁きを下す元凶となりました。
何と驚くべきことに、私達は主イエスの愛を受け入れ、主の贖いによって一方的に救いを受けた者であり、自らの何ものにも因らず、しかし神の契約の箱であるのです。
全地を裁き、全世界を支配する爆発的な力を私達は与えられている者、そしてその存在そのものが神を証しし、全世界の民を神の御元に勝ち取る神の福音(御言葉)を内に持つ者なのです。
私達がもしもこの存在意義に真に気づくなら、全世界が、そして歴史が動くでしょう。
まさにこの地は、この国は、神を退け続け、自らの罪が熟して、滅びに向かうのみの未来が待っています。
そこに神は神の箱たる者を召して遣わした、それが私達です。
そのことを私達はどれほど自覚しているでしょうか?
神の、この地をご自身の元に勝ち取らんとする熱心を退けて、心冷め自らの安泰な生活だけに留まろうとする者。
あるいはむしろこの神の言葉に逆らい、自らの思いと欲求に、世に戻ろうと神に反逆する生き方をする者。
神はそのように神を退ける者に対しても、クリスチャンであったとしても寛容であるとは決して語っていません。
一つの神の真実は私達の全ての偽りを払拭します。
偽りの中、自らの存在をものろうほどに、苦難に閉じこめられ、自らの存在を見失い、神を見出すことを失っていないでしょうか。
私達は主イエスの十字架により新しく生まれ、天における証しを地において証しするイエスの証しを持つ者です。
このイエスの証しと小羊の血こそ、サタンの支配に完全に勝利する力、この力により私達教会はあらゆる時代、あらゆる地において、神の完全なる勝利を勝ち取るのです。
私達の存在に全地も、御使い達も、サタンも、震えおののくのです。
ですから、このイエスの証しを携えて、私達はこの地で何をすべきかもう一度神の前に考えるべきです。
この地の滅びを、命を捧げて止めようとされた、主イエスの熱心の前に、私達も主に答えようではありませんか。

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主の命による支配

2017年03月12日
聖書箇所: ローマ5:17

主の恵みはまさに一方的に主から注がれるものであり、である以上それを受け取るために私達に越えることの難しいハードルを強いることはありません。
もしもそれを難しいものとするものがあるとするのであれば、それは主の恵みを阻む私達自身であるということができるでしょう。
自らの力で生きることに慣れ親しむ、生まれついて肉の性質の中に生まれ生きている私達自身においては、神の恵みを妨げているのは、まさに自らの力で生きる故に神の御手に身をゆだねることのできない私自身である。私自身の肉こそが神への妨げであると言えるわけです。
しかし、神は私達に、ご自身の御座の元より流れる、私達を永遠に生かす命の川に飛び込むよう、溢れる恵みを注がれます。
この命の川こそ、聖書の始め創世記から、聖書の結論黙示録に至るまで、そして現在において主イエスが語られた内に住まう聖霊の恵みとして語るもの。
聖書を貫く永遠の命の流れは、「この川の流れる所では、すべてのものが生きている【エゼキエル47:9】」と語られもの、全地に向かい流れて行き、滅びるべき者をも生かし、大いなる川々となって神の国の中心を流れる川が全地を生かすため教会を通して、全地に溢れ出るのです。
そしてさらにはこの溢れる命によって、主は私達を通して全地を力強く支配される。
全ては十字架の元から始まり、王なる主はこの愛を基に、私達教会を通して命にあって全地を統べ治められるのです。
主はこのことを人の知恵や力ではなく、主の永遠に変わらぬ御言葉によって約束され、今も私達に、この命の川の流れるリバイバルの日が来たるべき時はすでに満ちていると力強く語られます。
まさに主の御手に飛び込むこと、そこに恵みの泉は溢れます。
主は私達にこの命の川の流れに全てを明け渡して飛び込むよう、招かれています。
今回はこのように永遠の命の元に私達を招かれる、主の約束の御言葉に、心より感謝して耳を傾けていきたいと思います。

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主を愛する特権

2017年02月26日
聖書箇所: サムエル下6:20-23

私達の救いは、私達が普段見過ごしてしまえば当たり前のことのように思えてしまいますが、神の計画から見るのであれば、これはとてつもない奇跡です。
まさに私達は本来の選びの民(イスラエルの民)でない、何一つ神から何かを受けるような地位も身分もないものでした。

神からいただけるようなものなど何一つ存在しない者、今でも実際に神の選びの民であるイスラエルの民には、私達がそのような者として映ることでしょう。
しかし、神の深遠なる計画は私達を、新しく生まれさせ、新しく造られた者として、霊に於いて、神の子とし、選びの民としてくださいました。
それはひとえに私達に何かがあったからではなく、ただ神のあわれみによるもの。
神の選びの民イスラエルが、主の愛の本質を知り、もしも本来の選びの民としての使命である、主イエスを救い主として受け入れることができたのであれば、このようなことは起こることはありませんでした。
しかし、彼らは自らの選びの民としての特権に、愛をもって答えることを忘れ、あたかも義務であるかのように、律法を自らの知恵と力で守ることにのみ没頭し、神の御心を退け、愛をもって救いを携えて地に降られた主イエスを十字架につけてしまいました。
そしてそのことにより、私達、選びの民とはなり得ない異邦人が、神の選びに入れられたのです。
しかしこれこそ、神の憐れみを、憐れまれるはずのない民が神から受けることによって、救い主を退けてしまった選びの民に救い主の愛を知らしめ、再び神に憐れまれるという神の深遠なる計画によるものでした。
異邦人に救いが満ちるまで、私達異邦人の教会は霊に於いての選びの民として、キリストの花嫁の先駆けとしての特権を受けるという、驚くべき恵みを受けているのです。
それは異邦人の時から、イスラエルの救いの時へと時代が移り変わる、つまりは大患難という時代に受ける、携挙という、天に携え挙げられた私達が空中で花婿と出会い、そこで婚姻するというもの。その時私達はこの方の愛と、この方自身の麗しさに、驚嘆するでしょう。
溢れる愛は私達を花婿との新居に向かわせ、主イエスと深い愛の交わり、天の新居である天の神殿での礼拝に入れられるのです。
私達はこのことに喜びを覚えているでしょうか?
このことを心から主への愛をもって、待ち望んでいるでしょうか?
私達に注がれている花婿イエスの愛を、先駆けとして独り占めにする特権を私達は本当に知っているでしょうか?
この花婿は私達と住まう新居を用意するため、天に昇られたのです。
主は私達に対する愛の熱心により、その家を、神の神殿を今天に於いて用意している、この時に私達はどのような心でこの地を過ごすべきでしょうか?
ただ冷めた心で、花婿の思いを退け、自らへの愛に心傾け、地に世に心奪われ、自らは豊かだというでしょうか?
神が私達に与えようとされる圧倒的な相続、キリストの豊かさ、無尽蔵の富を失い生きることが、如何に虚しいことかをこそ、私達は知るべきであるのです。
もしもこの愛すべき方の愛に身を委ね、この地に於いてこの方を深く愛し、この方と今は天と地に於いて隔てられていることに飢え渇き、深く思い焦がれるなら、愛はキリストへと私達を一つとし、天にまで携え挙げる引力として、全てを超えて働くでしょう。私達は地に居ながら、至聖所に入り、天にまで挙げられて主の御座近くに、永遠の安らぎを、キリストと十字架の上で一つとされた完全なる愛の内に得るのです。
その時、私達は自らをキリストを永遠にお入れする神の神殿として、主の造られる新居を地に於いて建て上げていくでしょう。
主の家は天から地から、主イエスと私達の間の愛の交わりの中で建て上げられ備えられていくのです。
ああ、何ともどかしくも、麗しい、心の奥底から愛をもって、花婿が来られるのを待ち望むことの素晴らしさ。
私達はこのように地に於いて、天に生きるように、御国を地に顕現する者として、生きることができるのです。
キリストを愛することの特権をあなたは本当に知っているでしょうか。
それこそが、この地で生きることの価値、意味、豊かさ。
今回はこの私達に与えられている愛の特権について、共に分かち合いたいと思います。
共に主の深い愛の内に身をゆだねて参りましょう。

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福音に立ち返る

2017年02月19日
聖書箇所: 2テモテ4:1ー5

主がこの地に於いて語られた福音と言われてるものは、今私達が認識している福音と果たして一致しているものでしょうか。
私達がごく当たり前にそうに決まっていると結論づけることは、そう簡単にはできないでしょう。
なぜなら、主イエスが語られた福音こそは、神の国の福音であり、主はこの地の全ての者に、天国とは、神の国ではと、天から来られた主ご自身が見て来られたものを証しされ、語り続けられたものだからです。
それは今私達が、まだ神を知らない人々に語る、十字架の死とよみがえり、罪と裁き、そこからの救いと永遠の命を得ることという、クリスチャンになるための登竜門としての福音だけを意味するものではありません。
主は驚くべき事に全ての人を救わんがため、私達の何ものにもよらず、一方的にご自身の全てを注ぎ、私達はただこの全てを十字架の上で完成された主イエスを信じる信仰によってのみ義されるという、恵みを注がれました。
それは私達を、さらに神の子とし、その想像だにできない神の相続に預からせるためでした。
私達は決して神の子となることなどかなわない者であったのに、そのような相続など決して預かれようはずがない者であったのに、神は私達を神の御子の花嫁とすることにより、つまりは神の一方的な愛によって、このことにかなうものとされたのです。
このことは、主ご自身がこの地に私達を迎えに来られる携挙の時に、主と空中で結婚(婚姻)するということを通して私達に与えられます。
そして私達は主がご用意された新居である天の御国で、永遠の礼拝を全身全霊で主と交わりささげる中で、ハネムーンを送り、やがて大患難の最中の地に、オリーブ山に降り立つ主と共に、私達は栄光の内にこの地に再び臨み、千年の婚宴の喜びの中に、この地は飲み込まれるのです。
こうして私達は、この方に永遠に愛される中に、キリストの花嫁として、神の御子と共に、神の子とされて、神の絶大な相続を受け継ぐのです。
それは神ご自身の全てであり、神の栄光とその豊かさの満ち満ちる想像を絶するほどの麗しき神の御国そのものを受け継ぐのです。
どうして、この地上の朽ち果てるもの、この世の罪に汚れた死ののろいの満ちたものなどのために、この素晴らしきものを退ける必要があるでしょうか。
もしもそうするのであれば、それは誰でもそれを愚かと呼ぶでしょう。
むしろ、この地にある全て朽ち果て消えゆくものを捨て去り、私達に永遠に与えられている朽ちないものだけを求めるのであれば、私達は永遠の命に至り、天の御国のこの永遠の交わりの中に深い安息を得、神の驚くべき愛の中に、この天にあるものの全てが、キリストをよみがえらせた神の力によって、滅ぶべきこの地に、神の栄光として、神の御国の顕現として現れ、この地の全てを飲み込み、全ての死を飲み込み、全ての渇きを満たし、全てが勝利に飲み込まれるのです。
まさにこの地にある私達を責め悩ます全てのものがこの勝利の内に飲み込まれ、神の栄光のみがこの地を覆うのです。
もはやそれは私達の何ものにもよらず、力にも知恵にもよらず、神ご自身の現れとしてこの地に、私達を通して神の栄光が現されるのです。
そして、この聖書に全体に語られる神の永遠の希望、変わることのない良き知らせこそ、福音なのです。
もしも私達がこのことを知り、深く味わい、この中に生きるのであれば、私達はこの福音を、全ての人々に宣べ伝えないではいられないでしょう。
如何でしょうか。
だからこの御国の福音は主を知らない人々ばかりではなく、私達こそがこのことを知らなければならなず、ここに立ち返らなければならないことがわかるのではないでしょうか。
今主はこの福音によって全地に永遠の命を満たそうとしておられます。
だからこそ私達も、この福音を求めて、心から祈ろうではありませんか。

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聖書箇所: ゼカリヤ8:1ー8

主は今リバイバルが如何にして、この地にやって来るのかということについて、聖句を通してリアルに教え示してくださいます。
まさに主がこの地に来られる再臨の預言を通して、この地に主が来られ全地を統べ治めることを、罪の満ち滅びに向かうこの地に、主ご自身が如何にご自身の主権によって、ご自身の霊によって、ご自身の力によって、成し遂げられるかについて、語られています。
それは主の宮の回復、永遠の礼拝の回復、永遠の都の回復、そして多くの人々がこの都に集められ、主の統治の内に入れられ、救いを得、永遠の命に至る姿。
これこそ、礼拝の真の姿であり、永遠の教会がこの地に顕現した姿です。
今主はこの真の主の宮、真の礼拝を、この地に求めており、またそれを求める聖徒達をこの地に求めておられるのです。
そして、これは永遠の神との交わりの完成としての神の国の顕現であり、またこれは人の知恵や力によっては決してここに至ることはできません。
まさにこのことは、永遠の神の国、天の交わりであるため、天のことは地上の人の知恵では見ることはかないません。
これを私達に知らせるのは、神の知恵と啓示によるものであり、主の霊によらなければ決して至らないのです。
これこそ、この地の全てのことを無価値と言わしめるキリストを知る知恵、永遠の宝のために、この地の財産を失おうともなお余りある、これを知ることこそが本当の価値ある人生を歩むこと、そしてこれこそが信仰であるのです。
私達がもしも神を渇き求め、神と永遠に共に住まう、永遠の交わりに飢え渇き、それが欲しいと神に心から願い求めるなら、主はご自身の御手の内、永遠の御国の内に私達を引き寄せてくださるでしょう。
そして、驚くべき事に、この神ご自身は、そしてこの永遠の神の国は、聖霊を通してすでに私達の内に与えられているのです。
だからこそ、今主はこのことを求め続けよ、捜し続けよ、叩き続けよと、私達を励まします。
我がために、そして愛する大切な人々のために、罪の中に救われるべきこの地の人々のために、神の豊かさをその恵みを求め続け、神の知恵を真理を捜し続け、神の御国の門を叩き続けるなら、神が必ず、与え、見出し、その戸は開かれるのです。
この地のリバイバルのために、そしてまず私達が神によってリバイバルするために、
さあ愛する兄弟姉妹、共に心から祈り求め続けようではありませんか。

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永遠の神の言葉

2017年02月05日
聖書箇所: 列王記下9:21-26

主イエスはご自身が神のロゴス(言葉)なる方です。この方が私達の中に幕屋を張られたことはまさに人には想像し得ない奇跡です。
だからこそ、主はいにしえからの預言の言葉基づきこの地に来られました。
主イエスの誕生の系図の中には、同時に人々の重ねた罪の姿も刻まれていますが、だからこそ神の御言葉は人の何ものにも揺るがされることなく変わることなく、ご自身の計画を成就するものであることを力強く証しします。
だからこそ、むしろ私達は偽りに自らの心を渡してはなりません。
私達の偽りの言葉の全ては神が知られており、やがて主の御前に私達はその言葉の申し開きをしなければならないからです。
その偽りの言葉が私達の口から上るその以前にすでに主は私達の心の奥底までも測り知り、悪しき思いを退け、神の御言葉を信ずる主への麗しい思いは永遠の思いとして記憶し喜ばれるのです。
私達はここに立って、一度(ひとたび)私達に語られた主からの召しの言葉に、つまりは主のご計画の一端を担うべく語りかけられた言葉と、そのために選びを受けた光栄を心に刻んで、主に従い歩み、永遠の御国へ続く道のりを大切に歩み行く必要があるのです。
主の言葉はあまりにも深淵で、そのご計画は人の想像をはるかに超えて壮大です。
1年や2年で成就することばかりではなく、何世代も超えて主の御言葉は成就し、それは完全なる形で成就します。
全てのことは一つの主の御言葉によって貫かれ何一つ矛盾することはありません。
つまりは、主が一度言葉を発せられるとそれは永遠にある神の御国において完成したものであり、その時天においては完全で不変な形でそれは存在しているのです。永遠の内に定められた神の言葉は決して虚しく返ることなく、必ずこの地上に成就するのです。
しかしこのことに人は一切関与できないのではありません。
恐るべきことに、祈りにおいて私達は、永遠の神の御手を動かすことをゆるされているのです。
そして、主はこのように私達に永遠の神のご計画に参画することがゆるされているのです。
召された神の言葉を私達がそのようなものとして、しっかりと握り主に従い歩み続けるなら、それは必ず成るのです。
いや、主は永遠の神の御国の中で「事は成就した(黙示録21:6)」と完成を宣言され、その契約の血は十字架の上で「完了した(ヨハネ19:30)」と宣言し、全ての神の約束は永遠の内に成就しているのです。
私達はこの神の御言葉と同等の言葉を、神の形にかたどられて造られた者として、授けられているのです。
ですから、私達は自分の考え、世の常識、サタンの誘惑などの、全ての偽りの言葉を退け、神の御言葉を握り、神の御言葉に生きる者となろうではありませんか。
今回は永遠に変わることなき神の言葉について、今一度深く主に語りかけていただきたいと思います。

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聖書箇所: 歴代志下15:7

主がこの地を勝ち取られる時は、まず私達の心から勝ち取ることを始められます。
神以外に心奪われるもの”偶像”を、私達の欲望によって、神との愛の交わりを退け、悪魔との交わりを持つ”姦淫”を、まず私達の心から除き、その心を神のみのものとすること、このように神は私達の心の勝ち取りをまず始められます。
悪魔は、世は、罪は、肉は、私達の戦うべき敵は、この勝ち取られた心を取り返そうと激しく戦いを挑んできたとしても、もしもこのように私達の内から信仰が回復しているなら、私達は主のみに寄り頼み、これらの敵に対して神の大能の力によって圧倒的な勝利を得ることでしょう。
そして、そのことはさらに多くの人々の心を、魂を勝ち取ることへと拡大していく。
実に主の勝利は内側から外側へと、全能の力をもって溢れ、全てのものを飲み込んでいくのです。
クリスチャンの心をまず勝ち取った力は、神の霊の圧倒的な力の中に、その国をも勝ち取り、救いに飲み込んでいきます。
それはまさに聖霊の力によるもの、神の御国の顕現としての奇跡をもって、神のこの勝利を阻もうとする悪魔による人々の迫害の中にあっても、無学のただの人々が、聖霊の内側からほとばしる爆発的な力により証しし、唯一の救いを得させる救い主の名が宣べ伝えられるのです。
神の霊が満ち溢れ、主の臨在が回復した教会(神の宮)には永遠の礼拝が回復します。
永遠に変わることのない、聖書の結論として語られる、永遠の神との交わりとしての礼拝、これが聖日の礼拝の中に、日々の個人個人の神との交わりとしての礼拝の生活の中に、溢れ出てくる。
その時、ソロモンが神殿を完成させた時、主に祈り求めたように、罪深き民のための神へのとりなしの祈りが回復します。主はその祈りを聞く時、ソロモンに約束されたように、民の罪を赦し、この地を癒される。その心は永遠にこの神殿の中にあり、そのまなざしをそこに永遠に向けようと約束してくださるのです。
しかし、もしも私達がこの神の王国の到来を求めず、むしろ自らの王国の中に安住し、それを固持しようとするのであれば、自らを王とする私自身の手によって、真の王たる主イエスキリストの霊は退けられ、むしろその者には悪霊が降り、悪魔との交わりの中、神の王国に属する者(兄弟姉妹)を破壊する迫害者となり、やがては自らを滅ぼす者ととなる、サウルと同じ道を辿る者となるでしょう。
しかし、主の勝利はその迫害の中にあっても止めることはできません。むしろそれすらも新たな機会として、宣教は拡大し、神の御国は圧倒的に神ご自身の霊によって、勝利の内に全地を飲み込んでいくことでしょう。
だから、今主はまず私達からリバイバルすることを始められます。
愛する兄弟姉妹、心の準備はできているでしょうか。
主の勝ち取りはまさに始められようとしています。
主のこの勝利の波に、決して逆らうことなくむしろ賛同し、この地を救う主のリバイバルの御業に、今私達も共にあずかろうではありませんか。


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聖書箇所: 申命記1:6-8

イスラエルの民が荒野で40年の時を経た時、主がもう一度変わることなき主のイスラエルへの最初の約束を語りかけ、新しい地に入りその地を主にあって勝ち取るため、ヨルダン川を渡った時のように、主は私達にもう一度私達への主の約束を語りかけ、この地を、この国を勝ち取ると、新しい地に足を踏み入れよと、今語りかけておられます。
この滅びるべき国を救おうと、そのためにこの地を勝ち取ろうと、この約束は変わることがないと力強く語られているのです。
この新しい地は信仰がなければ決して足を踏み入れることはできません。
かつて、カデシバルネアで、人の不信仰は、人の力では決して勝ち取ることのできそうのない、強敵や難攻不落の要塞がある地に後込みし、神の恵み約束を、災いのように罵り、のろい、退けました。
それがゆえに、その不信仰が取り除かれるまで、40年の月日を主は忍耐し待たれました。そしてここにようやく、アブラハムに与えられた変わることのない約束を成就するために、新しい地に足を踏み出せと語られたのです。
しかし、こうして主にあって勝ち取った地でさえ、やがてイスラエルは不信で満たし、神を退け、逆らって、地を偶像で満たし、姦淫と不信と偽りと、それ故暴虐と悪と罪で地を満たしたがために、この地から散らされ、アッシリヤに、バビロンに捕囚されていくこととなったのです。
だから、信仰がなければこの約束の地を不信仰で汚すから、信仰によらなければこの地に入れないのです。
主は私達にご自身を現し、主を恐れることを、また同時に、どれほど大いなる愛をもって私達を愛しているかを教え、私達に信仰を与えようと言われます。
深遠なる神の計画を知り、その計画に歩むために、人の知恵では決して知ることのない、神の知恵を、神の霊によって与えようと語りかけておられるのです。
だから信仰の父たるアブラハムが、深遠なる神の知恵を知るダビデがそう歩んだように、主と共に歩み、共に戦い、共に交わり、そのことによって、主を求め、主に叫び、主に近づき、主を知る道を歩めと私達を励まされるのです。
そして、この信仰をもって新しい地に入ろうと、もう一度約束が神の力によって成ることを、ここに宣言されているのです。
たとえ、私達の不誠実が一度この約束の成就に至らせなかったとしても、神はご自身の誠実をもって、この約束を必ず成すと、全能なる神が私達のこの国を救おうと言われているのです。
これは大いなる約束、最初から変わることのない私達への主の約束です。
さあ、だから愛する兄弟姉妹、もう一度立ち上がり、主と共に、この地を勝ち取りに行こうではありませんか。


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聖書箇所: ピリピ2:1-11

主は、主を恐れ主と心を一つとする者を、まるで父が子を愛するように愛すと詩篇130篇の中に語られます。
まるで神と縁のなかった、その選びに於いても、神の相続に於いても、全くかけ離れていた異邦の国の中に生きる私達でさえ、神はご自身を愛する者をそのように愛するというのです。
まさにこの方こそ天地万物の創造者にして、全ての被造物の所有者、愛にあってこの天地万物を保っておられる方なのです。そしてその方が、その壮大にして、崇高、絶対的な愛をもって、私達を愛すると言われるのです。
さらに驚くべきことにその愛こそ、その愛の故にその全てを、その命さえも私達に差し出し与えるほどの愛なのです。愚かで、もっとも弱き者となった神の姿にこそ、神の人知を超えた愛が現れている。それは私達に決して離れることのできない、忘れ去ることのできない、無視することのできない愛として、私達の心の奥底に刻まれている十字架の愛そのものなのです。
私達はこの愛を知っているのです。
この方が私達の内に命として生き続ける限り、私達はこの愛のしるしを、私達の内に持っているのです。
主イエスがこの地に於いて、公にご自身を現し、神の国の福音を語られるようになった時、主はカナで2つのしるしをこの地に現されました。
それはカナの婚礼と瀕死の息子をいやして欲しいと願う男へのよみがえりの奇跡でした。
まさに婚礼と十字架の死と復活を現すこの2つのしるしは神の計画の中心そのものであり、私達が神を信じるために現されたものです。
そしてこの二つの奇跡は愛が基となって現されたものなのです。
神はまさに同じしるしをご自身の愛をもって私達の内に刻み、神を信じるための世へのしるしとして、私達に与えられているのです。
主がご自身の命を与えてまでも私達を愛されたように私達が互いに愛すること、ここにこの十字架の愛によるしるしは現れます。
そのことによって、世は私達がキリストのものであることを知るのです。
それがキリストに贖われた者達のあるべき教会の本来の姿なのです。
主はこれまで、キリスト教会の中に潜む、憎しみ、争い、無関心、のろいと言った、この愛と相反する事柄が、どれほどキリストの御体なる教会を痛めつけてきたのか、どれほど大切なものを失わせてきたのかということを、今私達に教えてくださっています。
神の愛を知る者として、この愛のしるしを内に抱き、主イエスの愛を真に証しする真の教会となることを、今私達に迫られます。
「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ【ピリピ2:5】」
キリストの愛の故に、キリストと心一つとして、十字架に従うように互いに愛すること、今年主はこのように私達に語りかけておられるのです。

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聖書箇所: サムエル下6章

神の計画を成就するためには、その課程に於いて、人が決して失敗しないという訳ではありません。
聖書に於いてはそのような人の失敗について、むしろ多くの箇所で語られています。
ダビデも、神の箱をエルサレムに運び入れる計画において、大きな失敗を経験しています。
神の箱をエルサレムに運び入れる計画は、ダビデにとっては、神を愛すればこそ思い浮かんだ計画だったと言えるでしょう。
しかし、牛車に乗せた神の箱は途中で牛がつまずいたがために揺らぎ、神の箱を手で押さえたウザは撃たれて死に、この計画は頓挫することになったのです。
そこでダビデは挫折したのです。
神を愛すればこそ、神に従ったはずの歩み。失敗という結果が大きな挫折を生む。ダビデは神に怒りすらしています。
しかし、この失敗にはちゃんと人側の原因がある。
神の箱はレビ人の肩で担われなければならないことは、すでに律法の中に示されているのです。
それを人の過去の経験や知識から、人の方法で行ってしまった。牛車に乗せてしまった。
神はこの中止になった計画を、神の箱が置いておかれたオベデエドムの家を祝福するという形で、ダビデの心を立て直して再開させ、成就させるのです。
ここには深い神の愛と、その愛により信仰を取り戻すダビデの姿を見ることができます。
やがて、この計画の成就は、エルサレムに神の家を建てるという大きな計画にまで発展します。
しかし、ここでダビデは神の家を直接建てることを許されず、その子ソロモンに約束がなされるのです。
多くの人の血を流してきたダビデには、神の家を建てることができなかった。
でも、今度はダビデは神の深い思いを汲み取り、それに従います。
その代わり、彼はその備えのために生涯の全てを注いだと言っても過言ではないでしょう。
だからこそ、神の家を建てるという壮大な計画はソロモンの時代に成就したのです。
このことを見ていく時、神の計画を成就するためには、信仰という大きな要素が必要であるという事がわかります。
信仰がなければ、神を喜ばすことはできません。
見えない約束を見るように歩むことも、またその約束を長い年月待ち望むこともできません。
神の方法に従い歩む続けるため、神の深い思いを知り、それに従うということもできません。
そして、この計画が神の永遠の計画につながり、生涯に渡る歩みであることもわからないでしょう。
しかし、神の私達に任せられる計画は、実は永遠に神の計画の一端であり、私達はその壮大な計画を、永遠を思い、天の御国を思う信仰の内に悟ることができるのです。
それこそが重要なこと。
この永遠の内、天の御国の内に居られる神の御手の内に、私達の祈りが受け入れられた確信こそが、全ての見ていないことを実体化させ成就に至らせる、それが信仰です。
そしてその約束を握り続けて、生涯に渡って待ち望み続けるからこそ成就する、それこそが信仰なのです。
そして、この信仰こそが、神に従う神の民なのか、神に逆らう民であるのかを篩い分ける大きな要素であるからこそ、神の計画を担うための重要な要素となるのです。

今私達に語られている大きな神の計画は、私達の失敗などでとどまるものではありません。
神はご自身の愛と誠実をもって、ご自身の計画を私達の内に成就されます。
今そのために、主が私達に語りかけられる溢れる愛に耳を傾け、この神の計画を成就するために必要な天来の信仰が私達に与えられるように、共に祈ろうではありませんか。


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よみがえりに歩む

2017年01月01日
聖書箇所: ピリピ2:5

主は私達にこれまで多くのことを約束してくださいました。
しかし、その全ては人の力で成し遂げることの不可能なことです。
でもそのことは、神の御業の現れ方に非常にかなっています。
なぜなら、人の力に一切よらない事であるからこそ、栄光が神のみにより現される。神のみがその栄光を賛美されるということとなるからです。
むしろ人の力が使われ、人の手によるのであれば、その罪にまみれた手によりそれはどうしても汚された業となり、また人自らによる業としてどうしても栄光を自らのものとしてしまします。
さらに言えば、この人の力、人の業が神の御業を妨げるものとなるのです。
ですから、主はご自身の約束を神の御業として現されるために、私達を、主の栄光を現すにふさわしい器とするため、試練の内に砕き、あるいはその中で人の力が尽きるのを待たれることがあるのです。
聖書の内にはそのような扱いを受けた人々の姿が随所に語られていますが、ヨセフもその一人でしょう。
彼はまさに主の約束を夢とその解き明かしの内に受け取りましたが、それが自身の身に成就するにはその夢を語られた父ヤコブと十一人の兄弟と共に、試練の中を潜らなければならなかったのです。
その中で、ヨセフの人生にはイエスキリストの十字架の死と復活が現されていました。
まさに人の力の尽きた時、死んだも同様となったその時、人はキリストの死の内に入れられ、一つとなり、だからこそキリストの復活と勝利を見るように、ヨセフも自らの姿の内に、主の御言葉の成就するのを見ました。
これは私達も同様のことが言えます。
主が私達に約束された言葉は、一度主の訓練の内に、キリストの十字架の死と復活の経験を私達自身が体験する中で、やがて成就する。多くの人はこのキリストの死と一つになることを嫌うのですが、そこには本当の主の御業は現せません。
だからこそ主はご自身の御足の跡を、主を愛し、主と共に歩むことを選ぶ者に辿らせるのです。
主を選ぶ者を、主はご自身の選びの民として選ばれる。
祝福を願いその手を離さなかったヤコブの歩みがあったからこそ、この主のご計画はイスラエルの子孫に現されたのです。主イエスの十字架の死と復活と一つにされながら。
だからこそ、私達は主が私達に約束してくださった最初の言葉、福音の中に語り尽くされている主の莫大な祝福を、忘れることなく握りしめ、主の約束が我が身になるために待ち望み生きる必要があるのです。
そして、もしも私達がキリストと共に死に等しくされるのであれば、私達はキリストの復活とも等しくされ、また天に上げられた主と共に、神の御座の前に座する者とされるのです。
この時、全地は主の栄光が私達を通して、現実の世界に現されるのを目の当たりにし、感嘆と賛美と共にその救いが欲しいと主の民に連なる者が次々と起こされていくでしょう。
まさに主の御言葉がここに次々に成就し、真理(キリスト)に従うのではあれば何でもできるという驚くべき主の御業を目にすることとなるでしょう。
主は今このように、主の思いと同じ一つの思いとなって、十字架の死を共有する者に、よみがえりの御業を現そうと語り、溢れるよみがえりと栄光の御業の中に、私達にリバイバルを約束してくださっています。
これは全世界に対する主の勝利の約束です。
今年主の私達に約束してくださるよみがえりの約束の御言葉に、心から主と心一つにし、耳を傾けていこうではありませんか。


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聖書箇所: マタイ2:1-21

主のご降誕の時には必ず語られるインマヌエルの預言イザヤ7:14ですが、実はこの言葉が語られた時、その言葉はそのまま受け入れられたのではなく、むしろ拒絶をされました。
預言者イザヤは当時のユダの王アハブにこの言葉を語ったのですが、そもそも当時ユダが脅かされていたイスラエルとスリヤの王の謀略に対する救いを約束した主の言葉、それを信ずることができるよう、しるしを求めよと主はアハブに迫られた、それがこの箇所です。
しかしアハブはこの主に頼ることはしないと主を拒絶するのです。
そして、語られた預言を自らの力で実現すべくこの2国に対抗するためアッスリヤを金で雇うのです。
そして、むしろこのスリヤの王が崇める神を自らも崇めれば力が得られるだろうと、神の祭壇を捨てスリアの神の祭壇をそこに築き、神を怒らせました。
このことは決して他人事とは言えません。なぜならこのイスラエルの姿は今の時代の日本の状況に酷似しているということができるからです。
近隣国の脅威から守られるために、列強国の力を借りようと同盟関係に右往左往する。
しかし、この平和を守るためシャロームの君である神にのみ頼るということをしない。それは神を知らない者だけではなく、神を信じるクリスチャンがむしろ自らの生活にのみ関心を持ち、主に平和を求めることをしない。
主は今私達をそしてこの国をどのような思いで見つめておられるでしょうか。
このインマヌエルの預言と神への拒絶は、この救い主の誕生においても現実のものとなります。
ユダヤ人の王として生まれる救い主の
誕生を、当時のイスラエルの王ヘロデは危惧し、殺害を企てます。
また救い主の誕生を迎え入れるため選ばれた選びの民であるイスラエルの民も同様に救い主の誕生を、自らの変わらぬ生活を脅かすものとして拒絶し喜ばないのです。
主イエスはこの拒絶の中で誕生しました。
しかし、この誕生を何よりも心待ちにし、喜び、迎え入れたのは、小さく弱い神を頼りとするしか生きることのできないような者達でした。
また同様にはるかいにしえの預言を信じ、ただ救い主を求めて、はるか遠くから旅した博士達。彼らは私達に先駆け異邦人でありながら救い主の降誕を迎えることを許される恵みにあずかりました。
さあ、今私達はどのような面持ちでこの救い主をお迎えするでしょうか。
主はこの救いの必要な罪の熟したこの国に、ご自身が臨まれ救われると幾度も語りかけておられます。
ですからこの時、私達が自らの生活に追われ、世を求めて生きる者達であるなら、この主の訪れは迷惑以外の何ものでもなく、主のご降誕は形だけの喜びの時となるでしょう。
今主は本当に心から主をお迎えする者達を求めておられます。
それは心から救い主を求めるがゆえ、最上のささげ物をささげることのできた博士達のように。
決して人の知恵では辿り着くことのできない、神のご計画された救い主だけにふさわしいささげ物、そしてそこにささげられた最上の礼拝。
今私達が心から主が来られることを求め望むなら、私達は主への最上のささげ物、礼拝をもって、主をお迎えすることができるでしょう。
今回は主のご降誕を心から喜び、まさにこの国に救いを携えて来ると語られる主の御言葉に、心から耳を傾けて参りましょう。


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今が新生の時

2016年12月18日
聖書箇所: サムエル上25章、ルカ5:36ー39

主は私達に今変革を語られています。
それはご自身の栄光を現すにふさわしい器として私達を造り変えるために。
しかし、そのためには私達自身が神の祝福を受ける器として造り変えられることを受け入れ、祈り求めなければ、変革は始まりません。
神は無理矢理には私達を造り変えようとはされないのです。
確かに私達は自らの生き方にあまり変化を求めないかも知れません。
特に救われたままの私達は、魂は救いを受けましたが、しかし生まれたままの肉の性格のままに生活すること、肉の求めるままに生きようとします。
もちろんこのことは神を喜ばせることはできず、むしろ神に敵対する、罪そのものが生み出されていく生き方ですから、そのまま放縦のままに生きるならその道のりは救われる以前の滅びへと向かう道に戻る他ありません。
主は悔い改めて、主の愛に戻るというプロセスを、ここに罪を自覚するというところから始められます。
けれども、この思いに心頑なであるならばその結果は先の通り滅びに向かうのです。
主は私達に変革を促し、今ご自身の変わることのない永遠の中に入れ、その内にしか持つことのできない変わることのない信仰を与えようと、そしてその永遠の内に、私達をキリストの花嫁にふさわしくキリストと同じ姿に、その身丈にまで、栄光から栄光へと造り変えようと望まれています。
それは私達に、本来の神の国に国籍を持つ者としてのふさわしい生き方を歩ませるためなのです。
神はそのことを聖霊と御言葉により私達の内に成し遂げます。
もちろんそれは生来の性格から生まれ変わるという意味に於いて、痛みを伴うものかも知れません。
私達の内にある新しい命である聖霊と、与えられた御言葉は私達を引き裂くほどに、本来の天に生きるべき私達の生き方はこれまでの生来の生き方からほど遠いものと言えるでしょう。
しかし、私達は頑なな愚かな者となってはなりません。
むしろ私達を愛して止まない花婿なる主イエスキリストに愛されるにふさわしく、この身を差し出し、その愛の内に造り変えていただくことを願おうではありませんか。
主がこの地に誕生されたことを祝う待降節の第4週。神は私達がその霊と御言葉をもって新しく生まれる、生まれ変わることを願っておられます。
まさにリバイバルは私達の内側からの変革から始まります。
主が始められるリバイバルの計画がまず私達の内になるよう、共に御言葉に耳を傾けて参りましょう。


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愛により待ち望む

2016年12月11日
聖書箇所: ルカ11:5ー13

私達は主が来られる終わりの日には主から報いを受けるのですが、その基準はまさに律法の中心と言われる神を愛することと隣り人を愛することです。
神に対して私達がどのようであるのかという基準に関してはこれまでも語られてきましたが、同様に神の愛する隣り人にどのようであるのかということも、実は神はずっと見ておられるのです。
主は私達の目的で私達の欲望を満たすために求めることを喜びません。
それは神を敵とし世を友とする視点。
しかしそれによって得るものはなくとも、隣り人のために求める者を主は豊かに恵み愛したもうことを語られています。
その観点でもしもルカ11:5-13を見るのであれば、「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。【ルカ11:10】」という言葉も、その御言葉の求める動機が友人のためであるところから見つめることができるのです。
友のために神の豊かな満たしを求め、真理を捜し、神の御国の戸を叩き続ける。
まさにここに神の愛と兄弟姉妹の愛の満ちる教会の姿を見ることができるのです。
誰も一人で神の御許に辿り着くことはできない。そのように神の御許には教会の人と人との交わりが、そしてその基いに愛が存在してこそ、すべては始まると言えるでしょう。
このことは主が来られると私達に語られる今にこそ必要な視点と言えるでしょう。なぜなら、主が来られる時主はご自身の民を四方から集められ、神の宮をまた都を建て上げるからです。
しかし、今日実際の教会の人と人との関係に目を止めるのであれば、何と多くの兄弟姉妹が、傷つけ合い、怒り、妬み、憎み合っているのか。
何とか表面においては体裁を保っても、その愛は冷えており、そのようなことが如何に永遠の神の宮である教会を痛ませ腐敗させて来たことでしょうか。
だからこそ、ご自身隅の頭石となり、すべての敵意を十字架につけ、主は私達を永遠の愛によって、本来の主の宮として一つに建て上げようと、私達にその敵意を十字架の愛の内に捨てるよう語りかけておられるのです。
まさにこの永遠の宮に住まうため、ご自身の命を十字架にささげられるために神の御子がこの地に来られた。
それがクリスマスです。
互いに主が再びこの地に来られるその日まで愛し、建て上げ合う。主が永遠に私達の内に住まわれるために。
今年主の降誕を待ち望む、主が来られる日を待ち望むこの時に主が語られる御思いに、私達も心から耳を傾けていこうではありませんか。


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聖書箇所: レビ5:17ー19

主はこれまで私達が堪え忍びながら、主がこの国を訪れ救ってくださるのを、備え待ち望んでいたことをよくご存知で、これから主がこの地に最初に来られた時のように、私達の内にご自身の一歩一歩を現そうと大切に語ってくださっています。
それは全地が鳴りどよめき、全ての者がひれ伏し、悔い改めが波の如く広がる、そんな一歩一歩を私達が踏み出す一歩一歩に現そうと語ってくださる、恐れ多いものであり、同時にこれまで苦しみ悩み戦い傷つき歩んできた私達を、主の栄光で満たし贖おうと約束する慰めに満ちた言葉でもあります。
同時に主はだからこそ、「私がこの国に臨もうとしている。あなたにその覚悟ができているか?」と、改めて問いかける。まさにとどまることのないリバイバルの波に飛び込み、それに全てをささげる覚悟ができているかと、私達に問われているのです。
なぜなら、主が訪れる時私達は主に従う者となるか、それとも主を退け敵対する者となるか、私達の心の中にあるものが私達のその後の歩みをはっきり左右させるからです。
だからこそ主は今、私達の心の奥底をご覧になり、隠れた罪をも贖う主として、あわれみ深く心の最も深く隠れたる罪を取り除こうと語りかけられておられるのです。
まさに私達は、これまでクリスチャンの歩みとして、聖書の中に語られること以外に、常識や知識の中に日常を置き、神の真の思いに心を注ぎ、主の御言葉の語りかけに、また主の私達を見つめる眼差しに、心を向けることを置き去りに、信仰生活や教会生活を歩んできたかも知れません。
なぜなら主は今私達のこれまでの歩みを、恵みを得続けてなお主を退け試み続けたイスラエルの民の歩みに重ねて語り、この国の全てのクリスチャンを強く叱責されておられるからです。
なお、世の人々と同じように力を持とうとし、世の豊かさに豊かな者となろうとする者達の姿を見て、「あなたがたの心にあること、すなわち『われわれは異邦人のようになり、国々のもろもろのやからのようになって、木や石を拝もう』との考えは決して成就しない。【エゼキエル20:32】」と主は今はっきりと警告をされているのです。
むしろ、主の御心に従い主に仕えようとする者には、主がその生活の全てに渡り、事細かに心配してくださり、主ご自身の栄光の豊かさの中から全てを満たしてくださろうと、力強く約束し、そこにこそご自身栄光を現すことを、主は喜び、何よりそれを願っておられると語っておられるのです。
だから、人の思いや事情により、全てを押し進め行くことを、主はその根底がサタンの思いと計画にあるものとして、最初の信仰告白をした直後のペテロにさえも強く叱責しておられます。
逆にその思いを日々十字架につけ、主に従って主の御心のままに身をささげ歩んでいくことを、主は私達に望んでおられます。
そこに私達が計り知ることのできない永遠の思いを見ることができる。そしてそこにこそ永遠に向かって揺ることのない歩みを進める信仰の日々があるのです。
主はご自身がこの地に来られる時、この世の宝を、「主のねたみの火」に焼き尽くすと語り、朽ち行く豊かさに、それを求める生き方に何の価値もないことを教えておられます。
ですから、私達は主が私達に与えたもう、「永遠の重い栄光」にこそ目を向けるべきです。
その時私達は永遠の計画を押し進める一歩を歩み出す者として、この地に来られる主をお迎えすることができるでしょう。
今は主が栄光をお取りになるため、この地に来られる時です。私達の内側がいかなるものであるか、もう一度主の前に、その光に照らしてもらい、悔い改め、聖別されて歩む歩みを見つめていこうではありませんか。
共に主の語りかけに耳を傾けて参りましょう。


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栄光の主の花嫁よ

2016年11月27日
聖書箇所: 箴言31:10-31

主はこの国に来られる時、栄光の主としてこの地に来られます
その時初臨の時に主イエスご自身が、ご自身に対して語られているイザヤ書42章の御言葉を指して「この聖句は〜この日に成就した」と語られたように、私達の元に来られる主はこの聖句を私達の内にことごとく成就します。
それはまさに主の栄光の御業。
そしてこの栄光の主は私達の内に御心を成就しようと、王として私達の心の王座に着座し、全地をご自身の御心のままに統べ治められるのです。
「主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。【詩篇96:13】」
まさに全地はこの主の栄光と圧倒的臨在に鳴りどよめきます。
しかしもしもこの時、自らの栄光を求めて生きている者達は、この栄光の主を退けむしろ自らが主から退けられ、滅びへの道へと自らを追いやることとなるでしょう。
なぜなら私達自身が自らの栄光を求めるなら、それを打ち壊して飲み込み圧倒的に超越して現れる主の栄光は、自分にとって邪魔であり危険以外の何ものでもありません。だからこそ自らの栄光を求める者は、生きて働かれる主を退けようと、自ずと神に敵対してしまうからなのです。
この地に救い主として来られた主でさえ、ヘロデ王は自らの栄光を危ぶみ抹殺しようとし、また同様に自らの変わらぬ平穏な生活を求めてこの地のほとんどの人々も主の誕生を喜ばなかったように。
まさにサタンはこのように、人に自らの栄光を求めさせることにより、神の栄光を汚し、神から栄光を奪い、サタン自身のものとしようと、私達の心を利用するのです。そして私達を神に敵対するサタンの支配の元に置こうとします。
私達は主の栄光が現れようとしている今、自らの栄光を求め続けたが故、主の栄光を汚しすぎたことを心から悔い改めるべき時が来ているのです。
まさにこの国は豊かになり、自らの力と知恵によりそれらを得たと自ら神になったかのように自らの栄光を誇ってきましたが、その愚かさは今や自らが招いたのろいにより、滅びに瀕し、私達を囲み繰り返される災いは決してクリスチャンじゃなくても無視できない現状に至っています。
そしてクリスチャン自身もその世の豊かさの中で、自らの栄光を求めることを当然のこととし、主の御心を求めることを二の次として、主の栄光を汚し、この国の滅びをとどめる破れ口に立つことはなかったのです。
しかし主はここに、ご自身の十字架の贖いを現し、二度も三度もご自身を十字架につけるかの如く、ご自身の命をささげることでこの国を救おうとされています。
私達が神から栄光を奪い汚し続ける罪を、十字架にご自身をささげ贖うという形で、神はご自身の栄光を現し、栄光をご自身の元に取り返されます。それこそが十字架に現される神の栄光なのです。
この愛の中にこそ、神の栄光の本質、主は私達を愛すればこそ、ご自身の栄光を現されるのであり、ご自身の元にのみ栄光を置かれるのです。私達に栄光を渡すなら、それを嫉妬と欲望に汚し、争いと血にまみれ、繰り返される歴史が証明する如く、そしてクリスチャンまた教会でさえ堕落し腐敗して行くのです。
私達は今まで主の栄光のみを求め続けて歩んできたでしょうか。
主は今とてもあわれみ深く、主をお迎えするキリストの花嫁として、私達に主への絶えることのない愛をもって、主が来られる日に備え、神の家を、家族を建て上げる日々を過ごし、私達自身が主の喜びとなり栄光となるようやさしく語りかけておられます。
だから今この主を待ち望む待降節の時に、謹んでこの愛の満ちる主の御言葉に、耳を傾けていこうではありませんか。


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